奈良と言えばお寺、お寺と言えば仏像−−というわけで、奈良を宣伝する観光ポスターなどには仏像の写真が多く使われる。興福寺の阿修羅像や秋篠寺の技芸天像などは、喩えるならば人気女優と肩を並べる別格の扱い。その美しさは人々を奈良に誘う。 しかし、そうした見方はいかがなものか。仏像は言うまでもなく信仰の遺物、祈りを捧げるべき対象であって、眺めるものではない。凡夫がその姿かたちをうんぬんし、美醜の優劣をつけるなど、聖なる仏に対し失礼千万な行為ではなかろうか。 「信仰」の所産である仏像を「美的」に鑑賞する人のふるまいは一体いつに始まったのか。過去の人々に−−仏像は「美しい」か?−−と問うてみよう。 インドでうまれた仏教が朝鮮半島を経由して日本へ仏教が伝来したのは欽明天皇十三年(552)のこと。それを伝える『日本書紀』の記事には「西蕃(にしのとなりのくに)の献(たてまつ)れる仏(ほとけ)の相貌端厳(かおきらぎら)し」との言葉がみえる。初めて仏教に接した私たちの祖先は、仏教教理の深遠さとともに、光り輝く仏像の神秘さに心打たれたようである。 たくさんの仏像が、初期には大陸や半島の像の見よう見まねで、のちには日本独自のスタイルで作られるようになったのは、これがきっかけと思われる。 『日本霊異記(にほんりょういき)』には次のような話がある。ある在家信者が和泉国の某寺に安置された吉祥天女像に「天女のごとき容好(かおよ)き女を我れに賜へ」と祈ったところ、吉祥天女と姦淫する性夢を見た(中巻-13)。いささか猥雑な説話であるが、この男は確かに仏像を美しきものとしてみつめていたに相違ない。この像自体は現存しないが、薬師寺に伝わる天平時代作の吉祥天女画像はなるほど女性的な美しさをたたえているかにみえる−−今日の私たちの目からみても。また続く平安時代に制作された仏像−−とくに密教像−−にも性差を際だたせた遺品が目立つ。 「聖なる仏」は「生身の人間」とイメージのなかで身体を重ね合わせ、それにしたがい造形され、そして眺められるようになった。 長承三年(1134)六月十日、仏師院朝は京都西院の阿弥陀堂にいた。この堂には平安時代中期に活躍した大仏師定朝作の仏像が安置されていた。院朝はこの日、仏像の寸法を細かく計測している。全身の大きさ(丈六)、顔の寸法(一尺七寸)、髪の生え際から眉毛までの距離(三寸五分)・・・先輩作家の遺品を精査し、それを参考とすることで院朝はみずからの仏像制作の基礎をなそうとした。いや、参考と云うより、むしろその所作は定朝の仏像のコピーを作ろうとしたかのようだ。しかも興味深いのは、この日の出来事は源師時の日記『長秋記(ちょうしゅうき)』に記されている。仏像の細部計測値もすべてそこに記される。このことは、仏師のみならず、平安貴族もまた仏像の姿かたちに強い関心を抱いていたことの証拠といえよう。 憧れの女優のスリー・サイズが気になるように、仏像のスタイルに人々の興味がむいた時代であった。 江戸時代初期に狩野探幽が写した「地蔵縁起絵巻」(京都国立博物館蔵探幽縮図に収録)には、ある男が地獄に墜ちたとき、年来信仰していた西山にまつられた地蔵に救いを受けた話がみえる。蘇生した男に向かって人々は問いかけた−−なぜ、あの地蔵だけをとりわけ信仰するようになったのか−−と。「いずれよりもかたちのとうとくおはしまし侍りし程に、おかみたてまつりけり」−−それが男の返答であった。 縁起はこの文に続けて「されば、仏の相好(そうこう)はよくつくり、よくかきたてまつるへき事や」と結んでいる(*)。 以上、飛鳥時代から江戸時代までを、ざっと総覧してみた。各時代それぞれに「美しい」仏像が人々の心をとらえていたことがうかがえる−−そして、その「美しさ」こそが「信仰」支えてきたことも。 私たちは凡夫であるからこそ、まずは美的な感覚の回路を通じてしか、仏教の奥義や真理に近づくことはできないのかもしれない。 とするならば、仏像のポスターに惹かれて遠方より奈良を訪れること、鑑賞眼をもって熱心に仏像をまなざすこと、あるいは奈良女子大学にて仏教美術の歴史を研究することもまた、さしずめ仏に対して非礼な行為というわけでは必ずしもなさそうである−−そう思うと、すこし安心する。 (*)地蔵縁起については中野玄三氏の解説(京都国立博物館図録「六道絵」1982掲載)よりご教示を受けました。記して感謝の意を表します。 (加須屋誠 かすやまこと 日本東洋美術史学) |