小盆地宇宙論その後一なら学との関連で一


米山俊直(京都大学名誉教授・国際京都学協会理事長:当時)




 今日はわざわざ、私のためにこの機会を与えていただいて、光栄です。一年半前の05年10月に胃の全摘手術をしまして、もうそろそろ、いい死に時ではないかと思って。その意味では、毎日時間を大切にして生きていたいと思っています。あと三月の命と言う説もあります。

 さて、今日のテーマを求められました時に、とりあえずまだ、半ば打ちかけのままで気になっている『小盆地宇宙論』について、良い機会だからその後考えていることをお話ししたいと思ったのです。岩波書店から『小盆地宇宙と日本文化』と言う本を出したのが1989年。沢山の正誤表が付いたみっともない本でした。編集者が校正を他の人に頼んで旅行に行ってしまったので、大きいミスが沢山出てしまったのでした。大分県知事の平松守彦さんが日本経済新聞に書評を書いてくださって、おかげで第二刷が出ました。でも、まだ不満足なので、新書版程度の書下ろしをして死にたいと、思っています。

 

ASとRS

 

 「小盆地」については、あとでつもりですが、それに先立って「なら学」あるいは、「京都学」などの、今日の主題である地域研究について、すこし私の考えを述べておきます。

 亀岡学、丹波学、播磨学、横浜学、大阪学など、各地の「学」がかなり広がっていて、それぞれ興味のある活動がすすめられているようです。赤阪憲雄さんの「東北学」は、「遠野学」など各地に広がっているようですね。といっても私自身もそれほど各地の「学」を知っているわけではありません。『大阪学』が大谷晃一さんの独占であることぐらいしか知りません。

 ただ、このような地域研究はたいへん好ましいことであると考えています。地域研究―エリアスタディ―というのは、本来は東南アジアとか、アフリカとかいう広域についての総合的研究を指していまして、事実、京都大学には束南アジア・アフリカ地域研究科が大学院に出来ています。京大在勤中には、地城研究と地域科学一リージョナル・サイエンスー、ASとRSの対比などを問題にしたことがあります。対象は地域ですから共通ですが、その方法が全く異なります。RSは、パッケージでポータブル、つまり地球上どこでも適用できるような、たとえば戦時中に飛行場を建設するとか、砂漢に油田を開発するとか、個々のプロジェクトに応じた地域への計画と実施の科学で、京大では経済学部の山田浩之(現羽衣学園大学学長)さんが中心になっていました。これに対して、AS一地域研究というのは、文化人類学に非常によく似た一フィールドワーク・地域調査と共通した一ところがあります。

 それは、その対象地域についての総合的な研究ということであります、前提になっている地球科学的な活断層なども、気候学、気象学的特徴、FAUNA、FLORA、地形、地質、水系、地下水の分布などの自然条件をはじめとして、人口の動態、密度、男女比など。それに歴史、文化、さらに文明までを含みます。そして、ことに日本の国内の場合には重要なのですが、歴史の長さに応じた過去・現在・未来の総合的判断が浮上します。

 

 

総合的研究

 総合的研究というのは、密度に応じて何処まで、と言うことがありません。私は日本語版の『大英百科事典 エンサイクロペディア・ブリタニカ』の『アフリカ』という大項目を担当したことがありますが、これも、歴史の無い野蛮地域という従来の偏見を破ることに主眼をおいた視点を示すことで、ともかくの地域の紹介を試みました。

 反対に、都道府県ないし、それよりも狭い地城を対象とするならば、周辺との関係を意識しつつ、やはり内部の詳しい記述が必要になるでしょう。それは文化人類学でいうフィールドワークで集める情報、いわゆる民族誌的情報というものと重なり合う部分が大きいと思います。できれば、過去・現在・未来にわたっての把握が望ましいのです。

 

仰角か傭角か・外部の目

 

 その時に重要なのは視点がどの高さか、と言うことではないでしょうか。司馬遼太郎さんの亡くなった時に、ある人々は司馬さんの視点が上から見ていると批判しました。私はむしろ、彼の視点の優れているのは、その鳥瞰的、俯瞰的な見方だと、思っていました。同じような意見の人も少なくないようです。鳥の目、虫の目とも言いますが、その両者を兼ね備えるのは容易ではありません。私には仰角と俯角の双方が大切ではないかと思います。

 すこし脱線しますが、私自身は、大和東山中(現在は奈良市都祁友田町)の生まれで、天理市へ名阪国道を降りてくるといやおうなしに奈良盆地を俯瞰することになります。つまり周辺から中心一クンナカ―を見ることが多かったのです。それよりも、更に、私自身の生い立ちが、階層からいえば地方の小地主層でありながら、社会福祉事業と普通呼ばれる、問題児や、要保護児童を保育する施設(はじめは私設の代用感化院で、のち県立になった)の職員の子どもで、周囲は完全に農村であるにもかかわらず、農業とは距離がある子ども時代をすごしてきました。その意味でも、マージナルな存在でした。さまざまな不良少年のタマゴたちを仲間にして遊び、人にはさまざまだということを幼い時から気がついていたのだと思います。この周辺からのまなざしも、もしかしたら民族誌的モノグラフには重要なのかもしれません。文化人類学を専攻して、日本国内ばかりではなくアフリカ大陸で、それもタンザニア、マリ、ザイール(現コンゴ)、モロッコという四つの異なる国と民族を調査したのは、私がマージナルな存在だと思っていた所為かもしれません。

 実は、私の大学の卒業論文「宮座の変遷と村落社会」、そして修士論文「農村社会における行動様式の基本的形態」も、私の生まれた場所、現在は奈良市都祁友田町(もと奈良県山辺郡都介野村大字友田)のフィールドワークに基づいているのです。アルバイトで、フルブライト奨学金で来日したラルフ・グリーンハウスというコロンビア大学の人類学の学生の手伝いをして、週の半分を京都で、残りを奈良の自宅で送り、論文の材料もそこで集めました。

 

旧著の翻訳から

 

 こんど必要があって、1967年にイリノイ大学出版局から刊行されていた私の論文を英語から日本語に直す仕事をしました。まだ三論文のうち、上之庄という天理市、もと二階堂村の一集落の部分しか済んでいませんが、今日のこともありますので、まず手をつけてみたのです。今年は2007年ですから、ちょうど40年前に心血をそそいでまとめた論文です。

 しかし読み返してみますと、やはり幼さというか、思考の浅さが気になります。フィールドワークの仕方も、例えば大和川がすぐ近くから盆地底を流れているのに、又郡山が至近距離にある都市なのに、あまり配慮していないのは、天理市、天理教の存在に眼を奪われていた所為かもしれませんし、ただ都市への通勤、と言うことでその内容にはほとんど触れていないことなども、不満でした。ただ、カラケ、あるいはカッテカラケについての発見などは、田畑輪環作として話題になるよりも早い発見だったと思いますし、また生活改善の名目で、集落の人々が自縄自縛の自己規制に陥っている状態の発見などは、やはり長期滞在の結果だったと思います。

 

「なら学」についての視点いくつか

 

 以下、『なら学』についての私の想いを、すこしばかりお話したいと思います。

 

1、京都学の場合も同様ですが、なら学でもその歴史の奥行きがなによりも重要になります。これは、例えば古代エジプト研究をしている人などと違って、歴史的事実が現代、あるいは未来につながっている点が非常に特徴だと思います。たしかにエジプトでも、土産物などに、古代が生かされていますが、それとは話しが違う。京都や奈良の場合は、すごい歴史の厚みが現代につながっている。そのいわば因果関係、その連鎖が、いまも

生きているという側面が少なくないのです。歴史の重さ、奥行き、これはかけがえの無いものです。いわば圧搾空気のように、史実が詰まった空問に人々が生きているといえるかもしれません。

 

2、ならの場合は、その歴史がいわゆる科学的な史実だけではなく、記紀万葉の神話につながっているということが、風土に大きいロマンをあたえます。三輪山、明日香、二上山、吉野山、宇陀、長谷、山の辺の道、柳生の里…。それは京都の場合と比較すると、あきらかに文脈が違います。紫式部、清少納言の文化とは、非常に違うものがある、と思います。和辻哲郎、亀井勝一郎、竹山道雄、寺尾勇などの「なら」についてのエッセイの系譜は、折口信夫の古代学、その「古代感愛集」、そして「鹿鳴集」の会津八一などにつながり、独特の「なら文化」を演奏しているように思います。

 司馬遼太郎さんは、「母親の里が葛城山麓だったから、半ば奈良県人のつもりでいる」とのべ、「奈良県は温暖で天災がすくないうえに、江戸時代は天領だっために税が安かった、人情の穏やかさは、そういうことと無縁ではない。」「そんな一いわば無為にちかい一土地柄のなかから、折口信夫や、保田輿重郎、さらにはわが前川佐美雄といった、他と比較を絶した詩魂がうまれたのはふしぎな気がする。共通しているのは、いずれも大和の土(くに)の霊に根ざし、人というより、巨樹をおもわせるところがある。」(『以下、無用のことながら』)と、三人の土着の人をあげています。

 

3、文学的な側面から申し上げましたが、これは言うまでも無く自然環境、四方の山並み、湧き出る泉、国のまほろばと呼ばれた盆地底、そして大和三山や三輪山など、「なら」を形成する自然一基本的には照葉樹林が極相でしょうが、盆地底は湿原だったかと思います一があり、それを抜きには「なら」は語れないのです。「大和豊年米くわず」という諺があり、これは盆地は水が万年不足していて、十分に雨が降る年は、他の場所は稲

が腐ってしまう、ということに由来します。それで溜池が発達、「埴安の池」や弘法大師の益田池(橿原市池尻)があり、また環濠陵墓や、環濠集落も多いのであります。

 

4、上之庄の論文を訳してみて、私は中世から近世にかけての「なら」をほとんど欠落してこの論文を書いていると気がっきました。上之庄は伊賀藤堂藩の所領として明治維新を迎えているのですが、周辺は興福寺領とか、大乗院領とか、荘園のなごりと、郡山藩をはじめとする8つの小藩に分属していました。奈良盆地とその周辺は、じつに複雑なゲリマンダーの歴史を繰り返し、大和大納言のあたりでやっと落ち着いたとはいえ、桓武天皇にきらわれた南都七大寺の勢力や、地侍、上豪列紳の割拠がありました。その背景には、染田天神社の連歌講が、二世紀にわたる懐紙を遺していることは、東山中の地侍の結束と、なによりもそのリテラシイの存在していた事実に感銘を受けるのであります。なお気がっいたことですが、いまの学生諸君は農地改革という嵐が占領政策のなかで吹きまくったことを知りません。土地改良と混同しています。

 

5、いま、奈良県出身の著名な人々と何人か親しくしています。ただ同郷感覚はあります。毎日テレビの重役だった辻一郎さんは、大手前大学で御一緒しました。丹波市の出身です。NHK大阪放送局長を堀井良股さんは、大阪21世紀協会の理事長ですが、桜井市の旧家の出身です。現在の国際日本文化研究センター所長の片倉もとこさんは、なら弁でいちばんリラックスしています。

 江戸時代中期の『人国記』には、『大和の表郡の人気は名利を好むものが多いが、奥郡は隠る氣がある。表郡は山城の国と似るのはともに王城の地だったからだろうが、追従や両舌を使う弊がある」と審いています。(永島櫃太郎『奈良県の歴史』1971山川出版社) また、国立民族学博物館名誉教授の祖父江孝男さんは県民性の研究でよく知られていますが、先生の『県民性』(中公新書・1971)には奈良県については実に簡潔な紹介がありますので、それを全文紹介しておきましょう。

 

 「歴史に包まれた奈良:奈良県は、なによりもまず、もっとも古い歴史を持ち、その歴史に包まれて育ったところである。そういう意識が裏うちされているせいか、奈良には京都に似た排他性があるというが、京都よりはずっと弱いものであるらしい。また歴史のなかでヌクヌクとしてためか、消極的だともいわれている。県人会の事務局の話では、なによりも県人同士の結びつきが弱く、てんでんバラバラで、これは県民の性格に個人主義的な傾向が強いからだと嘆いていた。これも結局は小藩分立のためと言われるが、しかし同じ藩の地域の出身同士でも団結がないところをみると、もっとほかに原因がありそうに思う。

 個人主義ということに関連してくるが、よく言われるのは、利口、利己的、勘定高い、そしてさらには商才にたける、等々だが、この例としてよく引かれるのが、旧城下町大和郡山市の場合で、幕末には下級藩士が副業に金魚、の養殖をやっていたため、御維新のさわぎのときにも全員そろって金魚展に転業しており、現在では全国の四割の金魚を供給しているという。」(178頁)

 

6、私には、保仙純剛『奈良』(「日本の民俗」29・第一法規)や、高田十郎『大和の伝説』(1933・大和史跡研究会)などの業績が、非常に貴重なものと思えています。沢山の文献があり、また資料もありながら、もっとも虫の目に近い人々の生活記録が、ある意味では十分に蓄積されていない、という印象があるからです。いま民家も集めている奈良県の民俗資料館もありますが、いわば常民の生活をちゃんと遺しているのは、こうした過去の痕跡を残すだけになった盆地の嘆きであります。しかし、念入りに追いかけてゆけば、まだまだ、未開拓の資料はあるはずです。今度気がついたのですが、上之庄の文章の中で、隣村の荒蒔という集落画1573〜1834年の263年に及ぶ年代記があり、それは天理市史資料編に収まっていますが、これなども集中的に研究する価値があるのではないでしょうか。

 できるだけ、虫の目の側に立つこと、それを主眼にしてきた私のフィールドワークの視点は、まだまだ十分とはいえません。ことに四民の下に位置づけられてきた被差別・未解放の人々の歴史は、それなりに非常に重要だと思いながら、コミットメントをしていません。

 

7、論文「上之庄」の翻訳をして、この40年間に奈良盆地がどれだけ激しく変化したか、を改めて確認させられました。通勤兼業の増加、第二種兼業の増加などは、すでに記述してありますが、その後、この盆地に大きい工場が建設され、周辺の山地に多くのゴルフ場が誕生するということは、予測できませんでした。名阪国道も、河野一郎建設大臣の視察があって、あっという間に実現してしまったのですが、その後の「風光推移」はまさに眼を見張るものがあります。西大寺から東、近鉄でゆくと、平城京祉の(復元という名の)「再開発」が進行中で、新しい楼門などが建設されていきます。生駒市に先端技術大学院が誕生して、京阪奈文化学術研究都市がしだいに整備されています。城陽市のあたりを通過する第二名神国道計画も浮上しそうです。

 その間に、関西空港が建般されて、いまでは海外へはこのルートをとるのが至便となりましたし、EXPO90国際花と緑の博覧会とか、さまざまなイベントがありました。11年前になりますが、阪神淡路大震災のことも忘れてはなりません。

 世界はパレスチナ問題からアフガニスタン、イラク戦争に突入して、まだテロリズムの恐怖は消えていません。

「なら」をとりまく環境は、おおきく様変わりしているのです。

 

8、このへんで、『なら」についてのコメントは終わりたいと思います。ただ、最後に、例えば寺尾勇先生の『ほろびゆく大和』(創元社・1968)のような、ルサンチマンに満ちた書物についてコメントしておきます。それもまたロマンの結果です。

 京都についても、新しいJR西日本の京都駅についての賛否両論のように、おなじような議論は付きまといます。庶民、市民は、こういう権力―経済力の前には手も足もでません。どのように考えるべきか、これは宿題にしておきましょう。

 

9、なら学とひらがなで表記されていることに、ご苦心がうかがえます。「なら」というけれど、司馬さんの奈良と私のならでは全く異なるイメージになります。また、『過疎社会』で記述した吉野郡大塔村の場合も、全く異なる光景があらわれます。

 『大和・河内発見の旅』で記述した生駒・信貴・葛城・金剛の山並みに沿った西の山脈もそれなりの独自性があります。このいわばバラバラなものを、「なら」としてどう統一的に認識してゆくか、これはかなりの力技が必要ではないでしょうか。

 いちばん良い策は、存在そのものを肯定して捕らえることでしょう。折角の民族誌つくりの専門家ばかりですから、うまくできあがるのを大いに期待しています。同じことは山城から、丹波、丹後にかけての広域を含む京都府についてもいえますね。その歴史的経緯を知れば、いまの県境、府境というものもつまらない契機によることがわかります。

 

10、「なら学』をどのようなものとして構築するか。これは今後の課題でありましょう。あまり深刻にこだわらず、たのしい研究を続けて、その成果を蓄積してゆけば、自然に完成に至るのではないでしょうか。

 私は皆さんの能力、学力、タレント性を高く評価しています。京大にいた時も、その後もそうですが、私は皆さんに教えられて成長してきたと思っています。教師ぶったことは、できるだけしたくなかった。そのお陰で、いまや驚くべきタレント集団が、私の身辺に誕生しています。昨年の2月、記念館になった本部の建物の「ラ・トゥール」で、道川さんと家内も含めて11人が会食しました。それは、鵜飼正樹、奥野卓司、嘉田由紀子、栗本英世、末原達郎、福井勝義、松田素二、村瀬智の皆さんでした。錚々たる人材でしょう。ほかに、石森秀三、梶茂樹、森田三郎、が欠席でした。

 

 『小盆地宇宙論』について

 

 終わりにあたって、はじめに述べました『小盆地宇宙と日本文化』刊行後の展開について触れて、話を終わりたいと思います。一村一品運動で有名になった平松大分県知事の書評が日経にでて、岩波は増刷を決めたようですが、ほかにも樺山紘一さんが毎日新聞に、樋口忠彦さんが朝ロジャーナルに、ほか京都新聞、熊本日日新聞などにも、おおむね好意的な書評が掲載されました。

 平成3年(1991)の11月11日、兵庫県篠山町(現篠山市)の田園交響ホールで、「'91 小盆地宇宙フォーラム・篠山」が開催され、午前中は、遠野市から来た語り部の正部家ミヤさんの「昔話」を皮切りに、貝塚俊民兵庫県知事の基調講演、午後は私がコーディネーターになって、岩手県遠野市長、三篁県伊賀上野市三重県文化振興懇話会委員、兵庫県出石町長、岡山県津山市街づくり対策室長、島根県津和野町長、そして篠山町長をパネリストとして夕方六時まで、長いフォーラムを開催しました。篠山町は熱心に準備されて、きれいな参加市町のり一フレット類を集積した「ガイドプック」を制作してくれました。

 内容は、どうしても「お国自慢」の傾向をもつのはやむを得ませんが、それぞれの地域の頑張りがうかがえて、興味がありました。継続してフォーラムを、という声もあって、私も次は津山か、あるいは亀岡かと考えていましたが、当方が海外に出ることも多く、立ち消えになってしまいました。ただ、放送大学の特別番組で、「小盆地宇宙」という単発の番組を制作、その時には放送大学のクルーに津山までご足労願って、津山を紹介しました。

 もうひとつ、これは天理やまと文化会議の井上昭夫さんが開催した、「シンポジウム・盆地の宇宙・歴史の道―大和盆地を中心に一」という二日間にわたる大規模なシンポジウムです。これは平成6年(1995)8月20日、21日の2日問で、この年の3月に京大を定年退官したばかりでした。岩田慶治、梅棹忠夫、金関恕、鎌田東二、金容雲、熊沢南水、実川幹朗、菅谷文則、千田稔、中井久夫、樋口忠彦、村山元英と大勢でした。この時に、私は中井先生などには始めてお目にかかったと思います。その記録は井上昭夫編『シンポジウム盆地の宇宙・歴史の道』(1995、善本社)として刊行されています。

                                     (了)
米山先生は、2006年3月御逝去されました。
すでにご体調優れぬなか、講演のため奈良まで足をお運びいただき、熱のこもったお話を頂戴したこと、言葉にできません。ここに謹んで先生のご冥福をお祈り申し上げます。