附属3校園 合同研修会 シンポジウム

「ものろじーな子どもはどう育つのか」

2006/08/29
話題提供の要旨

   植野 洋志(生活環境学部 食物栄養学科 教授)

  • 自身は、いい親に育ててもらったと思っている。私の親は、昭和初期に生まれた人である。父母にとっては学校いきたくても行けなかった人たちであり、父6母8人兄弟の末っ子同士であった。今から思えば、早く独立して、兄姉を見返そうという意気込みで夫婦になっていたように思う。
  • 私が生まれたのは母が20、父24のとき、兄のような感覚の父であった。仕事を一生懸命していて、いつも午前様で仕事で遅かったように思う。とにかく月金までコンタクトが私となかった。夏休み、祭日にスケートに行ったり、生駒山に行ったりチョウやトンボをとったり一生懸命していた。
  • 私は不器用で、昆虫を採っても箱に入れたがその後が思い出せない。昔のことで断片的にしかない。思い出せる記憶は人に言えないようなことであった(笑)。まともではなかった子どものように覚えている。
  • 中学のときに校長になった叔父が、科学、というものの面白さを話をしてくれた。科学ってこんなものなんか、という感じで思っていた。そういう環境としておかれたことで、潜在的に科学を選んだのかもしれないと思う。
  • 自身は周りの雰囲気にかぶれやすい。小さい時は文系人間で、中学の時には図書館の本を左の天辺から規則正しく順に読んでいた。なので誰も借りたことのない本を読んだりしていた。ヘッセの全集なども覚えてないが読破した。というよりも目を通しただけのようで、全然覚えていない(笑)
  • 自分は将来何になろうか、と思ったとき、例えば中学のときには彫刻が好きで、先生も褒めてくれるので、芸術家になろうと芸大を最初、目指したりしていた。また、中学で六法全書を読めといわれ、すらすらと最初は読める。ひょっとすると向いている?と思って読んでみたりしたこともある。音符の形が好きで、音楽を作るのが好きで作曲家になれるんじゃないかと思ったりして、いろんなことを夢見ながら育ってきた覚えがある。
  • ただ人生節目があり、何かの拍子に父との軋轢があった。けんかするのではなく、進路の問題で、高校入るときに父の意向で、不本意な高校に行けといわれ、自分抜きで高校が決まった。大阪の田舎の高校に行って「こんちくしょー」と思いながら、ここに埋もれたくないと思い、まるっきり高校の授業は上の空で自分で勉強した。いいのか悪いのかはわからないが、とにかく授業前に10分前予習して聞いて終わる感じで、灰色の高校生活であった。友達は何人かできたが、エンジョイしたという感じはない。
  • たまたまであるが、成績が張り出される。私は偏った勉強をしていたようで、数学は一番上だが、国語と英語は反対の端っこにある。ただめげずにわが道を通して、自分の好きなところにいくと宣言し、2年だけ許すといわれたが、大学を受けるときに東大の入試がなくなり、情報が無駄になった。志望する大学が変わって、結局泣きの涙で翌年復活したが。その時、私は数学と物理が好きだったので、理論物理にいくぞ、と思っていた。当時誰もが湯川先生の後に行く人が多かったが、でも将来ひょっとしたら、化学ってそういうことはしないのか?と友達と話していた。当時理論化学、今になったら理論物理よりもよかったと思っているが、工学部にその先生がおられると聞いて、そこに4年間通った。
  • 随分先生にかわいがってもらったが、結局自分には理論化学がわかってない、と思っていた。今思えば1年くらいでわかる訳がない、と思い、もっと人生かけないといけないのだが、それには向いていなかったようで、途中で「理論化学なる分野は10年に1人、優秀な人がでてくればいい、自分はそれやない、違うところに行くぞ!」と友達に言って、「これからは生物」や、と留学することにした。
  • 渡ってびっくりしたのは、アメリカの大学院の教育であった。私達はある意味、京大に行っただけで天狗になっていたが、それをたたきなおしてくれるシステムがアメリカにあった。今で言うわれわれが受けるような講義ではなく、60分講義が毎日、大学院では年間通じてあった。教える先生は超一流であった。
  • 単に教えるのではなく、ものを考えるような教え方であった。論文になったようなデータを、どう解釈するか、どう解くのかを教えてくれた。その教育そのものが、私は先生に最初、教科書はないんですか?と尋ねるような教科書至上主義の学生であったが、その考え方を打ち砕いてくれた。1年間勉強して、知識を放り込むのではなく、目の前のデータをどう解釈するか、その結果自分はどのように考えるのか、をその先生(3人)が教えてくれた。その先生達は、「自分たちはこの教育に命をかけている、君たちはここを卒業して10年後には世界の最先端にいく。そのような教育をしてきている」とおっしゃった。
  • 私は2年で修士をとって他の大学に移ったが、実際に10年後には、結構いいところにいっている。友達も学会賞をもらったりして一人前のポジションをもらった。そういう意味ではきっかけというものをくれたことに対して嬉しかったし、私も学生を相手にいつも話すのは、基礎知識は大切だが、百科辞典的な知識は追うな、知識は十分にもっているのだから、それを引き出して組み合わせて活用する時期であるので、その引き出し方を教えるから、活用しなさい、と話している。
  • もう一つは、人生で、いい友達、先生方がいた、ということである。朱に染まれば、、と昔からいうが、自分がどこぞに移っていくときに、レベルが自分ならトップで活躍できるというところと、背伸びをしなくちゃいけないところがある。私はあえていうなら、アグレッシブに自分のことをしっかり考えられる人なら、背伸びしないといけないところに行けと進めたい。というのは、周りが前向きな環境が人生必要なこともあり、自分も引き上げられていく、日々の努力に感化されていくし徐々に実力はあがっていく。プラス指導力のある先生につけば、飛躍的に人は成長すると思う。
  • 私自身は数学が好きで、数学関係に進もうと思っていた。科目ごとに成績の波はあった。しかしよく見ると、自分が嫌いだった語学に関してはいつのまにか、結構いい日本語を書くやないかと言われるほどになった。例えば串の天辺が飛び出せば飛び出すほど、間を生めるような能力が備わってくるんじゃないかと思う。満遍なく優等生は伸びない。飛び出る何かをまず小さい時から伸ばしてあげれば、周りは後々レベルが上がってくるように思う。天辺を伸ばしてやってほしい。
  • タンパク質との出会いは、学位をロックフェラーでとりました。ロックフェラー大学は石油王が1901年に立てた大学である。日本では野口英世が活躍したところで、テクニシャンからメンバーまで立ち上がったものすごい人で、1週間のうち3日間徹夜していた。
  • 私のついた先生はノーベル賞をもらっていて、独占したこともある大学である。そういう意味で、人を育てる土壌であった。私はそこから多くのことを学んだ。当時、ロックフェラーで研究をする、論文を書く、読む、お金をとってくるということが必要であった。グラントの書き方は論文を書くのとは全然違う。お金をとるレコードは5割バッターであり、今よりもえらかったことが当時の自慢で、お金も100倍くらい持っていたと思う。向こうは日本と違って、自分の給料も自分で取ってこないといけない。自分が雇う助手の給料も自分でとってこないといけない。グラントを書くためにはコミュニケーション能力が必要である。私の先生は電話でとってくる人もいた。自分のデータと情報交換をして審査員をしている人に評価してもらってお金を取ってくることもあった。そういう時期を過ごしたことで、バランスのとれた学者として育ててもらった気がする。
  • 当時10年間ですが、夏だけボストンの南の端のケープコートにいた。映画のジョーズのロケサイトでもあった。海にでると、北からの海流と南の海流が混ざるので、海の幸に恵まれているところであった。臨海生物研究所があり、ウズホーの町で研究をした。もともとはロックフェラーの研究室がタンパク質のメッカであった。生命を扱う人は誰もがタンパク質に皆かかわっている。私は固体ではなく微視的に、内側の部分を研究していることになる。和田先生は、タンパク質の集まった固体を研究しておられる。大元は同じタンパク質であるという概念をもって、それを研究したいと思っている。
  • そのタンパク質が、生命にどのように働くのかというのを医学的な目で見た場合、食べ物としてみた場合、食べることで体に還元していく、ということはすべてがタンパク質で説明できるのではないだろうか、と思っている。そういう目で世界を見出すと、興味を持ち出すと、いろいろなものが共通性をもってつながってきて面白い。 ウズホールの研究所では、微視的な目で見る人間と、ものとしてみている先生との間を埋める話し合いができた。そういう会話ができることで、自分が今興味をもっているタンパク質があるシステムでこんな風に働いている、ということが見え出してきた。そういう面白い材料を提供してくれる時期があったということ自分にとって意味があった。
  • 前任校は京大だった。ウズホールでハマグリの王様、バックル貝、クラムチャウダーのもと、これの精子と卵子の研究をしていた。Fertilizationのメカニズムを研究していたことで、不妊薬の開発につながることになった。メカニズムを見るということで、それを反対にとれば、そのシステムを負にも正にもコントロールできる。そういう概念につながるので、それを、研究に持ち出して応用することでお金にも結びつく、こういうことをしている。
  • 私の京大の先生は水平思考とよく話していた。表裏を見る能力を養うことで、人が考えなかった側面に気付いて、新しい発想に結びついて、サイエンスなら20年間続いた問題が解けたり、企業なら新製品の開発ができたりするように思う。
  • 今後またタンパク質の話を聞いてください(笑)