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 我耳東氏 女子教育論

未刊の翻訳書--宮崎駿児訳「我耳東氏女子教育論」の意義

   『いま女子教育を問う---日本近代女子高等教育史考』 山田昇著 大空社 より

はじめに
一 女性の教育機会の拡充に関する未刊の翻訳書『我耳東氏女子教育論』
二 『我耳東氏女子教育論』とオルトン氏の原編著
三 『我耳東氏女子教育論』の性格
四 ウォルストンクラフトと女子教育の略史
五 男女混合教育をめぐって
六 女子高等教育の問題と展開
七 文部省『教育雑誌』にみる欧米教育の認識と別学政策
おわりに

 はじめに

 わが国の近代的公教育は、近代学制発布後まもなくの明治十二(一八七九)年男女別学制度を確立し、その是非をめぐる論議は決して多くはなされなかった。
 きわめて長期に渉る封建制の下で維持されてきた男尊女卑思想が、近代化の過程で安易に再編受容され、小学校でさえ、別学を原則としながら例外を認めただけであった。
 わが国における近代公教育制度の中に、男女別学の制度が形成された当時は、国際的にもなお男女別学のシステムは一般的であった。
 しかし、同時に、欧米においては、その頃すでに、女性の高等教育・専門教育および男女共学の問題が、真剣に論議されていたことは看過することができない。そこに、十九世紀から二十世紀初頭にかけての公教育の整備の過程における、わが国と欧米との大きな隔たりを認めざるを得ない。

 本章では、わが国の男女別学制度が形成された時期に書かれた、未刊の翻訳書「我耳東氏女子教育論」(宮崎駿児訳)の歴史的意義を考察することを主な目的としている。
 この翻訳書は、墨筆手書きのただ一書しかない、まさに幻の翻訳書というべきもので、奈良女子大学附属図書館明治教育文庫に所蔵されているだけである。
 この翻訳がなぜ印刷されなかったのか、なぜ奈良女子大学図書館にあるのかその理由も明らかでないが、「文部省訳本」と記した古書店名の入った栞が表紙に貼付されている。
 この翻訳書は、ついに刊行されずに、何かのおりにおそらく文部省書庫から処分されて古書店に出回り、奈良女子高等師範学校に購入されたものではないかと推察される。

 後にも述べるように、この翻訳書は、いったん下訳した後に、明治十三年六月二十日には、第一編を改編浄書し、その後こつこつと改編浄書が続けられ、最後の第十八編を明治十五年二月十七日に完了している(各編ごとに日付が記入されている)。
 おそらくこの書の翻訳に、宮崎は、三年も、四年もかけたものと思われるが、全二十六章、緒言と附録を含む大きな仕事である。

 表題は、『我耳東氏女子教育論』となっているが、その内容は、女子の高等教育・専門教育に関する論説及び男女共学の功罪に関する論説が集められたものである。
 しかもこの翻訳書が書かれたのと全く同時代の、その直前の日本の明治維新から明治六年頃までのイギリスやアメリカで展開された女子の高等教育・専門教育および男女共学に関する論説が集められている。

 奇しくも、わが国では明治十二年教育令によって、近代教育における男女別学の規定が明定されたその時期に、この翻訳書は月日を重ねて書き続けられたが、遂に陽の目を見ることもなく、そのまま長い眠りについて奈良女子高等師範学校、奈良女子大学に所蔵されてきたのである。

 筆者は、奈良女子大学に赴任して後、明治期の教科書等を中心に集めた「明治教育文庫」の中で、宮崎駿児訳の『我耳束氏女子教育論』を見出し、その精査に着手しようとしていたが、校務及びその他の公務多忙のため、たちまち多くの歳月を費やしてしまい、この訳書の検討を後回しにして今日に至ってしまった。
 したがって、この研究作業には、多くの課題が残されており、まだ研究途上にあって十分に解明し得たものではないが、定年により奈良女子大学を去るに当たって、現段階で判っている事実に基づいて本章のもとになった論文をまとめることとしたものである(『奈良女子大学文学部紀要』第四二号に本章のもとになった論文を執筆した)。

 日本の近代教育における男女別学制の形成や、女性にとっては長く厳しかった高等教育の門戸遮蔽の問題は、橋本紀子の『男女共学制の史的研究』(一九九二年、大月書店)等が扱っており、また明治十年代の教育政策に関する基礎的研究も少なくない。
 しかし、男女別学制度の選択にあたっての背景的事情や、その論議の詳細については、『元老院議事録』等に公的に明らかにされたもの以外に、その事情を解明する手がかりは多くはない。
 当時の『文部省日誌』や『文部省教育雑誌』によっても、その間の詳細な事情を知ることは出来ない。
 しかし、男女別学制度が明治十年代の早期に選択され日本の近代教育の性格を強く決定づけた意味についてはきわめて重要である。すでに、明治維新当時に欧米では男女共学の議論や、女子高等教育の問題が真剣に論議されていたからである。

 本章では、別学制度の成立過程を背景にしながら、おそらくきわめて文部省に近いところでは、すでに欧米の女子高等教育論や女性の人格の自立、男女混合教育が精力的に注目されていたにもかかわらず、当時のわが国の近代化の性格のために、その成果も刊行されず、その情報は覆い隠され、それは長く陽の目を見ることさえなかった一冊のマニュスクリプトが存在する事実について考えてみることとしたい。
 


一 女性の教育機会の拡充に関する未刊の翻訳書『我耳東氏女子教育論』  

既に述べたように、奈良女子大学所蔵の「明治教育文庫」に、『我耳東氏女子教育論 静岡 宮崎駿児訳』(明治十三年、十四年、十五年改編浄書)という未刊の稿本がある。

 翻訳者の宮崎駿児については、『公文録官員之部』(国立公文書館所蔵)に、「明治七年五月二十日 大外史 静岡県士族 宮崎駿児 印書局御用掛申付候事 但月給二十五円」の記事があり、「宮崎駿児 印書局御用掛免解願 明治七年十一月十五日」、続いて「十一月二十日受理二十二日正院許可 史官より静岡県へ連絡」という記録をみることができる。
 この記事によって、宮崎駿児は、静岡県から出仕して、一時、中央官庁の印書局に所属していたことがわかる。
 当時の正院の組織は、内史所管と外史所管に分かれ、外史所管は、外史本課、記録課、用度課、印書局・博覧会事務局に分かれている。
 なお、内史所管には、法制、歴史、地誌、翻訳局などが含まれていた。
 つまり洋学を学んでいた宮崎は、中央官庁の正院の外史所管の印書局にごく短期間であるが、勤めていた事実がある。

 しかし、その後の、宮崎駿児の足跡は、ほとんどわからないが、次のような翻訳書及び初等教育教材等が、刊行されていることは確認できる(国立国会図書館所蔵、なお『百科全書南亜米利加地誌篇』については、復刻版が刊行されている)。

 宮崎駿児訳『修身教訓 コウドレイ編 モラルレツスンス』 明治十年一月
 宮崎駿児訳『百科全書南亜米利加地誌篇』 明治十二年二月
 宮崎駿児編『初等作文規範』上下二冊 明治十六年五月
 宮崎駿児編『石野得太郎校 新撰小学博物書』三冊 明治十七年三月

 これらのことから、宮崎駿児は、一時的に中央の翻訳事業にも関わつており、『百科全書』の翻訳の一部を担っていた。
 とくに『百科全書南亜米利加地誌篇』は、イギリスのチエンバース版百科全書の翻訳事業の一部で、文部省から出版されたものである。
 おそらく百科全書の分担を終えた後に、明治十二年頃から、明治十三年、十四年にかけて、『我耳東氏享教育論』の翻訳に従事したものと思われる。

 しかし、その後は、宮崎編の初等教育教材を二点見出すことができるのみである。
 『初等作文規範』は、作文の実用的指導書であり、『新撰小学博物書』には、「此書ハ動物植物鉱物ノ三者ニ就キ其簡要ヲ纂抄シ以テ小学教科ノ書冊ニ供セントスルノ目的ナリ故ニ名ケテ小学博物書ト云フ」と記されている。  

 このように、現段階では、かすかな痕跡しか見ることが出来ない宮崎駿児であるが、未刊の稿本『我耳東氏女子教育論』は、きわめて精力的な翻訳であるにもかかわらず、ついに今日まで陽の目を見ることがなかったのである。  

 なぜ、本書が刊行されなかったかを、正確に解明する手がかりはもはやなく、奈良女子大学図書館「明治教育文庫」に所蔵されていたが、果たして、真に「文部省訳本」なのかどうか、それがなぜ奈良女子大学に、あるいは、奈良女子高等師範学校に所蔵されるに至ったのかもわからない。  

 「明治教育文庫」がどのように集められたかという経緯についても、これまでの調査では、もはや明らかにすることは困難な状況にあることがわかった。  

 本書は、いったん、一章より、三十六章まで書かれた後、全体を改編して、再編浄書されたものと推定することができる。
 すでに、「はじめに」にも述べたように、緒論と第一章を含む改第一編が、明治十三年六月二十日の日付となっており、以後順次作業が進められ、明治十四年には年間を通じて作業が積み重ねられ、改第十八篇「我耳東氏女子教育論附録」がまとまったのが、明治十五年二月十七日の日付となっている。
 改編の編成に約一年半、それ以前に素稿が、ほぼ用意されていたものと思われ、明治十一、二年頃から着手された仕事ではないかと推定される。  

 宮崎本は、三十六章まで翻訳した後、改編して、改第十六篇にもとの二章の統きから、五章までを納め、改第十七篇に五章の続きを納めるなどややこしい操作をしている。
 このことから、改編によって、かなり大胆に原編著の順序を入れ替えたりしようとしたことが明らかであるが、このように原著の内容を変更して、大胆に改編しようとしたその理由も今のところ全く明らかではない。  


二 『我耳東氏女子教育論』とオルトン氏の原編著

 それならば、『我耳東氏女子教育論 静岡 宮崎駿児訳』の原本とはどのような書物なのか。  

 筆者は、この翻訳書の存在を確認しながらも、落ち着いてこのマニュスクリプトの研究に従事する機会を先延ばししてきたために、つい最近まで『我耳東氏女子教育論 静岡 宮崎駿児訳』の原本が何であるかに到達することができなかったのである。
 しかし、現在確認し得たことは、『我耳東氏女子教育論』の原本は、ジェームズ・オルトン(James Orton (1830〜1877))の編集した『女性の自由教育論 英米におけるその要求とその方法と現代思潮』「 The liberal education of women : the demand and the method. current thoughts in America and England 」(一八七三年刊)という一書であるということである。
 現在では、ガーランド社から「婦人と子ども」に関する古典として、一九八六年に復刻版が刊行されている。  

 当時オルトンは、バッサー・カレッジの教授で、『アンデスとアマゾン』などの著書のあることが原著の扉に掲げられている。
 宮崎駿児が百科全書の翻訳では、『百科全書南亜米利加地誌篇』を担当した当事者であることを考えあわせると興味深く思われる。
 また、筑波大学には、オルトンの編書の初版が所蔵されており、東京師範学校図書と押印されていることから、本書は、師範学校を東京師範学校と呼んでいた明治六年から明治十九年(東京高等師範学校に改称)までの間にすでにわが国に納入されていた事実のあることも明らかである。
 わが国で初版原本が確認できるのは、現在この一書のみであり、筑波大学所蔵の東京師範学校の関係書類を調査したが、東京師範学校と宮崎駿児の関係を示す痕跡は見あたらない。
 いずれにしても、オルトンの編纂した原本の初版が日本にその当時から所在していたことが確認できることと、また宮崎駿児によるその当時の翻訳書が存在することはたしかである。  


三 『我耳東氏女子教育論』の性格  

 それならば、『我耳東氏女子教育論』はなぜ出版されなかったのか、この本の内容は、どのような内容だったのかを考えてみなければならない。
 本章ではオルトンの編著書にさかのぼって検討する余裕もないので、その内容を宮崎駿児の訳述を利用しながら紹介し、本書がどのような内容だったのかについて考えてみたい。  

 オルトンの原著を開くと、その扉に、エリザベス・ウォルステンホルム(Elizabeth C. Wolstenholme (1834-1914))の次のような言葉が挙げられている。  

 「われらに知識と力と真に生きることを与えよ。
 そうすれば、われらはこの贈り物に百倍も報いるであろう。
 暗い獄舎の中で、束縛と無智と愚行を嘆く女たちを解き放て。
 残酷な暴君たちをおとしめよ。
 うんざりしているとあなた方が言う、その不真面目な支配を終わらせるのは、イギリスの人々、あなた方自らの手にかかっている。」

(筆者訳)
 ウォルステンホルムは、両親の死後、後見人が女性の教育について古い考えを持っていたため満足に教育を受けさせてもらえず、独学で勉強した女性である。
 そして、一八五三年には相続した財産で、マンチェスターに自分の寄宿学校を興した。
 彼女は、教職は、高度に技術的な職業であると考え、一八六五年には女教師協会に参加、さらにジョセフィン・バトラー(Josephine Butler (1828-1906))とともに女子高等教育北イングランド会議の設立を援助するなど女性教育の質の向上のために大変な情熱を持っていたという。
 なお、ジョセフィンは、裕福な育ちの中で、父親の影響で不平等や不正を嫌忌する生活感覚を身につけていたが、結婚後、六歳の一人娘を亡くし、この悲劇の体験をきっかけに救貧院や若い街娼(売春婦)の救済に取り組み、次第に女性の教育に深い関心を持つようになった。
 その中でウォルステンホルムらと交わり、女子高等教育会議の会長となり、ケンブリッジ大学への要求運動にも参加し、ニューナム・カレッジの設立に貢献した。  

 また彼女は、『女性の仕事と女性の文化』の中で、両性は、社会においてそれぞれ異なった役割を果たすのだから男性と競争する必要はないとして、女性の特別な役割を論じたが、その特別な役割とは弱者に対する保護と世話ということであったという。
 彼女は、低賃金と失業のために苦境にある娼婦たちに深い同情をよせ、また子どもの売春問題にも取り組んだという(エリザベス・ウォルステンホルムとジヨセフィン・バトラーの概略については、Spartacus Internet Encyclopedia を参照した)。  

 ところで、原著を開いてみると、冒頭の緒言には、「此書ハ婦女ノ高等教育即チ専門教育ニ就キ近世英米両国ニ於テ発出シタル論説」を取り扱った書であると述べており、明らかに女性の高等教育・専門教育を論ずるという視点が設定されていて、驚くほど斬新な内容に満たされている。  

 要するに、本書は、一八七〇年前後のイギリスとアメリカにおける女子高等教育・専門教育及び男女共学に関する論説を編纂した書である(以下、カタカナ混じりの引用文は、すべて宮崎の訳書を直接引用したものである)。  

 さらに緒言を見ていくこととする。  

 「婦女ノ才智ヲ侮慢シテ顧慮セサルモノハ特リ歯莽ト視做サルヽノミナラス尚ホ之カ為メニ其力ノ足ラサルトコロニ誹謗ヲ受ケベキ時期ニ至レルヤ確然タリ 然リト雖トモ今後ノ女子ヲ教育センニ如何セバ其精密ナル良法ヲ得ヘキヤ今尚ホ世上ニ討論ノ一論題トナリテ存スベシ」と、女子高等教育はもはや必然的であるが、なおその方法等をめぐって多くの問題のあることを指摘している。
 そして、当時においては、すでに「四種ノ経験」が行われており、それは「大学校ノ試験」「講義法ノ組織」「男女混合ノ専門校」「女学専門校」などによって女子高等教育の道を切り拓くことである。  

 しかし、エディンバラ大学の場合でも、大学の制度を緩やかにして女子に門戸を開いたことは進歩だが、まだ教育の方法を十分に備えているとはいえない、少女たちが興味を持ちそうな内容もあるが、まだ学べる内容は薄っぺらで、教育方法の工夫もなく、思考力を育てるような工夫もなされていないと指摘する。  

 ケンブリッジ大学の場合も、教育法について進歩を見ることはなく、「唯婦女ヲ恵憐シテ椅端ニ即カシメ意味ノ深重ナル講義ヲハ傍聴セシムルヲ纔ニ許ス」だけで、「全ク制則ナル教育ノ求需ト及ヒ男子ト一様ナル教育ヲ得ントスル方法ノ希望(男子ノ受クルトコロノ方法ニ全ク同一ニ非ルモ)」には応えるものにはなっていないと述べる。  

 わずかに、「イヂンボルグ府協会ノ方法トヒツチン専門学校ノ方法」は注目され、「イヂンボルグ府協会」は、女子高等教育を目的として「此地ノ大学ト結合セントスル」ものであり、「ヒツチン専門校ナルモノハ即チケンブリツヂ大学ニ入ルノ予備校ノ一種類ニシテ師範学校ト専門学校トヲ結合シタルモノ」である。  

 これに対して、アメリカでは、「ヲベリンニ於テハ混合教育上ノ理論ノ試験」を試み、「男女ヲシテ一教則ノ中ニ教育スルヲ得ヘキモノ」としている。
 しかしながら、「別ニ女子ヲ教育スル学科ノ設ケ」もあり、中途半端なところがあると評価している。
 また、「ミシガン及ヒコルネルノ両大学校ニ於テ初メテ女子ヲシテ入校セシメ以テ男子ト一様ナル権利ト及ヒ交際上ノ置位ヲ与へ而シテ教場中ニ男女ノ分界ヲ盡クセス」というやり方を行っている。
 また、「バツサル校ニ於テハ是迄男子ノ特有シタルトコロノ高等ニシテ完全ナル教育ヲ少婦ニ授ケ以テ女子専門校ノ其得失ヲ試験スルニ八年ノ間、続々トシテ其成果ヲ得決シテ之ガ為メニ将来ノ難事ヲ招クカ如キハ茲ニ表セサル」事実もある。  

 以上のような状況の中で、著者は、「此著書ノ目的タルヤ数種ノ理論ヲ研究セスシテ其一説ヲ賛成賞誉スルニアラズ 卑ニ其主義ヲ世間ニ公ニシ以テ女子ノ生涯ノ貴重ナル事ト及ヒ其教育ノ貴ムベキ深意ヲバ衆人ニ覚悟セシメントスル」ことを意図したものだというのである。
 つまり、本書は、一つの立場を主張するのではなく、反論も含めて複数の意見を提示するものだが、ただ、女性の生涯の貴重なことと、そのために教育が尊重されるべきことについて衆人に覚悟を求めるというものである。  

 著者は、大きな社会変化の中で、「余輩ガ祖母時代ノ女子ヲ見ルニ裁縫ニ勤ムルカ或ハ果物ヲ貯蔵スル等ノ業ヲ営ムヲ以テ終日家居シ之ヲ以テ足レリトセリ 然ルニ其子々孫々ニ下テハ大学校ノ門戸ヲ推叩シテ之ニ入校セントスルヲ希望スルニ至レリ 即チ世上一般ノ感覚ニ於テモ亦之ト一様ナル変動ヲ起シタリトス」と述べている。  

 「婦女ヲシテ大学ニ入校ヲ許サントスルノ便宜ヲ熟慮スベシ」との意見は、もはや止まるところなく、これに反対する者は、「必ス海底ノ化石間ニ墜チ底ノ又底下ノ化石間ニ墜ルベシ」という状況であると緒言を結んでいる(原著には、Shermanの March to the Seaとして、次の詩が記されている。

  He that will this faith deny, Down among the fossiles he shall lie; Down, down, down, down, Down among the fossiles he shall lie!)

 以上のようにみると、編著者は本書が複数の説の中の一説のみに賛成するものではないと述べ、また実際にも男女共学への危倶を表明した意見や女性が学問をすることについての否定的な意見をも採り上げているが、もはや女性の高等教育を止めることはできないという方向付けを以て本書を編纂したものであることは間違いない。
 また前述のウォルステンホルムの言葉は、本書が「女子ノ生涯ノ貴重ナル事ト及ヒ其教育ノ貴ムベキ深意」を伝えようとしたものであることを、象徴的に明らかにしているといえるだろう。  


四 ウォルストンクラフトと女子教育の略史

 本書の第一章には、女子教育の略史が展開されている。
 十八世紀末にかけてフランス革命が象徴するように、人間の「権理」が主張されたが、その過程で、英国の「驚愕スベキ事件」は、「鳴呼何レヨリ来レルモノカ茲ニ請求シタル権理ハ即チ婦女ノ権理ニシテ其之ヲ請求スル者ハメレー、ウオルストンクラフト氏ト云ヘル一女婦ナリ」という事実であった(Mary Wollstoncraft(1759-1797))。  

 「メレーウオルストンクラフト氏ノ如キハ其人物モ亦其著ストコロノ書モ不正ナル時世ニ適セルヲ以テ邪曲ナル罵詈ノ下ニ斃レタリ実ニ慨嘆ニ堪ヘザランヤ」と嘆じ、時代を先駆けていたために、その著は受け入れられなかったが、世に弊害をもたらすような内容ではなく、「此書タルヤ初張ヨリ終リニ至ルマテ更ニ不正ノ教育法ヲ記セシトコロナケレバナリ」とウォルストンクラフトを擁護し、多くの女権論の中で、「マリー、ウオルストンクラフト氏ヲ以テ第一位ニ置カサルヲ得ザルナリ」と論じている。  

 今日のイギリスにおいては、二世紀にわたる女権活動を通じて、ウォルストンクラフトは復権し、女権運動の先駆者として評価されている。
 ウォルストンクラフトは、職人の娘として生まれ、教育に深い関心をもち、二十五歳の時、妹のエリザ及び友人と共に、ニューイントングリーンで学校を開いた。
 そこで彼女は反国教会派の礼拝堂の牧師リチャード・プライスと友人になった。  

 プライスとその友人は合理的反国教徒として、伝統的なキリスト教の考えに反対し、個人の良心と理性によって、道徳的選択がなされるべきことを主張した。
 ウォルストンクラフトは、プライスの影響を受け、紹介されたジヨセフ・ジヨンソンの助力により『少女の教育についての考え』(一七八六)を出版した。
 フンス革命が起こったとき、プライスは、イギリスの人々にも、悪い王を王位からおろす権利があると論じたため、エドモンド・バーク等によって反撃された。
 ウォルストンクラフトは、プライスを擁護しようと『人間の権利についての弁明』と題するパンフレツトを書いたため、急進的な思想家たちが彼女に注目した。  

 その頃トム・ペインの『人間の権利』も出版され、プライスらは、ユニタリアンソサイエテイを結成した。  

 続いて、ウォルストンクラフトは、『女性の権利の弁明』を刊行し、女性たちを無知と奴隷的な依存状態においてきた教育の制限について批判して、人間(男性)の権利と女性の権利は一つであり同じものだと主張した。

 ジョージIII世は、これらの動きに対して、彼の権威を拒むような人たちに厳罰をもって対処しようとする、治安撹乱の著書や会合を制する布告を発布した。
 そのような境遇の中で、まだ三十八歳のウォルストンクラフトは、第二子を生んだ後の敗血症によって早逝した(ウォルストンクラフトの概要についても Spartacus Internet Encyclopediaを参照した)。  

 宮崎の訳書には、「鳴呼不幸ナル哉マリー、ウオルストンクラフト氏ヨ 其死スルニ当テヤ残忍ナル悪弊ノ稼流未ダ天下ニ溢ルヽノ勢ヒナリ且ツハ彼レト等シク雄弁激説ヲ以テ女権ヲ主唱スルモノヽ未タ天下ニ顕ハレサルノ際ナリ而シテ当時衆口ノ攻撃ヲ受ケ其憤懣ヲ重ネタル悪言ノ為メニ右氏ノ激論モ埋没シ又将来ニ向ヒ此論ノ救護ヲ得ントスル好種子アルモ悉ク群衆雑踏ノ路底ニ踏付ケラルベキナリ」と記されている。  

 続いて、シドニー・スミス(Sydney Smith (1771-1845))を取り上げ、スミスが「婦女ノ智能タル全ク男子ト同一ナルヲ覚知シ読者ハ必ス茲ニ驚嘆スベキナラン」と指摘し、「童男童女ハ其泥塵ノ区界中ヲ奔走スレハスルニ従ヒ共ニ全ク一様トナラン」ことを主張したことに注目する。
 童男童女の数人ずつを二群に分けて、「其半数ヲ以テ行為ヲ正シ論説ヲ遑フセシムルノ一群トナシ」、「其他ノ半数ヲ以テ右ト全ク相反シタル一群トナス」ならば、男女の差異よりも群の差異の方が大きく、男女の差異そのものが本来のものではないことを主張したことを挙げている。  

 このようにして、「何故ニ歴史及ヒ物理ヲ解スルトコロノ書ヲバ女子ノ掌中ヨリ奪取シ何故ニ女子ハ胡蝶ノ如ク郊野ノ雑花上ニ鼓花サセント園圃ニ送ラルベキヤ」などと、女性が学問をすることによって、かえって虚飾、倨傲の弊習をなくすことができる、女性から学問を奪い取って、虚飾に走らせていることに問題があるのではないかと論じたことをとりあげている。  

 以上のような先人の足跡の上に、「一千八百六十九年ニ至リジヨン・スチユアルド・ミル氏ガ一千八百零九年代ニ於テシトネー・スミツス氏ガ雄弁ヲ振テ請求シタルトコロノ希望ト一様ナル希望ヲ表スルニ至リタリ」と、論者は確実に新しい時代の到来を告げている。  

 第二章では、アメリカのバッサー校のレイモンド氏による、一八七〇年「バプチスト宗教育集会」における論述を位置づけ、イギリスやアメリカの最新の動向にふれている。  

 「英国ニ於テハケンブリツヂ及ヒヲツクスフオルドノ大学ニ於テ翻然巳ニ慣習ノ紕繆ヲ悟リ女子ヲシテ該校ノ入校試業ヲ受ケシムル事ヲ許シタリ」、また、アメリカでも「ヲベリン、アンチオツチ及ヒ其他ノ地方ニ於テハ婦女ヲシテ自由ニ大学ニ入ラシメ而シテ男子ノ為メニ設クル所ノ課程ヲ以テ女子ヲ教育スル事ヲ試ミタリ 又、モウント・ホリヨーク、エルミラ、ロツトゲルス、インハム処等ニ於テハ特ニ女子ノ高等教育ノ為メニ学則ヲ設立」しようと努力したがなお不十分であると指摘している。  

 レイモンドは、種々論じた後、もはや女子の高等教育を率先推進すべきことについて、「則時弊ヲ破リ旧習ヲ去リ男女ノ別ナク高等教育ヲ受ケント欲スル者ニハ必ラズ之ヲ授ケザルベカラズ」と述べ、「苟モ此ノ如クンバ時下ノ弊害ヲ除キテ世ニ益スル」ことはできないと論じている。  

 続いて、第三章には、女権活動家として知られるミリセント・ギャレット・フォーセット(Millicent Garret Fawcett(1847-1927))の見解が挙げられている。
 フォーセットは、「婦女ノ精心ハ天性劣等ナリトスル信用」が行われてきたが、「斯ル信用ハ差謬アル」考え方であると批判する。
 そして、「男女トモ幼稚ノ時ニ於テハ其精心ニ至リテモ亦其性質ニ至テモ更ニ表スベキ異別ハ之レアラサル」ものであって、「女子ヲ以テ其専門ノ課業ニ従事セシメ其成功ヲ証スルモノトセバ」、どのような分野であっても、「智能上ノ事文学上ノ事及ヒ政治上ノ事ヲバ都テ分別シテ男子ト一様ニ之ヲ学フヲ女子ニ許サン事ヲ要望スベキナリ」と主張する。
 この点からいえば、「ケンブリツヂ大学ハ少女ヲシテ其地方試験ヲ受クルヲ許シ女子教育ノ改革ニ付キ最モ緊要ナル進歩ヲ表シタル第一ノ学土党ナリトス」と評価し、「女子ハ真理ノ教育ト及ヒ其改良トヲ以テ公然タル精心ノ多量ト及ヒ公然タル義務ヲ緊要トスル知覚トヲ得ベキモノナリト余輩ハ確然信証スベシ」と主張した。  

 ミリセント・ギャレットは、十八歳の時に、ミルの女性の権利についての演説に感銘を受けたという。
 ミリセントは、姉が医師になろうと決心したために結婚しなかった交際相手の、女性の権利の支持者である盲目の革新議員ヘンリー・フォーセットと結婚した。
 ミリセントは、女性の教育に深い関心を持ち、ニューナム・カレッジの設立につながったケンブリッジにおける女性の講義の組織化に参加した。
 一八八○年にリディア・ベッカー(Lydia Becker(1827-1890))が亡くなった後、彼女は全国女性参政権協会の会長となった。  

 姉のエリザベス・アンダーソン(Elizabeth Garrett Anderson (1836-1917))も、女性の権利についての強い意見を持っていたエミリー・デービス(Emily Davis(1830-1921))と出会い、また一八五九年にはアメリカで最初の女医となったエリザベス・ブラックウエル(Elizabeth Blackwell)とも出会い医学の道を進む決心をした。
 当時の英国の医師界はなお壁が厚く、彼女はミドルセックス病院で看護婦となり、開業医の試験で医師となる資格を得た。
 彼女はまたフランスに留学し医学の学位をとったが英国の登記係はこれをも認めようとしなかった。  

 それでも英国で最初の女医となった彼女は、ロンドンに女性のための施療院をつくり、後にエリザベス病院(E.G.A.Hospital)と呼ばれた。
 彼女もまた、ジョセフィン・バトラーと協力して常に女性と子どもの保護を考えていたという。
 あるいはまたソフィア・ジェクスブレイクス(Sophia Jex-Blakes)と協力して、ロンドン女子医学校を創ろうとした(エリザベスとミリセントの姉妹の概要についても Spartacus Internet Encyclopedia を参照した一。  

 第五章では、リディア・ベッカーが、「男女共ニ固ヨリ一様ノ教育ヲ受ケ而シテ精細一様ナル規則ニ因テ其能力ト智識ヲ試ミラルベキモノナリ」と主張し、「現立セル教育上ノ利益ヲバ女子ニモ亦之ヲ授ケ以テ女子教育ノ基礎ヲ高尚ニ至ラシメント要望スルモノノ為メニ大ニ勢カヲ与フベキ」だと論じている。
 ベッカーは、「抑々人民ノ心意ヲ以テ教育セントテ準備シタル所ノ方法タルヤ其心意ヲ教育セント要スル心意ヲ懐クモノハ男女ノ別ナク自在ニ其心意ノ教育ヲ受クルヲ得ベキモノトスベシ」と論じ、さらに「智識ノ上達ニ因テ得ル処ノ名誉及ヒ褒賞ハ是又男女ノ別ナク之ヲ望ムベキ学識アリ之ヲ得ルベキ能カヲ有シ其之ヲ得ルノ地位ニ至リタルモノニ対シテ附与スベキモノトスベシ」とその社会的待遇についても、性差が置かれるべきではないと論じたのである。  

 リディア・ベッカーは、学者の家に育ち家庭教育を受けた。一八六四年には、乾燥植物のコレクションで、植物学の表彰を受けている。
 彼女はまた文筆にすぐれ、マンチェスター女性識者協会の活動家でもあった。
 リディアは、バーバラ(Barbara Bodichon (1827-1891))の女性参政権に関する講演を聴いて、すぐに自分でも女性参政権に関する意見を雑誌に掲載した。
 エミリー・デービスやウォルステンホルムがこれを読み、彼女らは、協賛してマンチェスター女性参政権委員会を創った。
 彼女はまた、既婚女性資産委員会を創ったり、ジョセフィンと共に議会請願運動を行った。
 さらに、彼女も、少女の教育を改善する問題に強い関心を持ち、マンチェスターの教育委員に選出された。
 また少女に対する家政教育を批判し、少年にも、靴下を繕ったり、自分の食事を調理することを教えるべきだと論じた。
 リディアは、女性参政権のジャーナルを作り続けたが、一時的にせよ単身女性の参政権付与を先行させる論議を支持したため、仲間の既婚女性を落胆させることなどもあったという(リディア・ベッカーの概要についてもSpartacus Internet Encyclopediaを参照した)。  

 以上のように、本書は、当時の欧米における女性の高等教育への要求の高まりが、多面的に反された構成となっているということができる。  


五 男女混合教育をめぐって

 本書には、男女混合教育に関する主張や反論あるいは実際に男女共学を実施したことから考えられる効用についての多くの論述が紹介されている。
 たとえば、第十九章には、男女混合教育によって、「女子其家事ヲ経理スルニ方テ能ク節倹ヲ守リ家計ヲ整斉スル事今日ニ勝レル影響ヲ及ホス」とは考えられない等の反論も示されている。
 しかし、全体としては、男女共学の積極的な意義を論じるものが多い。  

 第十三章には、「混合教育」を論じたトーマス・マークビーの議論を取り上げ、「縦令へ女子ハ人ノ妻トナリ或ハ児ノ母トナラサルトモ」学問をすべきであり、「是迄童男ノ為メニ智識ノ門戸ヲ開テ童女ノ為メニ之ヲ閉サセシハ実ニ何等ノ理由モ之ナキ事」と論じている。
 さらに、オバーリンの学長フエアチャイルドの言を引用して、「夫レ男女ノ日ニ相接スル事ニ於テハ想像上ヨリ其得失ヲ論スルヨリハ寧ロ其実況ニ因テ之ヲ判定スベキ」で、「男女ハ日ニ相接スルモ其設ケラレタル問題ヲ以テ共ニ之ヲ講究シ或ハ其一様ナル学科ニ従事勉励スル如キ確定シタル事業ヲナスニ方テハ彼ノ祭日ノ宴ニ相接シ或ハ踊舞ノ席ニ相会スル時ノ如キ軽率ナル景況ハ果シテ生セサルモノ」であり、「故ニ男女ヲ共学セシムルモ決シテ之カ為メニ品行ヲ破ル等ノ事」は決してないと共学の有用性を主張している。  

 第二十五章にも、フェアチャイルドが、オバーリンの専門学校における男女共学についての経験を報告した内容が紹介されている。
 すでに、一八三七年に「女子ニシテ大学初級生ニ入ルノ学科ヲ修メタルモノ四人アリ 其請求ニ応シテ大学ニ入校ヲ許シ」、「此時ヨリシテ常ニ多少ノ女子、大学ノ科ニ従事セリ」、「今日ニ至ルマデ其級位ヲ受ケタル女子ハ八十四名ニシテ女子的学科ノ特許状ヲ得タルモノ三百九十五名アリ」という状況になった。
 その結果、男女混合教育法の功用というものが明らかであり、「其中ニ投身シテ其風俗感情及ヒ其思想ヲ変化スルニ至ル」点が重要だとしているが、とくに人間関係、人生交際上の教育力が、次のように強調されている。  

 第一に、「交際上ノ教化力」として、「不品行ノ徒ノ稀ナル原因タルヤ専ラ混合教育法ノ徳ニ帰ス」と考えられること。  

 第二に、「男女ヲシテ共学セシムル方法ハ学校外ノ市街ニ於テモ其人心ヲシテ和ラケ其徳儀ヲ修メシメントスルニ至ラシム」ということ。  

 第三に、「社会ト学校ノ関係」について、「相互ニ誠心ニシテ深切ナル感情ヲ有スル事ト及ヒ市街ノ人ト校中ノ人ト互ニ相敵視セザル」ようになること。  

 第四に、「社会ニ出タ後ノ効果」として、「多クハ親睦ニシテ交誼ヲ破ラズ而シテ又能ク人生ノ務ムヘキヲ理解シ其実務ニ着手スルノ備ヘヲ既ニ有シ衆人ト並ヒ立テ其人望ヲ失セス」ということ。  

 以上、「皆混合教育ノ組織ニ属ス利益」であると論ずる。  

 また、第十五章には、ヒッギンソン(Thomas Wentworth Higginson(1823-1911))が、米国西部の大学が、次々と女子の入学を許可した状況について次のように述べている。
 「「ミシガン」大学校、「ウヰスコンシン」大学校、ウヰスコンシン府アツプレトンニ於ケル「ローレンス」大学校、「インジアナ」大学校、及ヒニューヨーク府カントンニ於ケル「シント、ローレンス」大学校ニ於テ女子ノ入学ヲ認可シタル」が、「都テ一般ニ男女ノ間其学事ノ進歩ニ至テハ更ニ優劣ヲ徴スル事ナク又女子ノ入校ヲ許セシモ之カ為メニ却テ好結果ヲ生スルモ決シテ弊害ヲ招ク事ナク又之カ為メニ妨碍トナルベキ等ノ事故ハ更ニ見サルトコロナリ」と論じている。  

 さらに、本書全体の付録にも、ヒッギンソンの演説を援用し、「男子ト女子ハ其性ヲ異ニスルモノナレバ又之ニ要スルニ必スヤ差異アル食物ヲ与ヘテ其智力ヲ養生スベキ」とか、「女子ヲ以テ智識力ノ劣リタル望ナキモノ」とか、「凡ソ女子ノ身体ハ劣等ナルモノトスル」などはすべて誤論であると論ずる。
 また富裕の女性が高等教育を不要とし「資財ノ既ニ充分ニ在ルヲ以テ堅固ナリ」とするのも誤論である。
 「智識教育ノ問題ニ対シテハ更ニ男ニ適シテ女ニ適セザルモノハ是レアラザルナリ」、「男性ニ向テ最善トスル処ノモノハ是果シテ女子ノ心ニ向テモ最善トスベキモノナリ」、「教育組織ノ問題タルヤ都テ男子ニ対シテ最要ナル如ク女子ニ対シテモ悉ク是要トスベキナリ」と論じ、さらに「都テ教育上ノ科目タルヤハーバルドノ少年校ニ於ケルモバツサルノ女学校ニ於ケルモ或ハミシガン及ヒコルネルノ混合教育校ニ於ケルモ悉ク是レ一定ナラサルハナク恰モ是同議一決シテ設置シタルガ如クナルベシ」と述べる。
 以上のことから、「都テ熟達者ノ証トスベキモノハ混合教育ヲ賛成スルニ在リ」、これに対して「此混合教育法ニ付テ疑惑ト恐怖トノ念ヲ起スモノハ甚タ些少」ではあるが、「此実況ヲ経験セザルニ因スルモノ」であり、「数年ノ間、此実況ヲ経験シタルモノハ悉ク此法ヲ信ジ此法ヲ賛成スベシ」と共学を主張した。  

 第十六章には、「専門学校ニ於テ男女両性ヲ教育スルヲ論ス」という論文で、「専門学校及ヒ大学校ニ於テ男女混合教育法ヲ設クル所以ノ趣旨」は、「生徒ノ性質及ヒ品行ヲ正フセン」ことと、「智識上ノ教育ヲ逞フセンカ為」であると指摘し、「男子ハ男子ノ如ク女子ハ女子ノ如ク之ヲ教育シテ男女トモ等シク善良ノ社会中ニ選出スルノ準備」をするのであると述べている。  

 「少年タルモノハ家ヲ辞シテヨリ学校ノ境界ニ白由ノ空気ヲ吸テ爰ニ四年ノ星霜ヲ経過シ而シテ完全タル一男児トナリ初メテ此境界ヲ脱スベキ」ものであるが、「少女モ亦右ニ一様ナル経験ヲ為サシメントノ準備」が必要であると主張する。
 さらに、「ヲベリン、アンチヲツチ」等の経験からしても、「須ラク両性ハ共学スベキ」であり、「是等ノ学校ニ於テハ男女ヲ混合スルモ恰モ女子ノミヲ集メタル如ク曾テ男子ノ女子ヲ嘲リ或ハ其間互ニ其品行ヲ害スル如キ醜態ヲ顕ハス等ノ危険ハ絶ヘテ之ナク互ニ正粛ナル事女子ノミヲ教育スル宿寄学校ニ於ケルヨリモ遥カニ勝レリ」と論じている。  

 このようにして、「少女ヲシテ少男ノ自主自由ニシテ而シテ物理ヲ解スルニ顛悟ナルトコロノ風ヲバ目撃セシムルハ実ニ之レ少女ノ為メニハ純善タル事トスベキ」である。
 「又少女ガ其已ノ学科ニ熟知セルトコロヲ以テ之ガ為メニ少男ヲシテ競争ノ精心ヲ励マシ益々自已ノ科業ニ黽勉ナラシムベキ」であり、「是レ即チ男女ヲ混合シテ教育スルノ利益ト云フベキ」であると論じている。  

 第十八章においても、「両性ヲ混交シテ教導スル学校ハ」、「男女ノ同教ヲ取リ之ヲ一校中ニ育シ都テ学課及ヒ其他運動ニ至ルマデ之ヲ混同シ女子ノ謹慎恭順ナル思想ヲ以テ男子ノ心志ヲ薫陶シ遂ニ其今日驕恣ノ心ヲ去テ恭順ノ良心ヲ喚起セシメントスル」ことが重要であると述べている。  

 第二十一章においても、ウィリアムスカレッジのバスコムは、「混性教育論議」として、「男女併ヒ立テ一校ニ教育スル事ハ完全無欠ノ良法ニシテ教育ノ自由ヲ皇張スル之レヨリ善キハナシ」、「混合教育タルモノハ完全真純ノ教育法ノ理由ヲ保存シ而シテ維持振興シテ最モ堅固ナラシムルヲ得ヘキモノナリ」と主張する。  

 第二十二章にも、コーネル大学ホワイトが、「不完全ナル教育ヲバ女了ニ授ケンヨリハ寧ロ斯ル小区域ヲ脱セシメ進テ大学校ニ入学シ広潤ナル諸学ヲ修メ高等ナル学課ヲ踏ミ長シテハ未来ノ人民ノ慈母トナリテ其女子タルノ職分ヲ尽スニ完全適当ナラシメントスルノ良法」は、男女混合教育であると述べている。  

 第二十三章では、男女分教を批判して、男女混淆学校こそ必要であると論ずる。
 「男女分教ノ方法ハ童男童女ノ不利益タルノミニ非ズ成丁ノ男女ニ対シテハ其不利益最モ大」、「男女ヲシテ恣ママニ才知ヲ研磨セシムルノ良法ハ両性ヲ分教スル方法上ニハ断シテ為シ得可ラサルモノ」と分教法の問題点を指摘している。  

 第二十四章は、「ハーバルド」大学に混合教育を要求したジェームス・フリーマン・クラークの学務監督局の委員に送った報告を取り扱い、「「ハーバルド」大学校ノ賛成員ハ各童男女ヲ有スルモノ」、「右ノ賛成員ハ各々其童女ニ最善ノ教育ヲ授ケンコトヲ希望ス」などとし、ハーバード大学が、男女共学を採るべきことを主張したものである。  

 第二十六章には、ホイートン専門学校の経験についてラムリーの演説に、「両性ヲ混合スルモ決シテ互ヒノ障碍トナルベキモノニ非ス」、かえって「両性互ニ相助テ便益ヲ得ルモノ」と述べている。  

 したがって、「才智ト品行ト及ヒ身体ヲ教育セントスルノ注意深ケレハ随テ生徒タルモノハ将来如何ナル事物ニ遭遇スルモ之ニ屈セサルベキナリ今日此人間社会ノ何レノ党派ニ於テモ男女共ニ此世ニ処スルヤ互ヒニ相平行シテ今日ヲ全ウシ互ニ相知已トナリ相親睦スルハ人生ノ幸福ヲ招クニ最要欠クヘカラサル事ニシテ互ヒノ成功ヲ求ムルハ多ク此理ニ因ル」、「男女ヲ区別シテ教育スルトキハ如何ニシテカ今日ニ必要ナル心身ノ教育ヲバ授クルヲ得ベキヤ」と主張する。
 「人生上ノ教育ハ半ハ以テ男女共ニ其間ノ交際上ヨリ得ルトコロノモノ」というのである。
 そのため、社会に出るに際しても、「混合教育法ニ因テ教育ヲ受ケタル徒ハ今日此男女混合ノ社会ニ立テ己ヲ能ク進退スルヲ明カニ暁得」するが、「分性教育法ニ因テ教育ヲ受ケタル徒ニ至テハ縦令へ学科上ノ事ニ至テハ能ク之ヲ修ムルヲ得ルト雖トモ此社会ニ立テ其己ヲ進退スル如キハ全ク之ヲ知ラサルモノト云フベキナリ」と論じている。  

 第二十七章には、ノックス専門学校ブランカードの演説により、「西部ノ諸専門校ニ於テハ男女ヲ混シテ一組トナシ而シテ一様ニ之ヲ教育スベシ然レトモ組中女子ヲ混スル為メニ事業上不便或ハ妨障ヲ生スル等ナリトハ未タ嘗テ聞カザルトコロ」と述べている。  

 第二十八章にも、モーゼス・コイト・タイラーの演説に基づき、ミシガンの大学校は女子の入学を許したが、「教育上女子生徒ノ為メニ適応スベキ特殊ノ学科ヲ設クルナク全ク男子ニ授クルトコロノ学科ト一様ナル学科ヲ以テ之ヲ教育シ又之ヲ取扱フニ男子ト一様ナル方法ヲ以テシ更ニ女子ニ対シテモ聊カ愛敬スルトコロナキナリ」と指摘する。  

 さらに第二十九章には、ホレース・マンにより「此米国ニ於テ最モ整頓シタル最モ厳粛ナル最モ注意深キ最モ明瞭ナル教育ノ方法」が展開されている学校としてアンチオークを挙げている。  

 「アンチヲツチノ学校ニ於テ男女ヲ混合スル食堂ハ大ニ其生徒ノ交誼上ニ快楽ヲ与へ」ており、「米国ニ於テ少年社会(男女混合ノ)ノ交際ニ自由ヲ与ヘタルハ往古ノ社会中ニ成立シタル方法(欧州諸邦ニ於テハ現ニ行ハルル)トハ大ニ其反対ヲ表シ更ニ其間ニ圧制ノ方法ヲ設ケテ互ニ誤リナキヲ防護セントスル等ノ事ハ全ク無ク却ツテ之ガ為メニ徳儀ヲ遵守スルニ至ルベシ」と述べている。  

 第三十四章には、ロンドン府の大学について述べ、「一千八百六十七年ノ八月ニ於テ該校ハ男女両性ノ入学ヲ許ルスノ追加教則ヲ大学校ヨリ受領シタリ博士マンソン氏曰クロンドン大学ニ入ルノ免状ヲ受ケタル女子ハ甚タ以テ名誉アルモノニシテ普通ノ学識ニ富ミ及ヒ修身ノ教育ニ完全ナルヲ以テ大学ノ初級以上ニ従学スル少年輩ノ最善ナルモノト一般ニ見做シテ可ナルベキ事トス」と、共学によって女子高等教育の前進したことを報じている。  

 第三十五章でも、ロンドン府の大学専門校について論じ、「十七歳以上ノ少女ヲ教育スルノ方法ヲ備ヘル数級ヲ存セリ各級共大学専門校ト同一ノ主意ヲ以テ博士ノ授業スルトコロナリ」と紹介している。
 このことについて、「女子ハ甚タ善良ニ学事ニ注意シ以テ黽勉ナルヲ以テ之ヲ教育スルノ諸師ハ大ニ以テ満足ノ至リ」と述べ、とくに博士ラモー氏が、「男女混合ノ級ニ対シテ講義ヲナシタル事アリ時アリテハ女子ノ数ハ男子ノ数ヨリモ少ナル事アルモ常ニ其臨場スルトコロヲ見ルニ同数ナル事多シトスベシ而テ女子ノ列席ハ大ニ級中ノ状態ヲ改良シ又教育ノ方法ヲ進歩ナラシムベシ」と評価したことを付言している。  


六 女子高等教育の問題と展開

 男女混合教育とは別に、女子の高等教育そのものに対する疑問が投げかけられてきたことを取り上げながら、これを克服する観点や、現に女性のみの女子高等教育もまた前進していることを紹介している。  

 第九章の「女子大学校ノ方案ヲ論ス」では、「男子ノ受クル利益ヲバ等シク之ヲ女子ニ与ヘント希望スルニ至テハ亦必ス之カ為メニ其得ントコロノ利益ト共ニ其弊害ヲ招クニ至ルベシ」と弊害もあることを指摘した論文が取り上げられている。
 さらに、第十章の「女子ノ艱難ヲ論ス」でも、「女子ハ男子ト其教育ヲ同クスルモ女子ノ教育ニ必須ナル尚ホ充分ニ公正ノ道ニ導致スルヲ要ス可キ」であり、高等教育の準備に関して女子教育の道程はなお遠いものであることを指摘する論が取り上げられている。  

 あるいは、第十一章でも、「家内ノ教育ヲ論ス」で家庭教育を論じた所説を取り上げ、第十二章では、「純粋ナル女子ノ専門学校ヲ論ス」として、「女子ノ宇宙トスルトコロハ即チ一家」であり、「女子ヲシテ男子同等ノ程度ニ至ラシメ之ト競争セシメント教練ス可キ旨」ではなく、「女子ハ男子トシテ完全タランヨリハ女子トシテ完全タランヲ要シ而シテ男子トハ全ク異別アルトコロノ地位ヲ占メント企望スベキ」であると主張している。  

 しかしまた、第六章には「女子ノ特質ヲ論ス」として、女子の特質から見ても、その弱点を克服すればその成果は大となることが期待できることを述べている。
 たとえば、「詳明奥妙ニ道理ヲ立テ其思考ヲ談話シ或ハ書記スル事ヲ教へ而シテ其見界ヲ広大ニセントスル習慣ヲ養生」するなど、通常、女子の弱点といわれているところに充分留意すれば、「忽チニシテ其教育ノ進歩ヲ顕ハスベシ」と主張する。
 あるいはまた、思考が緩慢であるとの点を十分に留意すれば、「速ニ其学フ処ノ学科上ニ男子ト競争スルニ至ルベキナリ」と指摘している。
 第七章には、女子の高等教育を推進する上で、健康上の疑問が投げかけられてきたこと、また、第八章には、高等教育が「女子ノ天性ヲ抑圧スル」ことが指摘されてきたことなどがとりあげられている。  

 しかし、これらの問題も「若シ天下ノ事物ヲシテ果シテ順正ナラシメバ女子ト雖ドモ之ヲ学ブ可キ権理ヲ有スベキナリ」と主張している。  

 第十七章では、女子には学校は不要としてきた伝統に対し、まず一般に学校の効用を論じ、それは女子についても全く同様であるとする。
 「抑々学校ノ教則タルモノハ甚タ高尚ニシテ児童ノ徳義ヲ研究スルニ至ラハ世間他ノ教育法ニ較スレハ最モ優等ナルモノナリ実ニ児童ヲ教ユルノ道ハ学校ノ右ニ出ルモノナシ」とする。
 ところが、従来は「女子ハ専ラ家ニ在リテ教育ヲ加フルノミニシテ学校等ノ教導ハ無益ナリト臆想」してきたが、それでは「他人ト交際ヲ通セス従テ人情世態ニ迂遠ナルカ故ニ」、「自由ノ精心ヲ芳生シ遠大ナル事業ヲ興起スル教導ニ至テハ決シテ学習スル事能ハサル」こととなる。
 「凡ソ人ハ艱難ト戦ヒ災禍ト敵シ遍ク疾苦ヲ玩味スルヲ以テ第一ノ学問トナス」ことからいえば、この点については、女子教育においても「同一ノ論ニシテ毫モ異ナルナシ」と主張する。  

 第三十章には、バッサー専門学校の状況を記している。
 一八五八年にマッセヲ・バッサーが、女子高等教育の計画をウイリヤム・サンバースに相談したところ、「僅カニ三十人ノ女子ヲ育スル寄宿舎ヲスラ充分ニ之ヲ管理スルノ難キニ百人以上ノ女子ヲバ通学大学ニ教育スルトキハ到底能ハザル」ところであり、再考し断念せよと忠告したという。  

 しかし、この計画を実行するために、第一にまず女子専門教育の予備教育から着手し、第二に、一八六五年にはバッサー学校を開校し、「男女両性ノ間学問上ノ能カニ於テハ更ニ異同ナシト雖トモ平均シテ自然ニ男子ト差異アル」実態を考慮した。  

 第三に、「男女ノ間徹頭徹尾毫モ差異ナキ」とするわけにはいかないが、「寛裕ニ深慮ニ真実ニ」女子教育を推進しようとした。
 第四に、女子の適性はあるにしても、「凡ソ女子タルモノハ幾多ノ妨害アルモ之ヲシテ男子ト一様ナル学科ニ従事セシムルノ剛気カト熱心トヲ有ス」と考え、第五に、「女子ハ人族中第一ノ教育者タルヲ以テ男子卜一様ニ賢明ナルベキ」だが、「品行ヲ破リ健康ヲ害フ」ことのないように留意した。
 第六に、「高等ノ教育ヲ女子ニ施スハ女子ノ女子タル其性質ヲシテ能ク錬磨シ以テ改良アラシムベキ」ものであると考えた。  

 全体として、「「ベザール」専門校ノ旨トスルトコロニ因レバ女子ヲ教育スルニハ現ニ世間ニ設立セル諸専門校ニ於テ男子ヲ教育スルト一様ナル方法ヲ以テ之ヲ教育セントスルニ在ル」、「校則ノ自由タルヤ一般人ノ親タルモノノ其男子ヲ教育スルニ禁制シタル事ノ外更ニ禁制シタルモノナシ」というのである。
 また、「尚ホ貴重スベキ女子ノ権理ト云フモノアルナリ即チ其一ヲ云ヘバ女子ハ労働スベキノ権理ヲ有スル」、しかしまた「教育ノ学科ハ女子ガ孤独ノ身ニ於ケル際ヨリモ妻母タルノ際ニ至テ裨益トナルベク専ラ此点ニ関渉シタルモノナリ」とも述べている。  

 このように、共学ではないが、女子の高等教育の可能性と必要性を論じている。  

 第三十一章には、エデインバラ女子教育協会の主張についてふれ、「是迄男子ノミ入学ノ自由ヲ 専有シタル大学ノ教育ト一様サル教育ヲ設ケ以テ女子ヲ育ハントスルノ挙ニ在ルナリ女子ノ教育法ハ勉メテ大学ノ教育法ニ従フベシト該協会ノ発議スルトコロノモノナリ」と主張した。
 そのために、「女子ノ輩ノ為メニ大学ト一様ナル学校」、「男子ヲ教育スル大学ノ教則ト全ク一様ナルモノ」を設けることこそ、当協会の目的であると述べる。
 また「男子ノ智識ヲ教化スルニ適合シタルモノト認メ得タルトコロノ方法ヲ以テ女子ヲ教育」しようとするものであるとも述べている。  

 第三十二章に、ヒッチン、ヘルツの専門学校を取り上げ、「該校組織ノ目的タルヤ世間ノ諸大学校ニ於テ男子ヲ教育スルトコロノ方法ト一様ナル教育ノ方法ヲ以テ女了ノ教育ニ備ヘントスルニ在ル」と述べ、エミリー・デービスの言により、「何学ニ従事スル生徒ト雖モ都テ此二其教育ヲ授クルヲ得」ることができ、その授業は、ケムブリッジの訓練を受けた人による「高等ナル級」であり、「専門学士的ノ教育法」と「教師的ノ教育法」を含むものである。
 この場合、「女子ニ特殊ノ科業ヲ以テ教ヘントスルニハ非ス只女子ヲシテ一般ニ善良ナラシメンガ為メニ之ヲシテ改良ナラシメ以テ教化セシメントスル」のだと論じている。  

 なお、エミリー・デービスも、医師を目指していたエリザベス・ギャレットと親交があり、エミリー自身医師となる可能性を考えていたが、それまでの教育が不十分なために難しいと考えて、これをあきらめたのである。
 その代わり、他の若い女性たちが、エミリー自身には閉ざされていた機会を獲得できるように、残りの人生を捧げようと決心したのだという。このことは、女性たちが、男性と同じ条件で、高等教育を受け、専門職に就くことが出来るようにすべきだという願いを含んでいた。  

 そのため、エミリーは、まず、女性たちが、ロンドン大学の学生となることが出来るように当局を説得しようとした。  

 また、女性がオクスフォードやケンブリッジの試験を受けられるようにする運動にも加わった。  

 一八六四年に、学校調査委員会(School Enquiry Commission)が、教育における性の不平等に関する調査に同意したのは、彼女の活動が最初に成功したものであった。
 このとき、彼女は『女性の高等教育』に関する一書をまとめた。
 一八六五年には、彼女は、エリザベスや、バーバラ、ドロシー・ビール(Dorthea Beal(1831-1906))、フランシス・バス(Frances Buss (1837-1894))らと、ケンシントン協会を創り、さらにロンドン参政権委員会を創って議会請願運動を行った。
 しかし、仲間の中の意見の違いもあり、エミリーは参政権の問題については目立った活動をせず、専ら女子カレッジの創設に関わった。
 仲間の支援もありケンブリツジからニマイル離れたベンスロウの土地を購入し、一八七三年ベンスロウ・ハウスは、ガートン・カレッジとして開校された(エミリー・デービスの概要についてもSpartacus Internat Encyclopediaを参照した)。  

 第三十三章には、ケンブリッジで女子のために開かれた講義について、「此講義ハ高等教育ノ希望心(女子ノ社中ニ噴起スルトコロノ)ヲ満足セシメント企ツルモノニシテ其目論見タルヤカンブリツジニ於テ十八歳以上ノ女子ヲ試験スルトコロノ試験題趣ヲ抱有」するものであったが、しかしなお「試験官ノ目前ニ於テ右科目ノ問題ヲ完フスルモノナシト云フ」状況であったことが記されている。  

 さらに、第三十六章では、ダブリン府の「アレキサンドリヤ」専門学校にふれて、女教師が教育界に進出した問題についてふれて、「此国ノ教育ハ今日甚タ衰退ノ色アリトスルハ余ヤ敢テ信セザルベキナリ是レ女教師タルモノノ天性固有ノ知能ニ欠乏スルニアラズ単ニ教育ヲシテ盛大ニ充分ニ而シテ完全ニ至ラシムル処ノ機会ニ欠乏スルニ在ルナリ」と、女教師の能力に問題がある

 のではないと指摘している。
 そうではなく、「是迄着手スル処ノ教師ノ教育上ニ最高等ナル高等教育ノ方法ヲ設クルニ非レバ右ノ弊害ヲ除却スルノ点ニハ達スル事能ハズ」と述べる。
 「而シテ唯ニ女教師ノ性質サヘ高尚ニ至ラシメバ僅カニ一代ニ於テ十倍ノ智識ヲ増シ之ヲ以テ其国智識ノ基礎ヲ高尚ナラシムベキナリ」と断ずる。
 すでに、女子の高等教育の機会は、用意されており、初等教育も中等教育も準備されている。
 少女のために若干の予備教育を補えば、「一様ナル方法ト及ヒ同一ナル学期ヲ以テ少男少女ニ授ケ」ることができ、女子に専門科を勧めることは容易に可能になると主張している。  

 以上のように、男女異別論や女子高等教育への懐疑論もあったことは事実であるが、女子のみの、女子高等教育の推進を主張し、実践した試みについても、要するに女子の権理や、その教育内容や教育水準において、男子と同一なる態様を実現しようとする、様々な試みのあったことが理解できる。  


七 文部省『教育雑誌』にみる欧米教育の認識と別学政策

 ところで、宮崎駿児の翻訳書『我耳東氏女子教育論』は、オルトンの原編著をほぼ完訳しているにもかかわらず、世に出ることがなかったことについてあらためて考えてみたい。  

 もちろん、翻訳の良否も評議されたかもしれないが、一つは、ちょうど性差による教育をどうするかが時の政策課題であり、男女別学の道が選ばれていったこと、自由民権思想への対応策として、著訳書等に対する国の規制によって、学問思想政策としても英米思想の排撃が具体化されていった時代であることを勘案すれば、当然すぎる結末であったといえるかもしれない。  

 それだけに、この一書が世に出なかったという一つの事実が、一国の将来を左右するような学問思想世論の形成に大きく関わり、人々の接する情報の制限が人々の考える視野を著しく狭めるという選択が行われたことを象徴的に示しているといえる。  

 明治五一一八七二一年に学制が制定された際、「被仰出書」に「爾今以後華士族農工商及び婦女子の別なく学に就かしめる」政策が採られ、啓蒙思想家福沢論吉も『学問のすゝめ』で女性にも学問が必要であることを論じたことはよく知られている。  

 しかし、学制の具体的実施過程において、このような理念が、現実化していくには多くの年月を要したのみでなく、当時の日本社会においては、逆に儒教主義的な観念や近代主義を装いつつも極めて守旧的な性別差別観が、優位を占めていたのである。  

 ちょうど、学制制定の頃、欧米では、オルトンの編著に見るように、女性参政権と女性の高等教育への参入、あるいは男女共学が大きな運動として発展しつつあったのである。
 その中で、わが国の近代化過程における儒教主義の再編が、世界史的な女性の権利への胎動から大きくかけ離れていたことはいうまでもない。  

 文部省自身、欧米の学制に倣って、近代的学制の具体化に先鞭を付け、欧米の教育論を繰り返し参照してはいたが、結局、わが国の国情に都合のよい守旧的な見解を意図的に取捨していったことは否定できない。  

 たとえば、文部省『教育雑誌』は、当時、性差に応ずる教育に関連ある外国の論文をいくつか紹介している。
 明治九年八月に近藤鎮三は、「独逸教育書抄」「男童女童ノ別」を扱って、すなわち性差、「コノ差異ヲ酌量シ男童女童ノ教育方ヲ区別スヘシ」と論じている(明治九年八月『教育雑誌』(一二号))。
 明治九年十二月には、大塚綏次郎が、「米国教育局年報抄」として「女子教育論」を採り上げ、独逸の教育状況を報告しつつ米国の女子中等教育をも推進すべしとして、「男女全ク異ナルハ贅言セスシテ明ナリ」として、「女子ノ才幹高上ナル職業ニ適セサルニアラス」としながらも、女子教育の固有性を強調している(明治九年十二月『教育雑誌』(二三号))。  

 その他、明治十年五月、近藤鎮三が「婦女の職務 プロシア国ユリー・ビュロー女 女子教育の演説」(明治十年五月『教育雑誌』(三五号))、あるいは七月に、菊池財蔵が「女子教育論 英国エキザミネル号雑報抄」(明治十年七月『教育雑誌』(三八号))を載せ、女子の教育の必要性と職業について論じつつも、狭義の固有の女子教育論を展開している。  

 また、明治十一年十二月から、四屋純三郎の訳で「男女教育方法別異論抄」(米人医学博士クラック)が、連載されている(明治十年十二月『教育雑誌』(五二号))。
 この論文も、「男女両性の遵守すべき人道には両岐なし」と述べ、「男女の限界は全く同等なるのみ決して優劣上下の差異あるにはあらざるなり」としながら、「然れとも斯く言ふは敢て両性皆同物なり少しも異なる所なしと云ふ意に非ず」「女子身体の結構並びに其の職掌は自ずから男子とは別なる」として、男女には、教育方法が別異であると論ずる。
 続けて、男女同学の弊害について論ずる(明治十年十二月『教育雑誌』(五三号))。
 十一年六月にも、女子の発育は特別の注意が必要であるとする(明治十一年六月『教育雑誌』(六九号))。
 十二年一月には、「男女合併教育法」を取り扱い(明治十二年一月『教育雑誌』(八七号))、「世ノ所謂合併教育ハ則チ斉一合併教育法ニシテ此ノ斉一教育法ハ今日世人ノ往々希望シテ勉メテ之ヲ得ント欲スル所ナリ然レドモ人ノ最モ渇望スベキ至良ノ教育法ハ可成丈男女ノ各性ニ適合スル様ニ設ケタルモノニ在ルノミ」と、クラック氏は、明らかに男女共学に反対の意見を表明している。  

 また、同じ時期に、仏人ル・ハルデイ・ド・ブウリューの「婦女教育抄」が、浅岡一の訳で、明治十一年三月から時折、連載されている(明治十一年三月『教育雑誌』(六三号))。
 本論も、婦女教育は、良母賢母教育にありとする立場に立つ。
 「少年少女ノ教育ハ其基礎ト方向トノ為ニ善良ナル母ノ訓戒ヲ要スルガ故ニ善良ナル母ヲ養成セザルヲ得ズ」と力説している。  

 このように、クラック氏やド・ブウリュー氏の女子教育論に見る限り、諸外国の女子教育の趨勢から考えると、一定の取捨選択がなされていたものと考えられる。  

 このように見てみると、内容的に男女異別論が圧倒的に多く、またプロイセン的な文献紹介が、一定の比重を占めている。
 これらの紹介の動向から見ても、オルトンの編著に出てくるような動向が的確に認識されていたとは考えられず、またこれに十分に注意を向けると言った問題意識も存在しなかったといわなければならないだろう。  

 これらの中で興味深いのは、明治十年十月、「現時の女子教育の欠所」(報知新聞抄一四〇八号十月三日社説)が転載され(明治十年十月『教育雑誌』(四七号))、「法節度氏カ英国ノ女子教育法ノ改革ヲ論スル書」を読んだことが触れられ、英国中等以上の身分の女子が、音楽に偏倚し自己教育をおろそかにし、そのため「女徳ノ軟敗」を招いているのは問題であり、また女子教育が、「子ヲ育スルノ法ト曰ヒ夫ニ事ルノ道ト曰ヒ家政ヲ司ルノ教ト曰ヒ一々以テ男子ニ配スルノ事ニ外ナルハナシ是大ナル謬見トイフベシ」と論じたことを紹介した。
 これについて、フォーセットは、「女児ヲ教育スルノ正教ハ唯一箇ノ女人ト為ル可キ道ヲ急トス」「女児ヲ教フルノ要ハソレヲシテ一女人タラシムルニ在リ一妻婦タラシムルニ在ラス」と論じたことも紹介している。  

 しかし、紹介者は、「余輩英人ガ自国教育ノ弊風ト認メ為ス者ヲ注視スレバ却テ日本現時ノ女子教育ヲ救医スルノ効験有ル可キニ似タルヲ覚ユルナリ」と、フォーセットが弊風と考えている所に注意すればかえってそこに女子教育のあり方を求め得ると論じ、女権論者であるフォーセットの主張を修正して日本女子教育を考えようと論じた。  

 その他に、フォーセット氏の活動とも関連の深い英国ケンブリッジ大学における女子教育については、明治十二年七月「仏国教授案内新聞抄」(明治十二年七月『教育雑誌』(一〇三号))の中で小野清照が、「英国ノ女学校」にふれて、ケンブリツジのガートン校やニューナム校を、フランスで紹介されたままに掲載しているが、単なる女子校の紹介として黙過されており、貴重な情報であった。  

 なお、フォーセットの女子教育論のみは、その後も、明治二十年に辻岡文助編の『高名大家女子教育纂論』中に、「女子高等教育論」(宝節徳夫人・東京教育社)として紹介されたのも興味深いことである(明治二十一年刊、一九八三年復刻版『近代日本女子教育文献集』日本図書センター)。  

 このような状況の中で、すでに教育令に関する先行研究で指摘されているように、教育令に先立って、明治十年モルレーの「学監考案日本教育法及同説明書」(『明治文化資料叢書』第八巻、明治十年六月頃までのものと推定されている)が存在していた。
 その中に、「小学ニ於テハ男女生徒ヲ混同シテ教ユルモ又ハ別ニ女子小学ヲ設クルモ地方ノ便宜タルヘシ」「女子ニハ裁縫及ヒ斉家法ヲ加へ教ルコトアルヘシ」とし、「女子中学ハ別ニ之ヲ設クルニアラサレハ男子中学中ニ其一局ヲ立ツヘシ而シテ女子ニハ裁縫、斉家及ヒ繍箔等ヲ加へ教ユヘシ」等の規定が見られ(『明治文化資料叢書』第八巻)、男女の教育課程を区別しつつも、地方の便宜によって別学でも共学でも可としていた。  

 この学監考案では明らかに、小学校では、男女混同教育でも、女子小学別置でもよし、また女子中学は別に設けていない場合には、男子中学に一局を置くとあった。
 しかし、教育課程の上では、女子には裁縫等の特別の教育内容をおくものとし、中学は、別学校ではなくとも別学を想定していた。
 モルレーの案は、とくに儒教主義的なものとは関係のない考案であった。
 このような背景の下で、教育令が用意され、制定の最終段階にあたる明治十二年六月二十五日に重要な修正が加えられて可決された。
 つまり、教育令案は、元老院の院議においても、六月二十三日には、小学校を例外として可決したのであったが、六月二十五日になって小学校も含めて、原則は別学とする案が再提案され突然修正可決されたのであった。  

 この間の事情を『元老院会議筆記』によってみると、明治十二年六月二十三日第二読会にて、原案はいったん可決された。
 可決された原案は、最後の段階まで、「小学校ヲ除クノ外ハ男女教場ヲ同クスルコトヲ得ス」という内容であった。  

 ところが、明治十二年六月二十五日第三読会が開かれ、突然、「凡学校ニ於テハ男女教場ヲ同クスルコトヲ得ス但シ小学校ニ於テハ男女教場ヲ同クスルモ妨ナシ」とする修正案が上程され、さらに佐野常民が、修正案よりもさらにきびしく、但書も不要であるとの意見を述べた。
 しかし、佐野意見は、否決され、修正案が可決されたのである。  

 佐野は、「小学校ニ於テ男女教場ヲ同ウスルノ害ハ衆官ノ知ル所ナリ 畢寛田舎等ニハ教員不足ナルカ為メ巳ムヲ得サルニ由ルノミ 男女ノ年齢ニヨリテハ或ハ不品行者ノアルノミナラス男女ハ教則ヲ異ニスルモノナルハ之ヲ欧州ニ実験スルモ皆然ラサルハナシ 何トナレハ男女ハ各別ノ業ヲ教ヘサルヘカラス 反対論者ハ男女剛柔相須ツテ良性ヲ鍛錬スルト云ヒ米国等ニハ男女平均論アリト云ト雖モ本官ノ実験スル所ヲ以テセハ其実絶テ之レアルコトナシ 元来男女ハ強弱其性ヲ異ニスルモノナレハ教場モ亦決シテ同ウス可ラス 尤モ幼稚園ニテ九歳マテ混同シテ之ヲ教フルハ恕スヘキモ其以上ニ及テハ決シテ之ヲ教ヘサルナリ 故ニ但書ハ刪ルヘシ」と主張したのである。  

 この日、可決された内容は、九月二十九日制定された正文と同じものである。  

 教育令によって、学校における男女別学の原則が明定されたが、例外規定を含む小学校と異なり、中等以上の学校については、急速に別学制度は確立されていった。  

 明治十五年十二月一日には、中学校制度の整備に伴う女子中等教育のあり方について、女子高等普通教育についての別学方針の明確化に関する通牒が発せられた。
 これより先、すでに男女別学校制度を基本とする教育令、改正教育令が制定されているが、男女の分化をより鮮明にしようとしたものとして注目されてきた。  

 しかし、この通牒によれば、「中人以上ノ女子ニ順良適実ノ教育ヲ授クルヲ主眼トシ傍土地ノ情況ヲ酌量シ学科ノ増減等適宜御取調相成可然儀ト御承知有之度随テ其名称モ中学ト唱ヘス女学校等ト相唱侯方可然候」とされ、いよいよもって男子教育とは区画された女子教育の体系が別枠として成立していくことになった(『学事諮問会と文部省示諭』一九七九年、国立教育研究所)。  


おわりに

 筆者は、百二十年間も陽の目を見ることのなかった幻のマニュスクリプトの運命について考え てみようとした。  

 これまで手に取った人はいても、これは何かというだけで、出版されたことも「我耳東」がだれかもわからなかった。
 訳文も確かに読みにくいので、相手にされなかったのかもしれない。
 しかし、内容の重要性から考えれば、また教育方針が、真に子どもの養育と人格の形成の観点から考えられているならば、注目すべき編著書である。
 ちょうど、日本が幕末から明治維新にかけての頃、欧米では、女権運動の展開とともに、女性の高等教育、専門教育が現実の課題となっていたのである。  

 日本では、つかの間の文明開化から儒教主義的再編の過程で、男女別学の制度を確立し、女性の教育機会を著しく制限したまま、男子教育と女子教育のシステムを構築していった。
 その原初に一人の日本人が、欧米における最先端の女性教育論を編纂した一書に注目し、少なくとも三年はかけたであろう、明治十年代の初めの数年をかけて、翻訳事業に挑んだのである。  

 歴史上のウォルストンクラフトや同時代のミリセント・フォーセットのことやバッサー校やオバーリン校、あるいはケンブリッジのガルトン校、ニューナム校のことをどのような気持ちで読み進めたのであろうか。  

 また、原著にある「自由」の文字を用いず、原編著をわざわざ独自に「改編」してこの翻訳書をまとめようとしたのはなぜなのか。  

 そして、この労作が、ついに刊行に至らなかった過程で何を考えていたのだろうか。  

 しかし、宮崎訳のウォルストンクラフトに関する部分などを読むとこの訳業の中で、ひしひしとやがて来たるべき新しい時代を感じていたのかもしれないと思うのである。  

 改編の最初の部分を書き上げたのが、明治十三年六月、そして全体の仕事を終えたのが、明治十五年二月、宮崎駿児が、最初にこの本を読み進めていた頃から、わずか三、四年ほどの間に、日本の将来の教育方針が大きく変化していったのである。  

 その貴重な情報は、覆い隠されてしまったのである。  

 時恰も、男女別学政策と同時に、当時明治十三年三月、主として教科書政策に関わることであるが、文部省に編集局を置き、さらに取調係をおくとともに、同年八月と九月には、「不妥当之条項有之」書籍の書目を発表した。
 さらに、同年十二月には、「国安ヲ妨害シ風俗ヲ紊乱スルカ如キ事項ヲ記載セル書籍」を用いてはならないことを通達した。  

 また、十四年三月には、「誤刻有之モノ相見エ教育上ノ弊害ヲ生スル不尠」ということから、図書翻刻に当たっては検査を受けるように通知した。  

 さらに、明治十五年五月には、東京師範学校、東京女子師範学校、大阪中学校等に対し、「其校備置ノ図書ヲ生徒ニ観覧セシムルハ教課ノ参考ニ供スル旨趣ニ付苟モ国紀ヲ紊リ風俗ヲ壊ルノ嫌アル者ハ勿論教育上弊害ヲ生スルノ恐アル者ハ観覧セシム可カラサル様ニ侯条」と通達した。
 生徒に読ませる本についても注意するようにというものである(『明治以降教育制度発達史』第二巻、教科書や翻刻出版に対する規制の問題は、機会を改めて論究しなければならない。  

 その中で、男女異別の問題は、当時の教育政策の根幹に関わる問題として独自性を持っていたと考えられる)。
 そして、明治十四年の政変以後、英米学と英米思想からの脱却が意図的に図られた時代でもあった。  

 このような情勢の下で、宮崎駿児訳の「我耳東氏女子教育論」はもはや世に出ることは困難な状況にあったといわなければならないであろう。  

 それより百年前には、ウォルストンクラフトらが、ジョージIII世の、治安撹乱の著書や会合を制する布告によって、弱者の立場で考えようとすることが生き難かったように、明治十年代に宮崎の訳業は、やはり世に容れられなかったものと察せられる。  

 新しい知識を求める人たちが切り拓いたその成果が取捨されて、利用されたり、破棄されたりする、時代との隔たりのために個の人生の大業を完成し得なかった人たちがどれほど多かったことであろうか。
 そして、それは明治期に限らず、いつの時代にも、そして世界のいたるところで現在も続いているのである。