資格を活かしながら社会で活躍する卒業生の声

資格を活かしながら社会で活躍する卒業生の声

株式会社サンマーク出版勤務 岡田寛子さん

岡田寛子さんの写真

旧日本アジア言語文化学専攻 2007年卒業

私が大好きだった場所

先日、こんな夢を見た。
 薄暗い部屋に、長い長い梯子があった。少し寒くてほこりっぽい部屋だ。梯子をてっぺんまで登り切ったところで、頭上に手をのばした。何かが手に触れ、それを引っ張り出そうとしたが、なかなか出てこない。一ミリくらい出てきたところで、爪をたて、もう一度力を込めて引っ張り出した。手にしていたのは『国史大系』だった。
 本の縁にひっかけた爪の感触が目覚めても残っているようなリアルな夢だった。あまりに意外な場所を夢に見たせいか、それとも寝起きでぼーっとしていたせいか。その場所が「日亜の共同研究室」だと気づくのに数分かかった。
 卒業してもうすぐ丸五年。私は今、東京の出版社で編集者をしている。
就職が決まったときは、「芸能人に会えるかも」というミーハーな気分で上京した。けれど、すぐに働くことの厳しさを知ることになった。
 叩いてもつねっても企画が出てこない日々。渾身の思いでつくった本がまったく売れず、すぐに絶版になった。忙しい生活の中で、もうずいぶん大学時代のことを思い出さなくなっていた。
 その私がどうしてこんな夢を見たのだろう。この原稿を依頼されたからかもしれない。その日は一日、なんとも穏やかな気持ちだった。
 私はきっと夢に見るほど研究室が好きだったのだろう。毎日通った場所。先輩や友達に会うために。あるいはただ、本のにおいを嗅ぐために。
 最近でも、仕事仲間や担当している著者に、大学時代のことを促されて話すことがある。「校内を鹿が歩いている」なんて言うと、大抵の人は喜んで話を聞いてくれる。でも私が本当に好きだったあの場所のことは話していない。きっと誰に話してもその魅力はわかってもらえないだろうから。
 社会人になって、学生時代とは比べものにならないくらいたくさんのものを得た。電話一本で駆けつけてくれる仲間。最新のファッション。行きつけのカフェ。最近は小さくてもヒットを出すことができた。けれど私の原点は、あの狭くて暗い研究室にあると感じる。仕事に夢中になると、あの頃と同じように一人きりになって、没頭できる場所を探し続けてきた。
 けれど未だに、あの研究室のように落ち着く場所には出会えていない。――いや待て。一度だけ似たような場所を見た気がする。東京のど真ん中で。
 上京してすぐ、OGの先輩を訪ねたときのことだ。大学時代の話をするうちに、騒がしい都内のファミレスが、あの研究室になったように感じた。
 みなさんに何を伝えられるだろうとずいぶん悩んだが、書き進めるうちに、結局、奈良女子大学への五年越しのラブレターになっていることに気づく。
 そこにあるのは、誰も目に留めない、ありきたりな風景かもしれない。けれど、構内の至るところにきっと、忘れられない場所ができるはずだ。そんなかけがえのない学生生活を楽しんでほしい。

豊島岡女子学園中学高等学校(東京都豊島区)勤務 教諭 金子由果さん

中学校英語教諭免許(一種、専修) 高等学校英語教諭免許(一種、専修)2008年大学院前期課程修了

英語教師への道

私は文学と言語(特に英語とドイツ語)が好きだったので、大学での勉強は多くの文学作品や論文に原文で触れることができ、とても刺激になりました。また、私は大好きな英語を職業で使っていきたいと思い、教員を志し始め、英語教員免許を取得しました。ただ、私はもっと英語教育に関して多く学びたかったので、院生二年目の後期から二年間休学し、ロータリー国際親善奨学生としてアメリカのペンシルベニア州の州立大学院で二年間TESOL(英語教授学)を専攻し、修士号を得ました。そこでは英語教育に対する視野を広げることができ、充実した留学生活を送ることができました。復学後は専門のアメリカ文学で修論を書き、その論文で日本学生支援機構の奨学金返還免除も受けました。
 今は東京の私立女子校(中学高校一貫校)で英語教師をしています。中学一年、三年、高校二年、三年を教えています。いろんな学年を教えることは勉強にもなるし、特に高三と中一では生徒への対応の仕方も彼女たちの反応もかなり違ってくるので、そのギャップを楽しみながら教えています。またオーラルコミュニケーションの授業も持っており、ALTの先生と授業計画を立てて二人で教えるのもまた違った刺激になり、特に留学時代の異文化体験が授業で役立っています。昼休みや放課後なども生徒たちが職員室にやって来て質問をしてくるので、彼女たちとのコミュニケーションも楽しみの一つです。教師といっても校務分掌や部活など様々な仕事があり最初は大変でしたが、一番の励みは、生徒たちが「英語楽しいです」と言ってくれることです。まだまだ勉強することが尽きないですが、英語教師として充実した毎日を送っています。

横浜市立荏田西小学校勤務 教諭 岡本奈美江さん

岡本奈美江さんの写真

2007年3月卒業 取得資格:小学校教諭免許(一種) 幼稚園教諭免許(一種) 学校図書館司書教諭

私は、奈良女子大学に3年次編入学で入学しました。前の大学でも、小学校免許の単位は取得できましたが、奈良女子大学では教育・哲学・音楽・スポーツ・心理など様々な分野の講義を受けることができ、視野を広げることができたと思います。一つのことを多面的に考察することの大切さを学び、自分の考えを深めることができました。編入学のため、卒業に必要な単位取得と小学校一種免許・幼稚園一種免許・司書教諭の単位を取得するのは、本当に大変でした。講義の数が多いだけでなく、教育実習や卒業論文もあり、アルバイトやボランティア、遊びも楽しみたいし...。親身になって相談にのって下さる先生方に助けられ、イギリスのレスター大学との共同研究のリサーチアシスタントという貴重な体験をさせていただいたり、これまで提携していなかった都市とのスクールサポーターへの道を開いていただいたりとお世話になり、充実した学生生活を過ごすことができました。

今は、横浜市の小学校で教員をしています。特別支援学級の担任として2年を過ごしました。子どもたちの元気な笑顔と、何事にも懸命に取り組む姿に、私自身が励まされながら共に成長している気がします。障がいのある子どもたちなので、言葉だけではなかなか通じないこともあったり、同じことを繰り返し指導したりしなければなりません。遊びや着替え、トイレなども指導の内で、様々な場面において体力勝負の仕事です。それでも、行事で立派に発表や演技をした子どもたちの誇らしげな姿や、それを嬉しそうに見ておられる保護者の方の笑顔を見ると、それまでの苦労や大変さが吹き飛びます。自分にできることを力いっぱいやろうとする、子どのたちの意欲に満ちた顔は本当に輝いて見えます。ゆっくり成長する子どもたちの、ほんの小さな成長。それを見逃さずに発見し、一緒に喜ぶことができることに教師としてのやりがいを感じています。また、そんな子どもたちと過ごすことにより、自分自身も成長させてもらっていると感じます。

次は1年生の学級担任で、また新しい子どもたちと新しい生活が始まります。まだまだ教師としては未熟ですが、同僚の先生方に学びながら、子どもたちの「せんせー!」「おはようございまーす!」「先生!できた!」という元気な笑顔に囲まれて、これからも頑張っていきたいと思っています。

遠野市教育委員会文化課勤務 学芸員 菊池信代さん

菊池信代さんの写真

学芸員 2007年 古代文化地域学専攻卒業

山伏神楽に関する一考察 −早池峰神楽を中心として−

一括りに「学芸員」といっても、その仕事は千差万別。
博物館はもちろん動物園や水族館に勤めるのも学芸員ですし、それぞれの館の特色や運営形態によって学芸員の仕事は変わってきます。
 然して我が遠野市文化課はというと「なんでもあり」。
 特別天然記念物(カモシカ)の保護、遺跡発掘に博物館のご案内、HP作成から出納事務まで業務は多岐にわたります。求められるのは一に体力、二に根性、三四は度胸で五に知識。しかし「民話のふるさと遠野」のイメージの発信源として、また歴史・文化を地域づくりに活かす市政の要として、観光や福祉などの分野とリンクしながら様々な角度から遠野を世界に発信していく仕事はとても楽しくやりがいを感じます。

私が奈良女を選んだのは、やはりその環境が大きかったと思います。東大寺や春日大社といった世界遺産、数々の寺社や遺跡が徒歩圏内にあり、飛鳥や京都へも電車で1時間というまさに最高の環境。授業では正倉院の下に特別に入らせて頂いたり、博物館の収蔵庫を見学できたりと、「本物」に触れる機会が沢山ありました。
 演習と論文づけの毎日は確かに大変でしたが、鍛えられた思考力や強靭な精神は社会に出ても十分応用できます。そしてサークル活動やアルバイトで培った経験と、かけがえのない友人達と過ごした奈良女での4年間は何物にも代え難く、そのすべてが今の私に活きていると実感しています。
 奈良女でしかできない学生生活をぜひ楽しんでください。

砂子療育園 発達支援室 臨床発達心理士 塚本靖子さん

塚本靖子さんの写真

1995年大学院前期課程修了

卒業後も、関西に在住しながら仕事を続けている私は、時々近鉄電車に揺られ、奈良の地に降り立ちます。もう十数年以上前に学生時代は終えたのですが、恩師の言葉に甘え、独りでは到底立ち向かえそうにない文献と問いに向き合う機会を今もいただいています。

心理学を学ぶ。それも「発達心理学を学びたい」と、最初に私が強く意識したのは、知的障がい者の方との出会いにあります。発達心理学という言葉ではなく、「この方達は、どんな風に育ってきたのだろうか?」という、素朴な疑問だったと覚えています。はじめは、自分を何処かに置いて、相手の方を見つめるような感覚でいたような気がします。でも、よくよく考えると、「この私自身さえも、いったいどこからやって来たのでしょう。今此処にこうして確かに存在している"わたしが在る"ということについて、深く掘り下げて考えることの大切さを学んだのは、奈良女での学生時代だったと思います。今も、恩師や後輩の方とそういう時間をいただきながら仕事を続けることができることに、深く感謝しているところです。

臨床発達心理士として活躍されている方は、全国に増えてきていると思います。また、それぞれの方が活躍されているところによって、求められる仕事も異なってくるとは思いますが、ほとんどの方が、何らかの生きにくさを抱える方とそのご家族への支援を仕事とされていると思います。現在の私も、ハイリスクで生まれた子ども達、あるいは、出生後に発達の遅れや困難さを有することが分かった、地域で生活する子ども達とその保護者への支援を主な仕事としています。また、重度の障害を有し、その人生や生活のほとんどを他者にも委ねながら生活をされている方やご家族への支援にも携わり始めたところです。生まれて数年の子ども達と、四十年近く施設で生活をされている方との出会いを同じ言葉で語ることは難しいと思いますが、相手の方が、その人らしく生きて生活するのはどういうことなのだろうかと考えさせられることも多く、またそういう方々に接する私自身のまなざしを磨きながら仕事をすることが、この仕事には求められているのだと痛感しています。

学生の頃には、専門分野だけを頭のどこかに置いていたような気がしていますが、相手の方の生活とその歴史を支える意味においても、倫理や哲学はもちろんのこと、医学や工学といった領域とも発達心理学は密接に関ってきていると思いますし、他職種の方との出会いで学ぶことも、大切になってきています。

授業中、ふと教室の窓の方に目を移すと、鹿がゆったりと過ごしている。自分が論じようとすることが行き詰まると、二月堂に向かい、奈良の市街地を眺めると、肩や頭の力がスーッと抜け、「ああ、そうか」と気づかされることが、幾度となくありました。奈良女には、そういう時間が流れていることも、魅力の一つだと思います。

京都市障害者スポーツセンター勤務 インストラクター 太田裕子さん

太田裕子さんの写真

1992年文学部卒業、1994年大学院前期課程修了

大学、大学院時代は運動生理学を学び、マスクを着用して自転車を漕いだり、握力計を握ったりして運動中の身体の変化を研究し、身体の反応の不思議とそのおもしろさに魅せられました。その経験を少しでも活かしたいと、現在、インストラクターとして、主に障害のある方を対象に運動・スポーツを指導しています。在学中の知識だけでは実際の指導では机上の空論。実際に障害のある方々と一緒に運動をしていると、障害やその程度はさまざまで、一人ひとりに合わせて運動・スポーツを提供しなくてはならず、その難しさを痛感しています。研修会や資格を取得するなどして少しずつではありますが、経験を積んできました。健康運動指導士の資格もその中のひとつです。でも資格を取ったから飛躍的に何かが変わるということではありません。やはり現場で障害のある方と一緒に運動し、「ああでもない、こうでもない」と試してみることも少なくはありません。工夫を加えて、達成できたとき、ご本人は当然のことながら、指導している私たちも喜びはひとしおです。こんなふうに、工夫しながら達成していくことが楽しいと思えるのは、在学中、「ああでもない、こうでもない」と先生や仲間とともに頭をつき合わせて研究していたときに養われた性分なのかもしれませんね。
 障害がある方々にとって、運動は障害のない人以上に重要なことだと感じています。なぜなら、障害があることで体を動かしづらかったり、億劫になったり、運動をする場所に行くことが困難だったりして運動の機会が少なくなり、生活習慣病やメタボリックシンドロームなどの健康でない状態になりやすいと考えられるからです。また、これらの病気が原因で中途で障害をもった方も少なくありません。ご存知のとおり、適度な運動は精神的にもよい効果があるとも言われていますが、達成感が得られ、自信につながったり、生活にハリが出たりと、障害のある人にこそ、より効果があるのではないかと感じています。このような運動の大切さ、運動の楽しさ、運動することによって様々に変化する身体の反応のおもしろさをこれからも多くの人に知っていただき、障害のある方もない方も楽しく健康に暮らせるようにほんの少しでも役に立てたらと願っています。

日本航空インターナショナル勤務  キャビンスーパーバイザー 工藤 真穂子さん

工藤 真穂子さんの写真

旧 体育学(現:スポーツ科学)専攻 1983年卒業

いにしえの都 奈良から世界へ

大学選考にあたって、大学の土地風土や学生の生活模様を事前に知ることが、私はとても大切だと感じています。それは、将来どこに住んで、何をして生活していくかで、出逢う人間も出来事も決まり、人生が変わってゆくからです。
 私は今、飛行機客室乗務員のヘッドとして、世界各国を忙しく飛んでおります。日本の歴史と四季を大切にする奈良の土地で過ごした学生生活の経験により、日本のことを話せる日本人として外国からのお客様に喜んでいただいております。また、ヘッドとしてのリーダーシップは女子大だからこそ得られたものです。
 奈良女子大学は日本の古都にある女子大です。明治時代から存続する高等女子師範学校の意味を理解することで、伝統の素晴らしさを感じていただけると思います。私は以前、仕事でイギリスやドイツの有名伝統校へ訪れましたが、そこで奈良女に共通する懐かしさを感じました。出逢った学生方は、明るくおおらかで相手を理解しようと努め、人柄に余裕を感じました。奈良女子大学の先生方も仲間もおおらかです。最先端の教育は決して甘いわけではありませんが、厳しい中に愛情があるのです。伝統を誇りに思う真摯な気持ちと、奈良の地ならではの春夏秋冬を心に留める感性を持ち合わせた結果ではないでしょうか。奈良女子大学に流れる一流の精神を、どれだけ感じとり、影響を受けてゆくかは学生自身にかかっています。
 わずか四年間の大学生活での経験が、その後二十年以上の私の人生における考え方の基盤になっています。仕事でつまずいた時は奈良へ帰り、街を歩き、大学へ行き、先生にお会いし仲間と話す、そしてエネルギーをもらい、また社会へ帰ってゆく。
 これから入学される皆さんには、奈良女子大学が卒業した後も人生のサイクルに時々顔を出す。そのような存在になる学生生活を送っていただきたいと思います。

二松学舎大学 文学部国文学科 准教授 日本語学会所属 島田 泰子さん

島田 泰子さんの写真

旧 国語国文学(現:日本アジア言語文化学)専攻 1990年卒業

原風景としての確かさ

私の場合、在学11年・在職3年、あわせて14年の歳月を奈良女子大学で過ごしました。母校から別の国立大学を経て現在の職場へ移り、ちょうど丸2年経ったところですが、今の勤務先は、不思議と「我が母校に似ている」と感じる点が多くあるんです。まずは、長い歴史(二松学舎大学は昨年ちょうど創立130周年を迎えました)。そして各都道府県からの進学者を迎える全国区の大学であるところ。その割に、知名度に関してはやや控え目というか、言ってみれば「地味な」大学であるところ。比較的こぢんまりとした規模。学生の生真面目なトーン。落ち着いた学風。伝統と絶えざる革新の絶妙なバランス。一言でまとめるなら「確乎たる固有の個性を持った、希有な大学」というところでしょうか。
 在学当時のことを思い起こして、学生の立場から奈良女子大学を語るならば、「原風景としての確かさ」に尽きるでしょう。古都奈良の街並み。旧講堂のたたずまい。授業を聴講する窓の外の鹿たち。書庫の古びた資料のページの、「まるで私の調べ物を、ことごとく先回りするかのような!」何十年も前の先輩方による(と見られる)、書き込みや付箋の数々。今でも鮮明に目に浮かびます。そんな情景の中、演習まみれの日々を通じて学んだ高度な専門性や、妥協しない先生方に容赦なく鍛えられたこと、課外活動やアルバイトや様々な人間関係との折り合いの苦労なども含めたさまざまな経験が、母校を離れて後の人生にも「よるべき価値観の原形」としてさりげなく作用しているように感じます。
 ちなみに、大学入学当時の私には、「研究者になって大学に勤める」という未来予想図はありませんでした。その意味で、奈良女子大学は「思いも掛けなかった未来」への扉になったわけです。扉がたくさん用意されていて、落ち着いた環境の中でそれらひとつひとつを十分に吟味できる――奈良女子大学は、そういう時間&空間であったように思います。

毎日新聞勤務 外信部記者 大谷麻由美さん

大谷麻由美さんの写真

旧 社会学(現:社会情報学)専攻 1990年卒業

いつも後押ししてくれるその姿

中国の震災地で損壊した豚小屋を取材するなど、学生時代の自分には想像もできなかったことだ。
 大学の卒業式数日前に、就職を取り止めて北京に留学することを決めた。大学時代の就職活動では、希望だった新聞記者にはなれなかった。留学を決めた一番の理由だ。中文学科の同級生が前年に留学していたこと、残留孤児に関心を持っていたこともあった。
 自分では「これからは中国の時代だ」と92年当時、真剣に信じていた。同級生たちも「頑張って勉強してきてね」と励ましてくれた。しかし、何年かたって「どうして中国なんかに行くのだろう」と当時は疑問に思ったと、同級生たちの本音を耳にした。一人で意気揚々としていた自分がおかしかった。
 中国政府が民主化運動を武力鎮圧した89年の天安門事件から、まだ3年しかたっていない不安定な時代だった。国際的な経済制裁が続く中、かつての最高指導者、故・鄧小平氏が、もう一度「改革・開放」政策に加速度をつける号令をかけた直後だった。
 知人も頼る人もおらず、中国に足を踏み入れたことも無い中から始めた中国留学だった。2年間の留学中、さまざまな困難を乗り切り、一人で各地を旅行したりもした。生きる自信を自分なりに身につけた時だった。
 96年10月にようやく記者になることができた。04年4月から北京に赴任。北京2年、上海2年の計4年の特派員生活を終えて、今年4月から、また東京で勤務している。
 気が付けば、中国は国際社会でも大きな存在感を示す大国の一つとなっていた。急成長する隣国の生の姿を直接取材できる幸せを感じている。今年5月に発生した四川大地震でも現場を歩くことができた。
 私にその下地を作ってくれたのは、お世辞ではなく、奈良女子大学という場所だったと思う。同級生たちは学生時代、バックパックを背負って世界を旅して回る勇気があった。当然のことだが、女子学生しかいない学内で、誰に頼るでもなく、すべてを自分たちで運営する力強さを持っていた。ドロップアウトしたかのような私を、見守る優しさがあった。
 その姿が、いつも私を後押ししてくれた。

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