過去の時間?




  過去の時間認識。歴史研究に不可欠の要素であるはずの、この時間認識に関する研究が、欧米などの歴史学界でどの程度研究されているのか、不勉強な私にはわかりません。私が知っているのは、日本史の分野でそれが考察の対象となったことがほとんどなかったということです(近年の「時間」を冠した日本史分野での研究、あれはいったい何をねらったものなのでしょうか?)。支配・階級・身分などをキーワードに社会構造の全体像の解明を目指してきた日本史学界に、過去の時間認識の研究などにうつつを抜かす暇人はいなかったということでしょう。それは必ずしも非難されることではないのかもしれません。

 しかしこのままでは、人々は過去をどのようなものとして理解してきたのか、という歴史学としてごくごく普通の問い(この問いは、歴史学はなぜ必要とされてきたのか、という問いと通底します)に十分に答えることはできないのではないか。そんな危惧がふと頭をよぎって、過去の時間認識の世界を少しだけ覗いてみたら、深みにはまって足が抜けなくなってしまいました。

@古代の歴史学
 奈良時代の学制改革を経て、首都に設けられた古代の大学が最高学府として最盛期を迎えるのは平安時代初期のことです。当時の大学には、紀伝道(史学と文学)・明経道(儒教古典)・明法道(法律)・算道の四学科がありました。紀伝道の史学教科書は三史です。三史?なぜ?。古代史研究者には当たり前すぎて問題にならないことでも、門外漢の私には不思議に思えます。
 三史とは『史記』『漢書』『後漢書』のことで、言わずと知れた中国古代の歴史書です。『日本書紀』や『続日本紀』という正式な国史が編纂されていたのに、大学の紀伝道では中国の古代史を勉強しているのです。当時の歴史学を(あるいは歴史学という学問そのものを)技能の問題に還元して怪しまないのであれば、紀伝道の教科書が先進国中国の編纂した三史であったことは、それほど不思議なことではないのかもしれません。しかし12世紀に大学が退転してしまうまで、『日本書紀』や『続日本紀』などの国史が紀伝道の教科書になることは一切ありませんでした。日本古代の歴史学は、自国の古代史には大した関心を示すことなく、中国古代史(古代世界史)を徹底的に学ぶ学問であったということになります。日本古代において過去の時間認識はどうなっていたのでしょうか。

A『古事記』の時間
  太安万侶の手になる『古事記』の序文に、「上古の時、言意並びに朴にして、文を敷き句を構ふること、字におきてすなはち難し」という著名な一文があります。「上古の日本語の文章詞句を漢字で表記することは甚だむずかしい」という意味です(岩波文庫『古事記』解説)。「古」と「上古」がこの場合はほぼ同義です。言葉を基準にした上古観が『古事記』の時間ということになります。
  同様の視点で『日本書紀』の「古」の使用例を調べてみると、推古天皇の一代前に当たる崇峻紀までがそれに該当しています。『古事記』や『日本書紀』が成立した8世紀初頭において、『古事記』に採録された天地開闢から推古天皇までの時間は、上古と認識されていると考えてよいと思います。では、人々にとって上古はどういう時間だったのでしょうか。
 込み入った論証は抜きにして、ここでは結論だけ述べておきます。
 日本の古代や中世において、過去の時間は上古と中古に区分するのが一般的です。中古は「近代」(現代とほぼ同義)に連続する時間で、いわば先例の時代です。上古は中古に連続せず、中古以降から何らかの意味で切り離された時間です。「近代」からみて、戻りようのない不可逆的時代、それが上古という時間の特徴です。しかし上古は「近代」と無関係な時間ではありません。それは何らかの意味で規範性の高い時代として認識されています。また、何を過去認識の基準にするかで、上古と中古の区分は変化します。上古や中古は固定された時代ではなく、相対的な時間表現であるということになります。
 上古がこのような時間として認識されていたとすると、上古の空間を自国の範囲に縛り付ける必要はないということになります。「上古」や「古」の事例として『日本書紀』に中国古代の聖王の記事が登場するのは、このためです。中国の三史が日本古代の大学の教科書となったのも、当時におけるこのような過去の時間認識が大きく影響していると私は考えています。
 しかし、問題はさらにその先にあります。それは、日本における過去の時間認識を調べていくと、過去の時間の「近代」からの切り離しを実施することによって、時代が前進しているように見える点です。記録で確認できる数百年・数千年もの過去を引きずりながら、人々が時代を進展させたことはなかったように思えるのです。社会進化と過去の時間認識の関係がどうなっているのか、社会とその過去の時間はどのように調和しているのか、人々は「歴史」に何を求めてきたのか、課題とすべき問いはそこにあります。「なら学」がその問いにどのような解答が出せるのか、もう少し考えてみる必要がありそうです。

(西谷地晴美 にしやちせいび  日本中世史)