奈良町奉行の暮らし向き
現在、奈良女子大学の建つ場所には、江戸時代に奉行所がおかれていたことをご存知でしょうか?奉行所の正式な名称は「奈良町奉行所」、慶長18(1613)年に江戸幕府が遠国奉行の一つとして置いたもので、主に南都の町政や大和国内の社寺行政を担当していました。幕末の奈良町奉行川路聖謨は、弘化3年(1846)から嘉永5年(1852)まで奉行を務めましたが大変優秀な人物で善政を行い、町衆と力を合わせて現在の奈良公園の界隈を整備し、奈良県北部を流れる佐保川沿岸に桜を植林したことなどでその名が知られています。奈良女子大学の構内では、校舎を建てるときや建て替えの時などに、真下に眠る奈良町奉行所跡の発掘調査が行われています。 発掘調査をしていると、遺跡からは動物や魚の骨、貝など、人間が作ったものではない遺物が出てくることがあります。土器や石器、木製品、そのほか人間の手による道具類などが出てくると、「あぁ当時の人はこんなことをするために、こんなものを、こうやって作っていたのではないかぁ」ということを考える手がかりとすることができます。その一方で、動物や魚の骨、貝の類は、うっかり見過ごされがちですが、実は、当時の人たちがどんなものを、どうやって手に入れ、どのようにして食べていたのかなど、生活の実態について多くのことを考える手がかりとなります。 奈良町奉行所のような近世の遺跡から出土する動物骨の資料が最近、注目を集めています。当時人々が多く集まっていた江戸や大坂の城下町、京都などの町中の武家屋敷跡や町屋跡などから動物骨が見つかると、その時代の都市部の台所事情がみえてきます。出土した骨には、調理の時に包丁で付けられた傷などが残っていることがあり、例えば現在にも残る鯛の冑割りなどが、江戸時代にもおこなわれていることが分かります。そして海産物が、近くに海のない奈良や京都の町中から出てくれば、少なくともそれらは大阪、京都北部、或いは三重などの遠隔地から手間隙をかけて運び込まれてきていることが分かります。すると、輸送手段や保存方法などが気になります。どんな階層の人がどんなものを消費していたのかも気になります。当時の魚流通事情など、多くの情報を骨から得ることができるのです。奉行所のゴミ捨て場から骨が出てくれば、奉行の好みや奉行所の暮らしぶりの一端がうかがえるかもしれません。 しかし昨日ポイっと放り込まれたものかもしれないので、遺跡の発掘調査では、その骨がどのような状態で埋まっていたか、どんな遺物と一緒にどのように発見されたかを丁寧に調べることが大変重要です。そのような条件がクリアできた資料を調べていくと、普段何気なく食卓で見かける骨から、文献史料にはなかなか残りにくかった市井の人々の暮らしが、生き生きと浮かび上がってくるのです。 |