谷川健一 |
今日は「なら学」についてお話したいと思います。私が、今日の講演を承諾しましたのは、地域学として「なら学」が成立すると思ったからです。地域学は最近、はやりの学問です。考古学者の森浩一さんが、東海学とか関東学を提唱しておられます。また赤坂憲雄さんは「東北学」という立派な雑誌を出して、「東北学」に力を入れておられます。 もちろん、中央偏重の学問に対して、このような地方尊重の学問が生まれることは大変結構なことですが、ただ、その必要条件が揃わない場合もあるのです。 地域学が提唱できる条件は二つあると思います。一つは地方を地方たらしめている特色がなければならない。たとえば東京のベッドタウンのようなところでは、地方学、地域学は成り立ちません。東京の地続きのようなところでは、地方の特色が生かされるわけはありません。それでは、地方の特殊性とか特色が生かされているところであれば、地域学が成り立つかといえば、そうとも限らないのです。地方の特殊性に加えて、それに拮抗する普遍的な原理というものを見出すことができないと、十分な意味での地域学は成立しにくいのではないかと思います。 普遍的な原理というのは何か。これはある地方だけに通用する原理でなく、他の地方にも適用できるものでなくてはなりません。ということは、逆説的に聞こえるかも知れませんが、その地方が自足している必要があると思うのです。つまりその地方がひとつの世界であるということである。その地方が自足した世界であるということは、中心と周縁の部分があるということでもあります。 これまでをまとめてみますと、地方の特色であるローカル・カラーだけでは地域学は成り立たないということです。その点から見れば、関東学や東海学が成立するか怪しいものです。 では東北学はどうでしょうか。白河以北の東北は、明治維新のとき賊軍の汚名を担い、屈辱を体験しました。それに、田舎くさいものと受取られた東北の方言も、東北出身者のコムプレックスとなりました。蝦夷の存在も否定的にしか評価されない時代がつづきました。こうした対外的に否定的な要素が寄り集まって、それが東北を一つのまとまりある地域とする契機となりました。しかし否定的な要素をいくら集めても、それだけでは、自足した世界とはなり得ません。というわけで私は真の東北学が成立するかどうかも危ぶんでいるのです。 では東京学とか京都学は成立するか。ということになりますが、双方とも中心部分だけが存在しても、周辺の部分がありません。江戸時代まで、関東平野は江戸という都市とは全く別個の存在でした。京都も丹波などの田舎を控えていますが、周辺部分との関係は緊密ではありませんでした。東京も京都も「みやこ」だけがあって、それを支える「ひな」が欠如しているのです。「みやこ」だけで地域学は成り立たないし、「ひな」だけでも成り立ちません。その点で地域学が充分成立すると私が考えるのは沖縄です。 沖縄には室町時代から明治十二年の琉球処分まで、琉球王国がつづきました。王権があり、領土があり、政治と宗教の組織が完備していました。文化でも、「おもろさうし」という歌謡集、組踊りという舞踊劇、それに泡盛という天下一品の酒まで備わっていました。酒もまた文化なのです。沖縄には首里という都と、宮古や八重山のような周辺部分があります。琉球王国は明治十二年以来、沖縄県と変わりましたが、「沖縄学」は地域学として成り立つと思うのです。 というわけで、沖縄学に匹敵できるところは、私は奈良県位しかないと思うのです。あるとすれば古代のヤマト政権と対比して考えられる出雲地方でしょうか。 海岸線の出入りが非常に激しく、山あり、谷あり、川あり、海ありというように地形の複雑な日本列島では、地形をデザインするというようなことはできにくいのですが、出雲の場合にはそれが巧みになされています。それを可能にしたのは出雲の風土であり、その風土を意識した出雲びとの秀れた空間認識によるものと思われます。 出雲の場合はまず北側に島根半島があります。島根半島の南がわには、東から中海、真中に宍道湖があります。もっとも西がわには古代に神門水海(かんどのみずうみ)がありました。今の神西(じんさい)湖はその名残です。これらの内海や湖の更に南には、宍道湖を真中にはさんで東がわに意宇(おう)平野、西がわに杵築平野がひろがっています。出雲の一番奥には中国山地があります。このように出雲国は北から島根半島、内海や湖、平野、山地と順序よく並び、それも東西に分けた形に作られています。東の意宇平野には熊野大社、西の杵築平野には杵築大社(出雲大社)が、政治・宗教の中心として鎮座しています。また島根半島の東の突端には美保神社、島根半島の西の突端には日御碕神社が鎮座しています。こうして出雲国は出雲びとによって、みごとな左右相称の様相を呈するにいたったのです。それだけではありません。「出雲国風土記」では島根半島は四つの郡に分かれています。西から出雲郡、楯縫(たてぬい)郡、秋鹿(あきか)郡、そして嶋根郡です。それぞれの郡の境はタエと呼ばれる地溝帯です。この断層地帯によって郡の境が決められていることに、私は古代の出雲びとの空間認識があると思うのです。自然の地形をたくみにふまえながら、独自の文化をきずきあげたことに感嘆せざるを得ないのです。 このようなみごとな風土のデザインの確認できるところは奈良盆地しかありません。奈良盆地は大和国中(くんなか)とも申しますが、四周を青垣山にかこまれたこの平地は、東西の長さが南北のちょうど半分の長方形になっているのです。そこで、大和国中は北の平城京と南の飛鳥京や藤原京の二つの中心部分をもつことができています。奈良盆地を南北につなぐのは藤原京の西の端の下つ道で、それを北へ延長すると、平城京の真中をつらぬく朱雀大路となります。 また東には三輪山がそびえ、西には二上山が横たわって大和国中の東西を区切っています。三輪山のふもとの檜原神社からは、春分の日には、太陽が二上山の雄岳と雌岳の真中に落ちていくのがみえます。 また三輪山の北にある穴師に対するのは、二上山の北にある穴虫という峠です。穴虫も古くは穴師といったかもわかりません。東の穴師は太陽の出るところ、西の穴虫は太陽の沈むところという信仰があったかも知れません。奈良盆地に住む古代人は、大和国中を宇宙と考えていたと思われます。 また穴師には野見宿禰(のみのすくね)を祀る神社がありますが、野見宿禰は二上山のふもとの当麻寺のそばに住んでいる当麻蹴速(たいまのけはや)を、相撲をとって蹴殺したという話が日本書紀に残っています。東は神の世界であり、西は人間の世界である。そこで神が人間に勝つ、という考えが、野見宿禰と当麻蹴速の話にかくされていると思われます。 三輪山のふもとに起こった初期のヤマト王権は西の葛城山(今の金剛山)麓の葛城氏の勢力と対立しました。そしてヤマト王権は、葛城氏の血統から幾代にもわたって妃を迎え入れて、政治的均衡を保ちました。このように、大和国中の東と西に分かれて二つの政治勢力があり、それが自然の風土の中で、バランスを保った時代があったのです。 大和国中をめぐる東と西、南と北の対比と類比はみごとなものに違いないのですが、これはあくまで、中央の世界のできごとです。 中央だけでは地域学は成り立ちません。 大和国中の歴史はそのまま日本の古代史と重なり合います。しかし地域学は、時間学というよりは、空間を卓越させた学問ですから、そこには中央に対する周辺部分の参与がなくてはなりません。 「なら学」の場合、中央である大和国中に対抗し乍ら、それを支える周辺部分とはどこを指すのか。私の考えでは、南は吉野、宇陀、東は都祁(つげ)、北東は春日奥山から笠置山にかけての一帯が周辺です。 吉野は大和国中の古代史にとっては異郷と見られたところです。異郷の意味は二つあります。一つめは辺境であり、二つめは異界です。吉野には国栖(くず)という土着民がいました。彼らはヒキガエルを煮て食べるという野蛮な食習をもっていたと日本書紀にあります。その民謡も一風変わったものであったようで、天皇の代替りの儀式のときは、吉野の風俗(くにぶり)の歌笛を新しい天皇に奏しました。吉野には尾の生えた人間がいたとも古事記に記されています。要するに国栖は異風、異俗の民であったのです。 しかし、一方では、吉野は持統天皇がしばしば行幸した神仙境でもありました。そこには仙女が住むと信じられており、奈良時代の貴族社会では、吉野は風流人士のあこがれの土地でもありました。こうした吉野の存在が奈良盆地に住む古代人の心を複雑多様にし、豊かにしたことは間違いありません。 吉野から宇陀にかけては、もう一つの側面がありました。そこは日本列島を横断する大地溝帯の?中央構造線が通っている場所なのです。メディアンラインとも呼ばれる中央構造線は、その断層に多くの鉱物を産出します。なかでも、この大地溝帯には水銀が露出するのです。そこには、「丹生」という地名がかず多くついています。丹生の「丹」は朱のことで、水銀を指します。中央構造線に沿って、「丹生」の地名が一〇〇箇所以上あります。水銀の用途は女性の用いる白粉まで各方面でさまざまですが、有名なのは奈良大仏を造ったとき、大仏に金メッキをするのに、水銀を使ったことです。金を水銀に溶かして、それを銅で作った身体の上に塗るという作業です。これには宇陀の水銀鉱山の水銀も使用された模様です。また南北朝の争乱のとき、赤坂の城にたてこもった楠木正成は、土地に産する水銀を採ってそれを売り、軍資金を稼いだと、ある史家は云っています。赤坂の地名も赤い土のある坂という意で水銀を思わせます。葛城山を越えた西側に千早赤坂城はありました。吉野から赤坂にかけては中央構造線が通っているのです。だいたい南朝方は中央構造線上に根拠地を置いてたたかっています。それは素朴な山民を味方につけることができたからでもありますが、そこから産出する水銀を採って持久戦を展開したこともあったと思われるのです。 吉野は化外の民の住むところと卑(いや)しまれながら、その一方では仙境として尊ばれるという矛盾した地域として、大和国中の古代人には受けとられたと考えられます。葛城山に端を発した神仙道は、吉野へ、さらには大峯、そして熊野へと南のほうに流れを強めていき、後代の修験道が生まれました。吉野の存在を抜きにしては奈良時代の文化を語ることはできません。 また三輪山の東がわの山地は都祁(つげ)と呼ばれ、かつては国造もいた広大な高台ですが、そこの住民は「山人(やまびと)」と見なされていました。山人は蔓草を身にまとった異風な様子をしている、と大和国中の里びとには思われていました。彼らは年の暮になると、山の産物を山づと(山の土産(みやげ))として、里に降りて参ります。山の産物の中には、正月に家々の門に飾る樹木や羊歯類がありました。大伴家持が万葉集の中で詠んだ髪飾りにするホヨ(ヤドリギ)もまじっていました。有名な神楽歌に「わぎも子が 穴師の山の 山人と人も知るべく 山葛(かずら)せよ 山葛(かずら)せよ」とあります。三輪山の北の穴師は細い道で背後の山地とつながっているのですが、都祁の山人はそこから大和国中へ出て、里人と物々交換をしました。そのために山人と里人が集まったのが「市」(いち)の起源だと折口信夫は云っています。彼の念頭には、三輪山のふもとの海石榴市(つばいち)があったのかもしれません。 都祁の中心部に近いところに都祁氷室(ひむろ)の跡があります。今は天理市福住町になりますが、四九〇メートルの高地です。都祁氷室の話は日本書紀の仁徳天皇六十二年の条に記されているので、随分古くからあったものと推定できるのです。この氷室は宮廷での暑さ凌ぎの飲料に使用される氷を貯えたところなのですが、もしかしたら帝王や皇族など貴人の死去の際、遺骸を保存するのにも役立てたのではないかと、私はひそかに想像を逞しくしたことがあります。 最後に春日奥山から笠置山にかけてですが、東大寺の東がわにある春日山の主峯は花山(はなやま)と呼ばれています。その南に香山(こうぜん)という名の山もあります。このあたりは春日原始林と称されており、うっそうとした林が昼なお暗くつづいています。奈良の都の近くにこのような自然が残されていることは、何か異様な感じがするほどですが、ここは奈良時代に私度僧または優娑塞といわれる官許のない僧の修行した場所です。彼らは正式な免許のない僧ですから、一般には低く見られ、政府から弾圧を受けましたが、真の仏教の精神は南都大寺の学僧よりも、彼らにあったと私は考えています。彼ら優婆塞は山伏の源流ともいえる山林修行の徒でした。彼らのあとをつぐ山伏はやがて修験の団体を結成するようになります。東大寺の大仏を作るのに奔走した良弁も、その前半生は春日奥山で修行した優婆塞であるといわれております。ここも奈良の文化を作るのに重要なところでした。 以上、吉野、都祁、春日奥山と大和国中を囲む周辺地域を見てきましたが、これらの地域があればこそ、「なら学」が成立すると私は思うのです。それは大和国中を支配する人々にたえず刺激を与え続けてきた地域であり、奈良の都の文化を多様にし、豊かにした存在なのです。 私は最近流行の地域学に必ずしも賛成するものではありません。「学」とつくからには普遍的な体系がなくてはならず、その体系に見合うだけのまとまった世界が存在していなくてはなりません。 日本列島の中で、特殊性と普遍性をかね備えた地域を探すとすれば、奈良県と沖縄県ぐらいしか見当たりません。くりかえし申してきましたように、地域の特殊性だけでは、地域学は成立するのに充分ではありません。そこには完結した世界の普遍性が必要不可欠なのです。この条件を満たすものは、「なら学」「沖縄学」のほかを探すとすれば、せいぜい「出雲学」「対馬学」ぐらいではないかと思います。奈良県は時間の学としての歴史学にもっとも重要なところですが、空間の学としての「地域学」から見ても大変興味のあるところです。 御清聴ありがとうございました。 |