奈良スタイル遠近法


田中 久延
(奈良県職員・奈良県平城遷都一三〇〇年記念事業準備局:当時)



奈良県庁で平城遷都一三〇〇年記念事業の企画をしております田中と申します。よろしくお願いいたします。奈良県庁の職員でありまして、今回、大学の先生方と一緒にお話をさせていただくような立場ではないのかなとも感じたのですが、お話があったときに頭で考えるよりも心で感じる感性の部分でこの「なら学」を進めていきたいので、その方向で一緒にお話をしましょうというお誘いをいただきまして、それなら少しはご一緒させていただいてもいいのかなと思いまして本日まいりました。

 お配りいただいている資料のなかのプロフィールをご覧いただいてもおわかりのように、奈良の本当にここのごく近所で生まれ育ちまして、仕事も大学を出てすぐに県庁に入って、住む場所として奈良をほとんど離れたことはありません。仕事も奈良のことをやっているということであります。とくに奈良についてわかっているのか、わかっていないのかを自分でも確認をしたいという思いも起こりまして、本日は感じていますことを簡単にお話したいと思っています。「奈良スタイル遠近法」というお題をいただきましたので、本日簡単なレジュメをつくってまいりました。それをご覧いただきながら論理の甘いところは絵でごまかそうということでビジュアルも用意してまいりましたので、そちらのほうも見ていただきながらお話をしていきたいと思います。

 小路田先生たちと事前にお話をしていたなかで勝手なことをいっておりましたが、小路田先生のほうから「奈良スタイル遠近法」というお題をつけていただきまして、いろいろな視点で遠くから近くから見てみたら、そういう話をされたらどうですかということでまとめてみました。改めまして遠近法とは何かと辞書を引いてみますと、「絵画の手法で現実の距離感を画面上に表現する方法である」とあります。それからいうと奈良スタイル遠近法とは何かというと、奈良独自の生活スタイルだろうと私が思っている、そうしたスタイルを私が普段感じているのと同じような距離感で、皆さんに本日お伝えできたらいいのかなと考えております。

 まずは距離感を平面的に考えてみました。2次元で考えて奈良スタイルの「奈良」とは何かといいますと、私にとってはいわゆる奈良町(ならまち)と最近いわれる部分です。昔はここを私たちは旧市街と呼んでいました。ここ25年ほど、まちづくりを一生懸命に進めていただいた木原さんたち以下、まちづくりのメンバーの方々の努力で奈良町という名前が定着いたしまして、ほぼ観光の一つのエリアになってきております。その部分が私は奈良スタイルというときの「奈良」ではないかと考えております。他に奈良といえば、もちろん奈良市が入りますし、仕事で担当しております奈良県もあります。それをすべて「奈良」といっておりまして、仕事のうえでも「奈良」という言葉をお互いに違う意識で使っていて話がうまく通じないときがあるのです。

 本日の「“奈良スタイル”と“京都スタイル”」というときの比較としては、私の感覚では奈良町あたりではないかと思っているということです。

 もちろんご存じでしょうけれども、奈良県は南北に長く南側に奥深い山があります。私たちがおります奈良市というのは県でいちばん北のはずれです。ちょうど真中は、ご存じの方は少ないかもしれませんが黒滝村という村が真中に当たります。吉野町は結構遠いなと思うのですけれども、それでもまだ北部に属します。今回、吉野町からずっと南への奥駈の道を含めまして世界遺産に指定されました。いわゆる山伏の修行の道です。そういう部分は真中からほぼ南のほうにあります。このあたりも奈良スタイルとして同じ言葉で括れるかというとちょっと難しいのではないかなと思います。とくに「古都」という意識をもってのお話であるならば、それはやはりこの大学があるあたりの奈良をテーマにするのかなということです。

――(スクリーン使用)――

 さて、実際にビジュアルで見ていただきましても左上が奈良町の様子です。真中がいわゆる国中(くんなか)と呼ばれる大和盆地の農村風景です。さらに南へ行きますと吉野山地のかなり険しい山になります。これをすべて含めて奈良県ということになっています。

 もう一つの視点で、時間的な観念を入れてみたらどうなるかと考えてみました。

 もうすぐ平城京ができてから1300年になります。2010年がちょうどその記念の年なのですけれども、そこへ向けて記念行事を考える仕事をしております。そのなかでいろいろ教えていただいたことも含めて感じていることなのですが、日本の文化というのは十二単の文化だというようにおっしゃる先生方がたくさんいらっしゃいます。結局、全部一つも脱がないで上へ、上へと着重ねていってすべてが残っているのが日本文化の特徴だということです。この図のピラミッドでいいますと縄文、弥生というあたりからずっと積み重なって、現在の東京の文化まですべてが残っている。これが中国やヨーロッパになると権力者が変わったり、民族が変わったりして、その時点で文化が大きく変わって、かつての文化が破壊されて影響がほとんど残っていないといわれます。それに比べると日本文化というのはすべてを残してきたというのが特徴です。

 先日まで行われていた正倉院展などは、まさにその象徴的なものでしょう。

 その積み重ねのなかで奈良がはっきり歴史の中心に出てきます飛鳥から奈良という時代がある。そのあと京都に都が移って平安、鎌倉と進んでいきますが、その時点で奈良は南都と呼ばれるようになります。室町以降はさらにその上に文化が積み重なってきているということです。これも一般的に認められていると思うのですが、現在の日本文化というのは室町以降の文化から直接つながってきている。鎌倉時代の文化というのは基層にはあるけれども今の私たちの生活には直接結びつかないだろうといわれています。逆の言い方をすると今の人間がもしタイムスリップしたら室町ぐらいまでなら耐えられるけれども、それ以前に戻ってしまうと生活しにくいのではないかといわれています。

 畳や障子というものが生活に定着していくのも室町以降といわれています。ですからよく「畳の上で死にたい」と、今の若い方は思わないかもしれませんがかつてはそういって最後は家の畳の上で死にたいといっておりましたが、室町以前にタイムスリップすると死にたくても死ねない。畳がないということがあります。ですから歴史で古いものがあってノスタルジーを感じていいねというような観光地というのは、ほとんど室町以降の文化を感じさせてくれるところだという言い方もあります。

 かつて別のところの議論で出たことなのですが、小京都というのは全国にあるけれども小奈良というのはないという話がありました。なぜかとよく考えますと、京都は平安時代も都ですけれども室町時代も都です。江戸時代も文化の中心は京都です。ずっとつながっている。ですから全国に小京都としての金沢を筆頭にいろいろな場所が残っていて、それが21世紀の日本人には行ってみたい、観光地としての魅力を非常に感じるのです。ところが奈良時代そのままの、小奈良というのは成立しないのです。もしあったとしてもよくわからない。ですから観光地としても成り立たない。それがイコール、京都と奈良の観光地としてのマーケットの大きさにも影響しているのかもしれないとも感じています。

 ですから今先ほど出ました奈良町が受けているというのは、決して奈良時代の奈良のまちではなくてもっと江戸時代以降の奈良のまちの古い家が残っているというので、今の21世紀のお客さんたちに受けているということになるかと思います。

 ビジュアルで見ていただくとはっきりわかりますけれども、これが奈良時代の生活だといわれて復元されたものも含めて持ってまいりました。右の写真では椅子に座って机で執務をしています。当然靴を履いています。そして寝るときはベッドで寝ていました。これは貴族の生活ですけれども奈良時代の最先端の文化はそういう文化です。今、大極殿が復元されようとしていますがその床は?(せん)というのですけれども、今のレンガ積みと思っていただいたらいいと思います。そういうところで左のような楽器を使って伎楽なども行われていました。これは少し和の、私たちが思う日本文化とは違うのではないかと思います。

 またこれは、東大寺の大仏開眼の1250年記念ということで行われたイベントの写真です。右側はそのときに東大寺管長が登壇していく様子の写真です。それに比べまして左の写真は1250年前の、まさに最初の大仏開眼のイベントを仕切った総合プロデューサーの菩提遷那という方の絵です。この人はインド人です。総合プロデューサーがインド人で、その下でディレクターを務めたのが仏哲というベトナム人だといわれています。ですから奈良時代の最大のイベントを取り仕切ったのはインド人とベトナム人のコンビです。こういうことが今の日本でも考えられるでしょうか。愛知万博が来年開かれますが、そのオープニングのイベントをアメリカ人に任すこともなかなかないと思います。1250年前、そして1300年前に都をつくったときの奈良というのはこういう場所だったということです。

 同じく東大寺の修二会、お水取りです。お水取りを始めたのは実忠というお坊さんだといわれています。実忠の像として東大寺に残っているのが左下の写真です。東大寺のお坊さんも認めておられますけれども、どこの国の人と断定できないのですが日本人ではないだろうとおっしゃっています。右が今年の夏に東大寺大仏殿の前の鏡池に作品を置いたナディム・カラムという人の写真です。彼はレバノン人です。なぜ彼がこの作品をここに置いたのかというと、お水取りを見て非常に感銘を受けてそれを始めた実忠の像に対面したときに自分と同じルーツを感じたといっています。そしてお水取りのとくに松明とか火を使う行事について非常に感銘を受けてつながるものを感じたといいます。10年がかりで東大寺を説得して今年の夏のイベントにつながりました。若干私たちもお手伝いをしたのですが、本当に自分がなぜやりたいかということをしっかりともって10年間諦めずにされました。

 そのようなことから考えますと、どうも奈良の時代に日本文化の基層はつくられたといわれますが、それはその当時、日本人という観念があったかどうかもよくわかりませんが、一つの民族だけでつくったものではなくていろいろな世界中の人と文化が集まってつくられたものだろうと思います。もしかしたら日本の歴史のなかでいちばん国際的な時代が奈良時代であったかもしれません。そういうときにふと考えてみると、今グローバリゼーションとか多文化共生といわれている時代に、いちばん理想に近い状態ではなかったのかなと思います。そして710年から始まったサイクルが京都に都が移り、東京が首都になって一回りしてくるのではないかと思います。ちょっと我田引水ではありますが、そろそろもう一度奈良が、実は一周遅れなのですけれども日本のトップランナーになるのかなと思っています。

 正倉院に代表されるように、かつての国際的な色合いがずっと残っていた奈良の出番がそろそろきているのかなと思います。さらに我田引水ですがそういうなかで私の仕事が役に立てばいちばん嬉しいなと思っております。ありがとうございました。

●司会 どうもありがとうございました。あとで議論するときの一つの大きなテーマになりますが、奈良の文化のもっている世界性という問題。その問題はあとで少し議論してみたいなと思います。それから言い忘れましたけれども、プログラムの横にそれぞれの先生方のプロフィールが書いてありますので、こういう方たちなのかと思いながらお話をお聞きください。続きまして鵜飼先生、よろしくお願いします。