話題提供1 生き様に現れる共同性としての文化 山本登志哉(共愛学園前橋国際大学)

 文化心理学に関連した講義で、受講生に擬似的に「文化間移動」を体験してもらう。その手順は以下のようなものである。まず山本が実際に北京の託児所や小学校で撮影した教育の場面を編集したビデオを見てもらう。その最初の場面の子どもたちの様子から、日本の受講生の驚きは始まる。およそ自分たちが見たこと、経験のしたことのない子どもの姿があり、先生とのやりとりがあり、教育の姿勢がある。
 それらの「衝撃」を感想文などで言葉にした後、続いて日中の過去の実際の教育場面についての記録を読む。受講生の予想に反し、戦前に日中の子どもを見比べた人の驚きが、受講生たちの現在の驚きとまったく同質であることに受講生は驚く。さかのぼって江戸期の子育てに関する文章や、清朝時代の教育に関する体験記などを読みつつ、そこにまるで正反対と言っていいような子育て・教育に対する感覚の差を見いだす。同じ「儒教圏」に括られる日中が、その実態において如何にかけ離れた教育感覚を持っているか、また本来の儒教思想を日本がどのように「改訳」的に変容させて取り込んだかの例を説明する。
 以上の作業をしたあと、今度は現代の農村教育の実情をリアルに描いた映画「あの子を探して(一個都不能少)」を鑑賞する。北京の教育環境とのあまりの格差、子どもたちの姿の違いに受講生は愕然とする。そしてほとんど了解不能と言っていいエピソードの連続に、時にいらだち、困惑する。たとえばお金を巡る大人と子どものやりとりは、日本の受講生に衝撃を与え、「どうしてこんなことが許されるのか」という憤りさえ生むことも珍しくない。ところがその同じ映画を見て日中韓越の人々でディスカッションをした文章に接し、受講生はさらに混乱する。「自分たち」の感覚がまるで一般性を持たないという現実を露骨に突きつけられるからだ。
 ここでお金を媒介した人間関係形成の文化差を問う、お小遣いに関する我々の国際比較研究の事例も多少説明しつつ、そこに人間関係の調整を巡る、どのような文化的な差異が存在するか、そこで何が理想的な行為であり、何が否定されるべき行為と考えられているかの日中間の差について、山本の経験談をふまえつつ語っていく。そして、そのような行為規範の質的な差異を持つもの同士のコミュニケーションが、その差異に気づかないままどのように文化間摩擦を生み、再生産し続けていくかを山本の「構造的ディスコミュニケーション分析」の議論によって説明する。
 ここにいたって受講生の多くは、自分の何気ない日常感覚が、どれほど深く、「文化」というものそれ自体であるのかに気づく。それまで文化というものを、せいぜい言語や習慣の違い、歴史的な経験の形式的な違い、程度に考えていたものが、人といかなる共同性を形成して生きるのか、その生き様それ自体に関わる差異として深刻に体験し直されることになる。
 当日は、人の共同性の具体的な現れとしての、この次元に於ける文化というものを見据えて発達を考える議論を試みたい。