西園寺公衡

 この左大臣とは、西園寺公衡(1264〜1315)である。
そのことは全く明白だというわけではない。なぜなら、延慶2(1309)年3月には左大臣が二人いたからである。
鷹司冬平は延慶2(1309)年3月14日にその職を辞し、公衡が3月19日がその職についた。しかし、徳治3年(延慶元年)の”公卿補任”によると、冬平は既に摂政に任命されており、また、延慶元(1308)年11月11日には藤原氏の氏長者に任命されている。冬平が延慶二年三月十四日に左大臣の職を辞したことは、その昇進の単なる「二次的発表」(「第二度表次」)にすぎなかった。
 和田英松氏(注)は、永享10(1438)年2月28日の『看聞御記』や、天正年間(1573〜92)の『英俊御聞書』(英俊〔1596没〕、『多聞院日記』の著者による)を例証とすることによってそれを立証している。  
 『看聞御記』は、『験記』が「竹内左大臣」(注)に制作を依頼されたということについて触れている。また、『英俊御聞書』は、『験記』の制作を依頼した人を「竹林院左大臣公衡」(注)として名を挙げている。竹内と竹林院は、共に公衡の名として知られている。宮次男氏(注)が提唱したように、『験記』巻1第3段の「竹林殿」は故意に公衡のことを示唆しているのかもしれない。

 公衡は春日明神に対するこれほど大がかりな奉納をどうして思いついたのだろうか。
彼は序文で次のように書いている。「敬神の懇志に耐えず、諸人の仰信を増さんが為、大概之を類集す。」(注)この公衡の熱意は確かな動機だと信じてかまわないだろう。公衡は嘉元2(1304)年9月28日に神火によって直接に影響を与えられた、ということを是沢氏(注)は述べている。
この神火のことは、『験記』巻20第1段と合致している。『さかき葉の日記』(第8章で後述)で少し触れている 、1306年の恐怖を抱かせるほどの託宣もまた、一役を買ったかもしれないが、しかしそれはどこにも明記されていない。ほとんどの論者は、この企画の発願は公衡の政治的運命と関係があったと推測している。

 その運命についての以下の記述は、主として、近藤喜博氏(注)、永島福太郎氏(注)、宮次男氏(注)によった。

 西園寺家は、創始者の公経(1171〜1234)[藤原実宗の次男]の時からずっと栄えてきた。公経は源頼朝の姪と結婚したので、鎌倉と密接に結びついていた。承久の乱の時にしばらく没落した後、公経は太政大臣に昇り、そしてまた、鎌倉との連絡を担当している廷臣の役、”関東申次ぎ”を設置した。公経の息子、実氏(1194〜1269)は、父親のように太政大臣や関東申次ぎとして務めながらより一層勢力を強め、1246年以降関東申次ぎは、西園寺家が代々継ぐようになった。
 (だが、)西園寺家は藤原氏の支族であったので、西園寺家の者は、摂政や、藤原氏の氏長者になることができなかった。摂政や藤原氏の氏長者になるというのは、「五つの摂政の家」(「五摂家」)の特権であった。五摂家とは、藤原氏の「北の家」(「北家」)つまり、近衛家、九条家、一条家、二条家、鷹司家の間の、13世紀からの不和から生じたものである。『験記』の詞書を書いた「基忠とその息子たち」はもちろん、鷹司家であり、『験記』が奉納される時までに、上に述べた称号<摂政、藤原氏の氏長者>を両方とも持っていたのは基忠の長男である冬平だった。
 しかしながら、西園寺家はみごとなことを成し遂げた。実氏の尽力で、西園寺家は、天皇の后となる者を入内させる権利を摂政から奪い取ったのである。実氏の娘は後嵯峨天皇の皇后となり、そして後深草天皇と亀山天皇の母となった。

 それ故、公衡が自分の家系に誇りを持ち、西園寺家の家督を継いだ者としての自分の地位を名誉あるものと考えるのは、もっともなことである。公衡の同母妹は、伏見天皇の后となり、もう一人の妹は亀山上皇の寵愛を受けた。予想されたように、公衡自身は急速に昇進し、永仁7(1299)年に右大臣に任命された。問題はそれから起こったのであった。
 嘉元3(1305)年閏12月に、公衡は後宇多上皇の勅勘を蒙った。後宇多上皇は公衡の二つの領地を没収し、左馬頭としての公衡の役を免職にし、自邸に蟄居させた。後宇多上皇の動機は不明であるが、公衡が自分のである恒明親王を皇太子にするという企てに対する不満と関係があったのかもしれない。
 公衡は、この公然たる侮辱にかなり落ち込んだに違いない。嘉元4(1306)年2月8日に公衡が『不空羂索神呪心経』(『大正新修大蔵経』第20冊p.402、no.1094)[現在、東京国立博物館にある]の模写を完成させた(近藤氏)(注)ことからみて、明らかに彼は、春日に傾注していった。
 その写本は紺紙金泥である。不空羂索(サンスクリット語でAmoghapasa)は、春日明神にとって主要な本地であり、この経は、藤原氏の廷臣達の日記にしばしば見られる。
 12日後、鎌倉の介入によって公衡は赦免された。
恐らく、公衡は自分の信仰心が、春日明神を「動かせた」と考えただろう。ともかく、徳治4(1307)年1月16日、彼は社で7日間の参籠を始めた。公衡は次のようなことを祈ったに違いない。前年の1月から後伏見天皇の后となっていた彼の娘、寧子が男子を産むこと、そして、様々な方面で西園寺家の繁栄が完全に回復することを。そして恐らく、この時に彼は『験記』を思いついたのだろう。『験記』は、このわずか2年後に奉納された。
 このようにみてくると、『験記』の序文にある公衡の言明、即ち、「凡そ、此の懇志を企つるの後、家門、事に触れて吉祥有り。爰に祖神の冥慮に相叶ふを知らんか」(注)を充分理解することができる。
 確かに、公衡に好運が訪れた。第一に、延慶2(1309)年1月に寧子は広義門院という称号(「院号」)を与えられた。また、延慶元(1308)年11月16日に、その時に天皇になった花園天皇の「名義上の母」(「准母」)に任命された。それから、延慶2(1309)年2月に彼の息子、実衡(1290〜1326)は権中納言に任命された。既に記したように、翌月、公衡自身は、左大臣に任命された。彼はそれ以上地位を昇りつめる必要はないと明らかに感じて、延慶2(1309)年6月15日にその職を退いた。吉田兼好は、『徒然草』第83段にこう書いている(Keene氏)(注)
   竹林院の左大臣入道殿、太政大臣にあがり給はむには何のとゞ
   こほりかおはせんなれども、「めづらしげなし。一の上にてやみ
   なむ」とて、出家し給にけり。(注)
 しかしながら、永島氏によって特に議論された(1963)新たな困難がおとずれるまでは、こういったことは起きなかった。
 公衡は先祖と同じく、関東申次ぎだった。徳治2(1307)年の終わり頃、興福寺の、鎌倉に対する多くの不満の一つが爆発した。公衡は興福寺と鎌倉の中間的な立場にいたので、寺側から敵意を受けることになった。その事件は延慶元(1308)年7月になってやっと決着がついた。  
 永島氏(注)は、公衡が『験記』を感謝の表れとして撰集した可能性があり、そうすると、『験記』の仕事はその日になるまで始まらなかったかもしれないと、示唆している。これが信頼できるかどうかは、『験記』を完成するのにどれくらいかかったかと考えられているかによる。近藤喜博氏は、おおよそ2年間は十分かかっているといくつかの記事で主張している。(注)

 このような形で春日明神を崇めるという考え方は、その当時広まっていたかもしれないということは十分想像できることである。公衡は他の方法でも、明神の加護を捜し求めることができただろう。それらの方法のうちのいくつかは、多くの藤原氏が彼以前にしたように一層費用がかかるものであった  。藤原氏の栄華の全盛時代は終わったということは、まだ完全にはっきりしていなかった。一門には、自分たちの古代から続いている役割を顕示したいという理由があった。
 さらに元寇によって、他の重要な神社に対するのと同様に、朝廷は春日に対する関心を強めていった。そして、解脱上人や明恵上人のように偉大な学僧の教えは、春日信仰に新たな熱心さを与えた。『験記』の全体のメッセージ--最高の教えが春日に存在しているというもの--は感動的なものであり、一人の人間の、一族の、または藤原貴族そのものの政治的な成功以上に、それは大きな広い意義を持っているものである。公衡や彼の協力者の、そのような考え方によって鼓舞された想像力を否定する必要はない。
 確かに公衡は、その他の、近年の大がかりな絵巻物の計画について知っていたかもしれない。『一遍上人絵伝』は1299年に完成していたし、比叡山の神の霊験を讃えた『山王霊験記』9巻はおよそ1288年頃に完成していた(中野氏,)。春日・興福寺と比叡山の間の激しい競争(『験記』にかなりはっきり見て取れる)が生じているため、公衡は春日に敬意を表して、比叡の験記を上回るものを作ってもいい時だと、感じていただろう。
 さらに『験記』だけが、奈良(南都)に対する彼の唯一の贈り物ではなかったかもしれない。永島福太郎氏(注)は、偉大な中国の巡礼者でありかつ経典の訳者である玄奘(600―64)の人生を美しく説明した『玄奘三蔵絵』12巻は、公衡の命令で隆兼によって描かれ、そして公衡によって、彼が春日に『験記』をさし出した時に興福寺へ献じられたと、述べている。

基忠と彼の息子、そして覚円