奈良女子大学学術情報センター
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出雲路日記 本文 付翻刻 行程表 行程図
 

『出雲路日記』と『土佐日記』


 この日記はいにしへのかな文の旅路の日記のさまにならひてたゞしくかきたまへれば…
 藤井高尚の『出雲路日記』(以下『出雲路』と略記)本文の前には、この様な書き出しの、出版者によるいわば宣伝文句が記されている。「かな文の旅路の日記」とは紀貫之『土佐日記』(以下『土佐』と略記)の事だ。この宣伝文句は最後に

 かな文の日記のことは松の落葉といふ書にくはし

と、ぬかりなく同著者の他の著作を紹介しているから、その『松の落葉』の該当部分を次に挙げてみよう。

○かな文の旅路の日記
 かなぶみのたび路の日記は、貫之主の土佐日記なんはじめなりける。(略)かな文の記は…旅の情をかきあらはすをむねにて、あはれを人に見えんとては、ものはかなげなることをもいふことになん(略)さるは歌をかきまじふれば…歌物語のさまにかよへばなり。(略)

『出雲路』には、確かに、一日たりとも記事を省かないという形式の点を始めとして「いにしへのかな文の旅の日記のさまになら」っていると指摘できる部分がある。本稿では『土佐』の影響という角度から『出雲』を眺めてみたい。

(一)文章表現
  きさらぎはつかあまりひと日のひのうの時にかどです
 これは『出雲路』の書き出し直後の部分を載せたものだが、直ちに『土佐』の最初部「それのとししはすのはつかあまりひとひのひのいぬの時にかとてす」を想起する事ができるだろう。『出雲路』ではこの様に『土佐』中の文章表現をほぼ同文で使用するということが行われる。他例を挙げる(便宜的に(1)〜(6)の番号を付し、先に『出雲路』(丁数)、次に『土佐』(日付)の順で並べた)。

(1) 3オ「雨ふればつまはじきをしてねんとするに」…1.27「風やますつまはしきしてねぬ」
(2)  12ウ「このよめる歌ども所を見るにはたとしへなくおとれり」…1.9「このうたはところをみるにえまさらす」
(3)  14オ「舟出して米子をおふ」…1.11「ふねをいたしてむろつをゝふ」
(4)  14オ「此のあひだに事おほかり」…1.7「かくてこのあひたにことおほかり」
(5)  16オ「十一日あさのまあめふり巳の時ばかりになごりなくはれぬ」…2.1「二月一日あしたのまあめふるむまときはかりにやみぬれは」
(6)  16ウ「あけぼのにおきててあらひれいの事 どもして」…1.11「かかるあひたにみなよあけてゝあらひれいのことゝもして」

 もっと短い表現の例では『出雲路』1ウ「うまのはなむけ」「あるじしのゝしる」、2オ「此ころの出でたちいそぎ」、2ウ「川のもうみのも」、11ウ「酒よきものおこせつ」をあげることができる。

 こうした引用表現は、実は別に『土佐』に限らず『出雲路』の中に散見する。他に『万葉集』『伊勢物語』『源氏物語』などが踏まえられているのだが(論の末尾に載せた)、先に挙げたほどの近似した表現を、まとまった量で引いている作品は、他にない。

(二)『出雲路日記』の用字
  きづきの宮にまゐらんとははやうより思ひわたりてえいでたゝざりしを
 この『出雲路』の冒頭と、次に挙げる出雲大社での祝詞

  年来思ヒ賜ヘテ不参ズ怠タリテ在ツル罪ハ免シ賜ヘ (表記は読みやすく改めた)

を読めば、この旅の絶対的な目的、出雲大社参拝の場面に目を注がざるを得ない。本文では八オから十ウの辺りに相当する。この部分は、出雲大社の春の大例祭に高尚が参加した為に、その神事の進行が細かく記録されていて、この前後とはやや異質な雰囲気が漂っているのである。先に列挙した『土佐』表現の引用を見ると、3ウから12オまでの間に空白があることがわかる。他の作品の引用を入れても4オから9ウの間は空白になる。
 つまり、小さな見落としもあるかもしれないが、他作品からの引用表現を載せている位置は、『出雲路』の前と後とに偏っているのである。この原因として出雲大社の神事―やや特殊な様子―の詳述も無関係ではないだろう。作者は念願の参詣に心を奪われ、引用の欲求を感じなかったのではないか。

 祭の詳述について、用字の方向からも考察を加えてみたい。『土佐』を念頭に置いて旅路の日記を書いて行くにあたり、「かな文」という意識は『出雲路』の用字にどのような制約を与えただろうか、という事が当初の疑問にあった。しかし『松の落葉』にも特に漢字数の制限については触れられておらず、『出雲路』に見られる漢字の量も、「かな文」としての配慮の見られるものではないと思われた。以下に簡単に述べる。

 字数も情報量も全く異なる二作品を並列に比較するなど乱暴すぎるが、『出雲路』と『土佐』とを比べて述べてみる(全字数に対する全漢字の割合を、パーセンテージで付した)。貫之自筆本に最も近いとされる青谿書屋本には、三十四種類の漢字しか使われていない(日本古典文学大系の解説。約0.5パーセント)。又『土佐』普及の中心的存在であった定家自筆本(都合により「定家本土佐日記仮名字母索引」工藤紀子 東洋大短大論集日本文学編二十S59.3を利用した。尊経閣叢刊に影印がある)を調べると、漢字の種類は百十五と大きく増加する。ところが『出雲路』には、祝詞の漢字は省いても、実に二百六十九種類の漢字が出てくる(約13パーセント。祝詞を入れれば15パーセント)。
 例えば十二画以上のものには、「興、暁、緒、霧、雁、鏡、橋、鱸、麓、鈴、新、穂、嶋」がそれぞれ一度ずつ、「夢、暮、継、溝」が二度、「朝」が三度、「霞、過、勝」が四度、「瀬」が五度、「御、路」は六度以上ある。定家本でも用いられる漢字は「猶」が九度、「散、等」が二度、「影、霜、雲」が一度にすぎない。文字の使用法は大きく違う。
 ここで『出雲路』が「かな文」とは遠くなってしまった原因の一つに、更に神事の詳述を数えても良いだろう。第一に祝詞は全文が漢字表記であり、その他神事の進行の説明にのみ使われた漢字も若干ある。これらは「紫、袴、麻」の他に「弓矢、琴板、輿、神部、上官、高杯、机、斎服、両臨再拝、祝詞、獅子、儀式」の用語に伴うもので、他の場面では一度も用いられない。

(三)
 日記の形式や「きさらぎはつかあまりひと日のひのうの時にかどです」と言う、『土佐』本文のもじりに始まる本文、その他多数の表現引用から、確かに『出雲路』は『土佐』を一応のワクとして書かれたと言えるだろう。しかし第一の関心事だった祭内容の記述には『土佐』そっちのけの、藤井高尚本人の書き方を見ることができる。
 国学者として、本居宣長亡き後鈴屋学派の中心的存在だった高尚が、六十五の年に念願の出雲大社参りをする。咲き初めた桜の時期から梢も薄緑に染まる頃にかけての旅行は心穏やかなものだったろう。

  見つゝゆく 柳さくらの 春の旅 たびをうしとは たれかいひけむ

『出雲路』は『土佐』を踏まえて書かれた一面を持つ。しかし、『土佐』にとらわれる事は決してない。『土佐』のワクに収まらない場合には、自由にワクを越えている。この旅日記に『土佐』の色を添える事は、高尚にとってはまるで一種の遊びのようにも感じられるのである。


 以下に『出雲路日記』中の引用箇所一覧を挙げる。『土佐日記』は除いてある。

1ウ、-2 まらうどさね
   『伊勢物語』百一段「藤原良近といふをなむ、まらうとざねにて」
2ウ、2 しら雲の道ゆきぶりに
   『古今集』30 春くれば かりかへるなり 白雲の 道行きぶりに 言やつてまし
3ウ、-4 ゆついはむら
   『万葉集』22 河上の ゆついはむらに 草むさず 常にもがもな 常処女にて
『祝詞』(六月月次)四方ノ御門ニ湯津磐村ノ如、
3ウ、-2 あめのやす川
   『古事記』(上、天の安の川の誓約)「…おのもおのも天の安の川を中に起きて誓ふ時に」
10オ、-4 高天ノ原にちぎたかしり
   『祝詞』(六月月次)「高天原ニ千木高知テ」
10ウ、4 あらうみのかしこき道も
   『万葉集』3694わたつみのかしこき道を/4432うなばらのかしこき道を
11オ、-5 竹あめる垣にうをどもかけてほしたりうつぼの物語にかゝるさま見えき
   『宇津保物語』(吹上・上)「漁人のいをども数多懸けて乾す」
12ウ、4 こは出雲風土記に見えたる葦原の社にて
   『出雲風土記』(楯縫郡)「山口社 葦原社 又葦原社」
13オ、3 山ぶしのひじり心
   『源氏物語』(若菜・下)「いかてさる山ふしのひしり心にかゝることゝもを」
13オ、-2 岡のおかみ
   『万葉集』104 我が岡 のおかみに言ひて 降らしめし 雪の砕けし そこに散りけむ
14ウ、2 よからねどこゝにかみしぞ侍るとて…われをまちざけならねども
   『古事記』(中、仲哀)「…息長帯日売の命、待酒を醸みて奉りき」
『万葉集』555 君が為 醸し待酒 安の野に 一人や飲まむ 友無しにして
14ウ、-4 めづらしき山は大やま世にしらぬたかきみ雪をやよひにも見る
   『伊勢物語』(九段)「時知らぬ 山は富士の嶺 いつとてか 鹿の子まだらに雪の降るらむ」か
15オ、5 夜をこめてたちいづ鳥ならねどかのおどろ\/しき坂を朝こえせんとて
   『後拾遺和歌集』939 夜をこめて 鳥の空音は はかるとも 世に逢坂の関はゆるさじ
15ウ、2 げんじの物語のやとり木の巻にいでやありきはづまぢをおもへばいづこかおそろしからん
   『源氏物語』(宿り木)「いてやありきはあつまちをおもへはいつこかおそろしからんなと」(河内本系)


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