十・96 昭和十四年度 満鮮修学旅行記 文科四年



第一日  
八月廿一日は大陸旅行の首途の日である。此より赴かうとする大陸から其がよからうと悪からうと何か掴んで来たい、此が私達の念願である。大陸とは或は荒涼索漠言ふに足らぬ所かも知れぬ。しかし、或は又其所にこそ興隆日本の生命の尖端が溌剌として動いてゐるかも知れぬ。慌しい見学によつては個々の事物に深い認識を求めるのが無理であるなら、其をこそ感じて来なくてはならぬ。
 芭蕉は道祖神の招きにあつて奥羽漂泊の旅に出た。私達は大陸の呼び声を聞いてゐる。行かずにはゐられない大陸の呼び声に牽かれて、今私達は旅立つのである。大陸の声、其は過去の戦役に大陸の土と化した先祖の地下よりの声であるか、自己の身内に疼く衝動であるか、或は又、生々発展して止まざる民族の明日の生命が行けと命ずるのであるか、私は知らない。唯、過去より現在、未来を通じて大陸は自分と離れたものではなかつたのである。
 大陸旅行の試が空前なら、全員洋装も未曾有である。多数の先生の御見送りに行を壮にせられ、私達は颯爽と出発した。敦賀着後、乗船までの時間を利用して気比神社に参拝、旅路の平安を祈つた。
 はるびん丸に乗船。四時出帆の銅鑼と共に舷側は徐ろに桟橋を離れる。色とりどりの名残紐は去る者留まる者の悲喜様々の心の如く交錯し綾なす。突如、船上より起る君が代の斉唱。皇国の繁栄のために挺身大陸の奥地に赴かうとする、その祖国の土を離れんとする時、君の万歳を祝ひ、祖国の永遠の平安を祈る、開拓者の心は察するに余がある。
 祖国の山は暮靄の中に影を没した。船は今や四望眼界を画るものなき大洋に出たのである。もう帰る事は出来ない。目指す港に着く他はない。私達の旅行も骸子は投ぜられたのである。大陸の旅は疑ふ余地のない現実となつたのである。

八月二十二日
一日中、平穏な船路、しかも島影一つ見る事の出来ない航海を続けたので、別にとり上げて言ふべき事は何事もない。畳の様な海上といふのは全くあの様なものに対してのみ言ひ得るのだ、といふ気がするばかりだ。船の先端に上つて水が切られて泡沫とくだけ散るのに見入り、くらげ≠フ浮いてゐるのを時々見ては喜びながら、単調な一日が終つた。なほ午後四時より神奈川県の移民地視察団一行の為に満洲移民協会参事鈴木氏の満洲移民についての講話があつたのを傍聴した。主に青少年義勇軍に就いてゞあつたが、自信と熱とに満ちた話振に、思はず緊張し、満洲移民に対する理解を旅の初めに深めたのであつた。が、その後、視察団の人の質問を聞いて、内地にゐる多くの人は満洲移民に対して、又満洲国なるものに就いて、正しく認識してゐないのではないか、といふ疑問を抱いた。その質問の一例として、「満洲移民は現在では収支相償つてゆくか」「より多くの利益をあげる為に大規模に資本を投じて行へばいゝのではないだらうか」と。話を聞いた後に発せられた質問であつたゞけに、満洲移民についての理解の程度が、甚だあやしいものと思はれた。しかし、自分としても、実際、その地に行って見聞して来て、これまでの認識の誤つてゐた事を何度も痛感したのではあったが。
移民についての話を聞いてからは、同乗の移民団かと思はれる人達に対し、激励と感謝の言葉をかけたい様な衝動にかられ、自分も微力ながらも、役に立つ事があれば、と思はずにはゐられなかった。

八月廿三日  清津から牡丹江へ
夜が明け初めると陸が見え出した。湾内に入つたらしく波はますます穏やかになり、船の舫つてゐるのも見えてきた。明るむにつれて、ボール紙にペンキを塗つた様なぎこちない山が現れた。之が朝鮮の山だ。青い山もあるが、まだこの様に岩と木の斑になつたのもある。港は静かで裏日本に共通な「裏」の感じを与つたが、それをつきぬけて発展しようとする溌剌とした力も確に感じられた。上陸第一歩に、弥栄村へ行く移民団の人々は整列して君が代を歌ひ力強く宣誓をしてゐた。我々は商店の並んだ不活発な余りきれいでない町を通って高*山の清津神社に参拝し四方を眺望した。今上陸した港が近くに見え、その向ふに低平な朝鮮家屋が並んでゐるのは旧市街の漁村で煙突の立つてゐる辺りは漁獲物の製造工業が盛んなのである。鰯の産が最も多く世界的なものであり、魚油その他の製造加工が行はれる。清津はつまり裏日本交通の要地であり、漁業水産業の中心である。そしてそれによつて将来どんどん発展するであらうと思はれる。新市街が山の彼方にのびてゐるのも発展の姿である。迫られた山の間を縫うてぐんぐんのびて行くのであらう。気候もよくて住みよいさうである。夏涼しく冬は余り寒くなく、六七月の濃霧さへなければ申し分ないとの事である。いよいよ牡丹江へ北上する。発車停車の時、機関車の上で鐘がなる。会寧過ぐる辺りまで沿線の状況を詳しく説明してくれる人があつて便宜であつた。北西 朝鮮の土地は余り肥沃ではなささうだがよく開墾され、水田もあつて稲が青々そよいでゐたが北へ行く程水田は少なくなつて粟が栽培されてゐた。散在する農家の前では鮮人がのびた顔して汽車を見てゐる。椀をふせた様な茅葺の屋根で極めて低く、間口が広い。どこの家でも真白な洗濯物がひつかけてある。鮮人は洗濯が好きで小さい水溜りでも見つければするといふ。白い衣服は夏は殊に見る眼に快い。そしてその丸味のある単調なふくらみは茅葺の屋根の線にも共通にあるものだ。木の育ちかけた山にも女の顔にもそれはみつけられる。朝鮮のもつ一つの感じであり、自然と人との融合の、知らぬ間に微妙になされてゐるのが何となく心を温めほゝゑました。だがこゝいら西北朝鮮はその様なおつとりさを味はゝせる程の余裕はない。豊沃でない土地から出来るだけ収穫をあげようとしてきり開いてゐる努力にいたいたしいものを感じるのだ。水田にしろ、植林にしろ、放牧にしろ。セメント工場もあつたし、火田は次第になくなつてそのあとへ葉草を植えるといふこともきいた。今こそ夏草の生え茂つた土手に黒ぶちの牛がのんびりしつぽを巻上げ傍に農夫がぼんやりと鍬をついてゐる情景も見られるが、間もなくこゝも内地の様に狭苦しくぎつしりつまつて了ふのであらう。
日露戦争の忠魂碑が沿線に立つてゐた。古人の朝鮮征伐の史話もこの土地にまつはる。兵営の並んだ会寧を過ぎると国境が近くなった。よく開拓された林があつたが、模範部落で、胡瓜、茄子の蔬菜も栽培され、支那人、ロシヤ人もゐるといふ。木が密になつてきたが、熊、羚羊、猪、雉子等がゐるとか。製材が行はれ、木炭、石炭が多いさうだ。間島富士が見えてきた。豆満江に沿うて行く。黄色く濁つた水が浅い川床をのろのろ流れている。やり・砂もぐり・鱒・すっぽん等がとれると。河柳が沢山生えてゐた。大人子供のいりまじつて悠々と遊んでゐる水辺もあつた。娘は桃色や水色の派手な服を着てゐた。妓生を見ない我々は白く長い髭、高い帽子の仙人めいた朝鮮老人にかなり心をひかれた。杖に手をのせて汽車を待ってゐるその白い姿は置物の様に静かで穏やかだつた。鮮人は概して非常におとなしい。長い従属の歴史が作つた性情であらう。乗込んでくる子供等が余りにひつそりし過ぎてゐるのでいぢらしくなる。豆満江を渡ると図們、税関の検査を受け警備兵も乗込む。白い朝鮮服にまじつて黒や紺の満人が次第に多くなつてくる。地勢も変つた。低平な老年の山が単調に平行し耕やされてゐない草地があり、一面にぼうと広やかなことが朝鮮よりも更に大陸的である。けれど思つたより開墾が進んで沿線である為だらうが粟や大豆や黍が沢山作られてゐた。山近くまで何かうわってゐる所もあつた。こんな景色は北海道にもあつた様に思ふ。茫漠たる満洲の野はもうこの辺では見られないのである。けれど畑の形はとゝのはないし、川もさすらひ人の様なたよりない流れ方で岸には川柳がぼうと垂れてゐたり、お化けみたいな木が幾つも並んでゐたりする。部落と部落を汽車が連ねてゐてその間に家はない。自分の畑へ行くのに随分遠いであらう。鍬をかついで歩いてゐた農夫が顔をむけた。褐色にこげきつた彼等は、人間といふよりも土にくつゝいた自然物である。土に同化して了つて考へる事もない様に見える。我々は余りに土を離れ過ぎてゐる。少し彼等の真似をするのが幸福なのではなからうか。鍬はもたなくてもいゝ。あの様な顔、土と一如の顔付がわづかの間でも出来たらいゝと思つたのだ。黒い猿の様な豚がチョコチョコ走り出た。朝鮮農家とは又異つた小さな低い土の家から子供が出てきて塀から出た豚を追いかけた。鶏もゐる、鵞鳥もゐる。彼等の村は平和さうだ。彼等も鮮人以上に無口で慢々的に我々の傍を通つて行くが、慢々的は愛してもにんにくの臭気がどうもたまらない。鮮人のは彼等程しつこくない。時々田舎娘がお下げの髪に花をつけて母親や弟と乗つてくる。服はやはり黒が多い。同じ屋根の並んだ上に日満国旗の交叉してゐる部落があつた。葦河といふ駅の近くには埼玉縣と立札に書いた移民村があつた。日の丸が立つてをり家も日本式だつた。満洲の原野に日本の力は雄々しく芽ぶいて之からぐんぐん成長しようとするのだ。だんだん草原が多くなつた。あざみ、犬蓼。萩や女郎花の様な秋の草も一面に咲き乱れて美しかつた。大陸は秋の来るのが早いのだ。日も傾くと夕風が涼しく背の高い満人の売りに来る茶水(チャースイ)を買ふ人もなくなつた。馬の群が静かな赤い光の中をかけて行く。白いのが多い。牛も見た、羊も見た、満洲の野は次第に暮れてきて闇の中に牡丹江が光る。警備兵は我々を懐しみ早く内地へ帰りたいと言つてゐたが、若く頼もしい面つきであつた。牡丹江に着いたのは夜八時を過ぎ、低いプラツトフオームに満人鮮人日本人が入りみだれ、兵隊がたむろし、銃火管制下であり、国境近い新発展地の緊張したものものしい雰囲気であつた。

八月二十四日 牡丹江より哈爾浜まで
牡丹江の町は砂地の上に立ってゐる。昨夜はじめて駅に下り立った時満洲の土を踏んで灯火管制の暗闇の中で真先に感じたのは埃っぽい臭ひであつたが、それは私達の夢想して来た大陸といふものゝ一部であった。夜は晩く着くし朝も早かったので見学の時間も無かつた。牡丹江の町を私達はほんの一角だけ覗ひ得たのみではあるが、駅前の広場に立つてみた丈で建物ばかりが目につく。この町が平野の中に広がりつゝある力強さを感じさせるのである。さう云へば今朝旅館の窓から見た街路の汚さは不潔と云つて了ふには、はゞかられる整はない姿なのであらう。土地とその上に営まれてゐるものとがまだしつくりしない新しさは誰の目にも最も印象が強いのである。
六時五十五分発と定められた汽車が発車したのは七時を十分余りもすぎてからであつた。昨日一日をこの土地の汽車に乗り暮した私達は一分一秒を争う内地の汽車には味へない心易さにも最早慣れ始めてゐた。平野を行けば又昨日と同様な単調な風景のみを見る。眼の届く果ては波状の草丘が起伏して草は低地を埋めて広がつてゐる。極く稀にびつくりする程静かな川をみる。余りにも平な草原を流れあぐんでゐる様な川である。遠い間を置いて固つてゐる満人部落の土塀には何か親しいものを感じたけれども隅々まで耕やされてゐる青い畑や水田を此処へ持ち出して考へてみると、こんな変化のなさ、掴まへ所のない大きさはどうしたらよいのか見当もつかなくなりさうだ。時々広い草原を貫いてゐる一本の赤土の道は却つて心細さを増すばかりである。適度な円みをもつた草丘やふつくりした土をみては、誰もが未開の沃野だと叫ばずには居れないであらう。然し時折雑草の一部が刈り取られてあつたり、不規則な区画の大豆畑があつたりするのは、まるで人間の気まぐれとしか思へない程度のことではあつても、昨日見て来た沿線の景観に比べて兎に角人の手がつけられてゐることは明かである。停車場近くの聚落では汽車の着く度に部落の門を入つてゆく村人達をみるのは興味ふかい。農具や荷物を担いだ男や女がぞろぞろ歩いて行く。小童が仔豚の群を追つてゐる。
山地へ入ると平野の単調さに比べて其処此処にいゝ景色が開けて来る。この辺りから急にロシヤ人の姿が多くなつた。高原地帯での最初の駅は横道河子といつた。楡の木陰からみえる赤煉瓦の住宅は私達の目にうつる最初の異国的なものである。案内記を開いてみると避暑地としての好適地とあり、かつてロシヤ人が軍事上の要地として経営したといふことも辺りの様子でうなづける事だ。
やゝかげつたやはらかい陽ざしにも明るく照り映えた幹が彼方に立ち並んだ白樺の林のまはりを繞る様にして汽車が走る。黄色の女郎花、うす紫の野菊、白や薄紅色の名を知らぬ草花が近くの草原を埋めて咲き続いてゐた。それは惜しげもなく咲いてゐる、といふ感じである。何といふ自然の豪華であらうとこんな豊かな自然の美に小さな心はたゞ驚いて嘆声を発するのみである。
昼近く驟雨に逢つた。草原のかなたの雲の色が次第に黒くけはしくなつてやがて車窓を濡らし草はべつたりと打ちひしがれて了ふ。広野の雨はみてゐるだけでも冷たかつた。汽車が早く突き抜けてくれゝばいゝと思ふ。午后四時頃某信号所で停車したきり中々動きさうにもなく聞いてみても誰もがさあ、と云ふばかり。団体の心強さもあつてはつきり聞いてみる気も起らない。退屈な車内を飛び出してそこらの草花を摘む人達もあつて、焦れつ度い心も和げられるのである。一時間あまりの後発車。当り前ならハルピンに着いてゐる時刻だのに。トランプ、読書、居眠り、おしやべり、でなければ何れにも退屈したといふ顔もみえる。停車する毎に窓から首を突き出して駅名を支那語で読んでみるのも退屈のさせる業である。長衣の裾をひるがへして駅頭でゆで卵を買ふ旅客の大やうに優美な身のこなしに老成した民族≠ニいふ言葉が頭をかすめる。明るさを空一面に残して何時か夕暮が来てゐた。ハルピン近くでは丘さへもなくなり極めてゆるやかにうねつた平野が地平を限つてゐる。車窓見学で拾ったことを綜合してみると、
一、 部分的に開発された場所は別としてこの地帯は未だ開発されない。従つて或意味の最も満洲的なものを保つてゐる地方である。従つて農業は余り行はれず、これに代る産業として、林業は北満の林業の五割をこの地方が行つてゐる。樺、樫を始め良材に富むこと。
二、 我が国策中重大な満洲移民計画はこの沿線及び更に東北部の奥地の未開発地を中心として進められてゐること。現に遠くからではあつたが葦河といふ駅附近では埼玉県移民村の外観を見ることができた。移民村の内部をも見学でき、その生活の一端でもうかゞひ得ることができれば更に好かつたと思ふ。

八月二十五日 満蒙開拓訓練所見学
満洲といふ処が広大な土地であり、まだ開かれぬ宝物を蔵し、(物質的にも精神的にも)それをひらくために人をもとめてゐる。そして一方日本内地ではありあまる力が根を下すべき新らしい土を求めてゐる。この二つの関係を私達は渡満前からしばしば感じさせられて来た。私達が今度かうして大陸まで来たのも一つには尚一層はつきりとこれを掴む目的がその中に含まれてゐたことは否めないのである。私達は大陸へ上陸する前、敦賀から清津までの船中にても真面目な事実にぶつかつた。生命が、日本の力がこの船と共にどんどん流れて行つてゐる。私達は開拓移民の団隊とのりあはせたのである。私達は、その人達の悲壮な程(と私達に思へる)はてなく燃え上つてゐるビジヨンを、決意を、まじまじと眺めて厳粛なものを感じた。これから新らしく一村が地図に生れようとする事を私達も強く考へずにはゐられなかつたのである。船中第二日、私達のうち幾人かは神奈川県の移民村視察団の座談会を傍聴し、満洲移住協会参事鈴木虎雄氏から、満蒙開拓青少年義勇軍についての大体のおはなしをうかゞつたが、鈴木氏のはげしい信念、自信が強く私達の胸をうち、直ちにそれは義勇軍に結びついたのである。私達はかうして大陸の土をふむまでに開拓の棄石とならうとする人達を感じてゐた。又、満洲の野を汽車が走つてゐる時、茫漠としたあたりの様、耕作されぬまゝすておかれた平野、それらは、だんだんと満洲の度はづれて大きいスケールに馴れはじめて来た私達にも驚きであつたし、線路ぎりぎりまで耕し尽して山の斜面にまで這ひ上つてゐる内地の田畑と比較しては、屡々開拓移民について考へざるを得なかつたのである。さうしたばらばら乍ら心の準備をもつて私達はハルピンの郊外にある満蒙開拓訓練所を見学したのである。
私達がハルピンの町をバスにのつて出かけたのはもう十時であつたので、訓練所についた時はもうすでに活動の最中であつた。門には歩哨が立ち、入つたすぐの広場ではカーキ色のズボン、ゲートル、戦闘帽の青年達(まだせいぜい廿才位にみえる)が芝草をつみ上げて堆肥をつくつて働いてゐる。また牛を追つて向ふへ行つたものもあつた。これらの様子は、すこしも内地の青年学校の生徒とかはらないやうであつたが、たゞはつきりと満洲のものだと思はせる土と空気と、あちこちに建つてゐる土の家、こわれかけた白壁が異つた景観をしめしてゐる。土の家は車窓からみた満人の農民の土の家と殆どかはらないものであつたが、これは生徒達の宿舎であり、私達はやがてこれらの中の一つに入り、指導者の方からお話を伺つた。その方は熱心にこゝの組織や沿革や毎日の生徒達の生活状態等を話され、満洲移民について強く話された。早く満洲をかためねばならぬ、一刻も早くかためてしまはねばならぬと。そしてこのかための一つ一つの棄石となるために、これらの青少年は教育されてゐるのであると。すでに自ら永住の決心をかためてゐられる諏訪氏の熱は自らあふれてゐた。私達はこの青少年義勇軍の任務の尊とさを知ってゐる。私達は満洲に入るなり満洲にどんどん食ひ入つてゐる日本人の力をひしひしと身に感じた。満洲に入つて満人の気をうけるよりも、日本にゐる時よりかへつて日本人を強く感じたのを面白く思つたが、満洲の文化層をかうまで日本の文化の下に集めた事をおどろくと共に、強く思つたのは、これらの華やかな都会が日本化するには農民がもつとどんどん日本の力を植ゑつけられねばならぬといふ事であつた。大広野の中にぽつんぽつんと孤立してゐる大都市が豊饒な偉大な土から離れてしまつては、この日本の力は無駄である。そして広野の果ての農村は決して日本に於いてと同じ様に大都市の影響を(精神的にも)うけないのである。であるから満洲を真に立派に守り育てるには、土に日本人が根を下さねばならぬとはつきりわかつた。その尊とい任務をもつてゐる青少年義勇軍であるが、私達には生徒である青少年達に果してはつきりその義が理解され、一人一人の確固として自分の生活に自信をもつてゐるかどうかといふ事が心配であつた。歩哨に立つてゐる十五才そこそこの様な小さい子供をみるといぢらしくさへなつてこの重大な使命が本当の理解をうけてゐるかどうかも心もとなくなつて来たのである。しかしお話によれば、皆はまじめに真剣に考へてゐるさうであるし、若干の落伍者のあつたのは残念であるが、すべてのものはこゝに棄石たるべく永久にこゝを墓所とする気持との事であつた。
昼食は当日の御献立を御馳走になつて、皆馴れないものであつたがおいしく沢山に頂いた。午後は作業場を方々みせて頂いたが、それぞれに研究されて感ずべき事共も多かつたのである。終りにここを辞さうとする時、国旗掲揚台の下で訓練所長のお話を伺つた。目を大きく放つて見る時満洲の耕作地はもうすでにせまい、今更満洲を最高の目的にするものでもあるまい、北へ々々、西へ西へ、シベリアまで印度まで大日本の生命が救はなくてはならぬ――。あまり大きくない体躯と、おだやかな面ざしと、静かな声で何気なしの様に話されたお話の中から思いかけない強い力が、私達の心を掴んで、私達は満洲の広さと、せまさについて、今までに考へ及ばなかつた点まで食ひ下つて考へずにはゐられなくなつてしまつたのである。

八月二十六日 哈爾浜見学
大陸に来てはじめての都会らしい都会が哈爾浜だつた。満洲の他の大都市に較べて落着いた町だ。足場だけ出来上つた新京、首都としての古い歴史を持つ町ながらその為に汚く見える奉天、それに反して哈爾浜は既に一応完成された都会らしい様子を持つてゐる。
駅前の樹立、向ふにみえる尖つた寺院の屋根をみてもさう思はれた。哈爾浜はロシヤ人が造つた町だ。そして一番多くロシヤ人が住んでゐる。この事が哈爾浜に他の都会と全く異つた趣きを与へるのである。この町にも満人が沢山居る。それ等の人は、やはり他の都会と同じ様に、人力車を曳いて不要々々を繰返す。道端には満人の西瓜売りが坐つてゐる。或る町は全く支那式、或る町は日本人の堂々とした立派な商店街だ。けれど哈爾浜の町に来た人はやはりロシヤ風の街の物珍しさに惹かれるだらう。馬家溝の辺の樹立の中の小さな煉瓦の家の辺を往き来する布を頭にまいたロシヤ人の女の人に目を留めるだらう。
私達は午后一時にはもうこの町を発つて新京に向ふといふ限られた時間の中に、あはたゞしくバスに乗つて郊外まで見学した。女学校、哈爾浜学院の建物を眺めて真直に南に走つた。其処に哈爾浜駅に着く前車中からみえた忠霊塔が立つてゐた。志士の碑、二烈士の碑の前でバスガールが叫ぶ様に説明した。その調子は滑稽であつたけれど、今日の満洲の為にこゝに命を捨てた人達に対する心の引きしまる気持がした。この辺まで来ると広々と続く野原になつて了ふが、町に近いせゐか荒れた寂しさはない。もうすつかり秋になつた景色だつた。ロシヤ墓地のウスペンスカヤ寺院、スティンドグラスの光の町にひざまづいて十字を切つてゐた老婦人、私達の方に目を向けながらお母さんらしい人にならつてひざまづいてゐた少女、門の前で花を買つていそいそと入つて来た女の人、堂の中に朗かに気持よく響いた坊さんの声の美しさなどにひかれたが、それらは皆その異国風な珍らしさからだつた。私は昨日の夕方、松花江の堤のベンチに坐つて、大きな河の流れを眺めてゐた。鉄橋が二つかゝつてゐた。一つは満洲里の方へ、一つは黒河の方へ行く鉄道ださうだ。夏はボートで一ぱいになるといふ河の面もさびれてゐた。ゆるやかに流れてゐるこの河は、大きいために真中と岸とは流れが違ひ、面と底とは流れが違ふので、一度沈むと浮いて来ないさうだ。私が其処を去つてもあたりのベンチに坐つてゐた人は尚だまつて坐つてゐた。何のあてもない安らかな休息にもみえた。こんな町に暫く住んでみたいと思つた。旅の疲れも出てこの旅もこゝで終つた様な気もした。哈爾浜の町にはふさはしくない様なけばけばしい黄色い屋根の孔子廟から満人街を通り、もう一度みたいと思つた松花江を、バスから眺めて午后一時には新京行きの汽車に乗つた。汽車が鐘を鳴らして駅の構内を出てもまだ町が続いてゐる間はあかず眺めてゐた。哈爾浜から新京までの沿線はさすがに開けてゐた。見える限りの平野は耕されてゐた。夕方六時三十九分には満洲に来てはじめて時間の狂ひなく満洲国の首都についた。

新京(八月二十七日)
爽やかな朝の空気。滑らかなアスファルトの路。芝に置くきらきらと光る露。支那娘の細い靴の踵が伸び行く首都新京の心臓の鼓動の様に戛々と鳴る。有り余る土地をふんだんに使ひ、東西文化の粋を蒐免て碧空を戴つて聳立する国務院、行政各部の建築。左右の並木も豊かに美しく舗装されて新京の町を南北に縦貫する大同大街の豪壮を見る時、内地で心秘かに描いてゐた、たかゞなかば茫漠たる内蒙の一旗地、曽ての「長春」の幻とは余りに大きな懸隔である。我々のバスが市内を一巡し、近き将来に中心部となると云ふ順天大街にさしかゝつた頃には、既に新興満洲国に対する不安と云つた様なものは全然の杞憂である事に頷かねばならなかつた。
どの町角の隅にももれ上つて来る建設の声々が明朗な響を立てゝゐる。日本橋通を南に下ると満人の繁華街大馬路に出る。午前の十時と云ふ時なのに町は文字通り立錐の余地が無いと云つて良い。馬車に洋車、自転車にタクシーの洪水なのである。満人が電柱に寄りかゝつて客を引く声が騒々しく耳につく。旅人に目新しい飲食店の赤い房様の看板。青いのは店主の回教徒なのを示すと云ふ。何とも云へない騒音が聴覚を掻乱す。人道はと見ると日、満、露、人がごつちゃになつて歩いてゐる。内地では見られぬ光景である。それでゐて少しも不思議な感じがしない。長身痩躯の白系露人の少女に漫々的そのものと云つた満人の老人が続くかと思ふと、日本人の一瞬時も惜しいと云つた姿が目に入る。大道に吉凶を占ふ易者のだぶだぶな服と長い髭が何となくユーモラスな感じを起させる。我々のバスはもう少しのところで暫しの立往生をさせられるところだつた。然し其処から醸し出す雰囲気は唯の騒々しさでは無い。久しく圧政に苦しめられた三千万民衆が、今や安住の地を得て動き出さうとするざわめきが歓喜の乱調子じみて聞えて来るのだ。
北広場、大同広場、順天広場に見る巨大な高層建築、坦々たる三線式道路、完備した交通施設、凡ゆる近代的な都市施設をもつ新京は又、一方古都長春の名残を淘汰し尽す事なしに止めてゐる。新しきものは何時も古きものを無価値であるとし、その存在を許さうとしない。新しきものは更に次の新しきものを求めて漂つてゆく。それは珍らしがり屋の漂泊に過ぎない。真に新しき知性を具へた近代は、古きものから新しきものを捉へ出して生きていかうとする。古きものはそれ独自の美しさによつて存在を許される。新しきものに伝統の光を添へるのだ。満人の繁華街大馬路にはその姿があつた。近代と古代、新しきものと古きものとの美を混然調和の裡に包含してゐる姿である。東西文化の粋を誇る建物もその姿に外ならない。而してその街衢を新京の都人は大らかに頭を空にむけて歩む。足をしつかりと地につけて歩む。いやどうしてもさう歩かねバならない。
新興満洲国国都と奠められ、康徳四年九月には第一期五ヶ年計画を完成した新京は、止まざる不断の努力を以て二百万都市を目標に躍進を続けつゝあると云ふ。誠に日に新に日に進む国都新京の颯爽たる姿こそ帝国建設の表象なのであらう。凡てを包含して楽土建設に突進しつゝある全国民のその意気こそ五族協和の国都新京の魅力なのであらう。
翻つて考へて見る。我々はバスの第一のコースに北*通の忠霊塔を見た。次にハ古、ロシア帝政華やかなりし頃の繁華街といふ、今は野原にうす紫の野菊の幾株かを見る彼の寛城子戦跡に立つた。更にその凡真南、事変に際して我軍奇襲に依つて勝ち得た南嶺の記念碑、その附近に点在する勇士の碑を忘れる事ハ出来ない。我々は其地が再三度に亙る聖戦に濃い尊い血によつて購はれた先輩勇士殉国の霊地なる事に厳粛な祈りを捧げ、バスガールの名句調に感激の涙を惜しまなかつた。北満の地には斯うした聖なる地の如何に多い事であらう。今日新京のアスファルト、タールマカダムに舗装された道の下にハ故里に帰るはかなくなつた英雄達の夢が如何に多く埋められてゐる事だらう。国都新京の今日の発展は吾国人の血と汗とで培はれたのである。新東亜建設に命を惜しまなかつた大和民族の精神力が今尚この地の中枢深く入り込んで原動力となつて働いてゐるのは異国を旅するものゝ限無い歓喜である。無量の感謝である。新京の都は今溌剌として発展途上にある。王道楽土完成に吾人大和民族は祖先の犠牲を無にしてハならない。ダルな満人を覚醒し不断の精神力を注入し整然たる市区の如くに内容の充実に励むべきである。伝統の美に夢多く包まれてゐる内地の生活は窮しても尚まどかではあらう。然しやがては終局の時が迫つて来る。大陸に渡らなければ事実の発展は期す事が出来ない。これは吾人平和の戦士に遺された義務でハなからうか。関東局での講話を想出す。この国の日本人教育は満洲国の構成分子にハ違ひないが、大日本帝国の臣民たるに毫も変りがあつてハならないと、故に教育勅語の御趣意により日本人たるの精神を涵養し満洲国構成分子として建国精神を理解し王道楽土建設に務める純一無垢の日本人を教育するに在ると。さうだ、日本の国民が何処の地に生を営まうともそこに矛盾があつてハならない。その尊厳さあつてこそ首都新京の運命は永久に輝かしい未来を夢見てゐて良いのだ。
見学が終つて佐保会員の歓迎宴に出席し、王秀英女史の熱弁を拝聴する。要は大陸は日本女性の進出を期待してゐると云ふ。我々は半日の市内見学にこの若い人なら一旗挙げても見たいと思ふ新京に印象的だつたハルピンの町以上な憧憬をもたされてゐたので、大陸進出讃美論者が更にその数を増したであらう事を想つた。然し吾人が大陸に進出する事は児童生徒の指導者として内地に於てよりも以上の重大な地位に立つ事を意味する。大陸は人力を日本に期待すると云ふ。吾人は勿論消極的になつてハならない。然し吾人女性が不用意に、思想的にも単なるセンチメンタリズム以上の何物でもない、根拠もなしに、飛込んで行くには余りに大きく、又予想外に都市は既に整然たる落付きを見せてゐる。
新京ハこれからである。満洲は明日の国である。吾人の希望なるが故にこそ足許をみつめねバならない。砂上に楼閣を築いたとて何にならう。やがて崩ほれる時の哀しみがより大きいだけの事でハないか。内地の寒村に生涯を送らうともそれが日本帝国発展の捨石になれバそれで良い。力なき者が赤裸々の我に還つて全力を挙げて当つて砕けるか、それには日新月歩の轟く歩調の先頭を切るべく先づ自らの今日の生活を律して行かねバならない。

八月二十八日 大連
新京からの夜行で朝八時大連に着いた。今年はひでり続きで水道も断水を行つてゐるといふ大連に折悪しく私達の行つた日は朝から雨が降つてゐた。三台のバスに分乗、先づ忠霊塔に雨中参拝した。
満洲資源館はロシヤ時代の病院であつたとか、堂々とした建物である。此は満鉄公共事業の一で、満洲の資源即ち農作物とか鉱物とか木材とか牧畜魚類とかの標本が多数陳列されてあるが、単に以上のものゝ陳列のみでなくて、満洲の資源開発の情況や産業の振興状態の模型その他がよく示され、大陸満洲の開発史縮図ともいふべき所である。しかしながら、私達に与へられた時間は僅か二十五分でしかも説明者は不在であつた。これでは十分な見学も出来ず、正しい満洲国内の諸事情の認識も十分に得られなかつた。大変に残念であつた。星ヶ浦についたのは午後二時近くであつた。空は雲が低かつたが、雨は上つてゐた。此処は遊園地として海水浴場として名高い所である。清津に上陸して以来、全く海を見なかつた私達は此処で全く日本海と趣の違ふ大陸の海辺の鷹揚な美しさに恍惚としてしまつた。満鉄初代総裁後藤新平伯の巨像の前に腰を下して海を眺めて時の経つのも忘れる位であつた。
大連市街へ通ずる坦々としたドライブウエイを走つて再び市内に入り、大連の名物露天市場を見学した。俗に小盗児市場といふ。此の日は丁度雨が降つたので古道具の露天陳列は見られなかつたが、晴天の日には、インキの空瓶から折れた櫛、擦り切れた草履の片方までが売り物になつてゐるとか。此の市場の中にある一つの劇場の中へ入つて見たが、観客は無論下層階級の人達ばかりで、舞台を見て笑つてゐる者もあれば、眠つてゐるものもあり、舞台に背を向けて、私達をボンヤリ見てゐるものもある。そしてあの全体の騒然とした空気は異様なものであつた。実に此処露天市場は下層満人の必需品の市場であると共に、又とない民衆的娯楽郷で、劇場あり、妓楼あり、寄席、見世物等の集合地である。
碧山荘華工収容所は主として埠頭の荷役に働く苦力の宿泊所で収容人員数は約二万人とか。此は福昌華工会社の経営で彼等の日常生活に於ても又病時に於ても行きとゞいた設備が出来てゐる。山東地方から来る苦力にとつて此処は憧れの地であるとか。斯うした人々の生活に日本人が暖い手を伸ばして行くといふ事も又必要な事であらう。
大連港はさすがに東洋一を誇る大貿易港で、その埠頭の豪壮な建築・設備は私達をして瞠目せしめるものがあつた。
かつては「青泥窪」と称して五〇戸ばかりの一寒村に過ぎなかつた大連が、ロシヤ時代を経、日本人の手に依つて完成されて、現在極東に於ける大貿易港として、新興満洲国の大玄関として五十万の人口を擁し、奉天に次ぐ満洲第二の都会として繁栄してゐる姿は驚嘆の他はない。私は此処までに大連を造り上げた日本人の偉大さをしみじみと振りかへつて、日本人の底力とでもいふべきものを恐しくさへ感じたのである。今や着々として完成に向つて、ひたすらに進んでゐる新興満洲国各地の都会の姿に、満洲国の延び行く力と、日本人の驚くべき力とを、此の旅行に於て讃嘆して来た。そして今大連にやつて来て、此の完成された都会に再び日本人の偉大さを発見して今新に、感激の情の起るのを感ずるのであつた。

旅順(八月二十九日)
見学コース=白玉山・記念館・東鶏冠山堡塁・水師営会見所・二〇三高地・博物館。
初秋の直射日光が肌をさす朝、南端の静かな駅旅順の土を踏んだのであつた。人口三万三千港市として名高いこの町は満洲に於ける唯一の不凍港で古来支那ロシアの利用してきた所である。しかし、更に私達の頭を埋めるものは日清戦争に当り明治二十七年九月我陸軍が激戦二日で陥落させ、尚又日露戦争に際しては吾が海軍の決死旅順口閉塞隊や乃木軍の攻囲戦で邦人に不滅の印象を与へた戦場であつたといふことである。「日本人として忘れることの出来ない戦蹟の町である。」といふことが先入感として無意識ながらに緊張をゆるがせないのであつた。
駅の上にすつと聳えてゐる山の頂に白亜の円塔が日にかゞやいて白く光つてゐるのが印象的に眼に映る。満洲へ来てはじめて内地の奈良で見るやうな豊な落ちついた緑が見られた満足に似た気持もまじつて高く澄んだコバルトの空に高々と明るく、くつきりと映発する塔は印象的であつた。この塔は有名な白玉山表忠塔で塔上には乃木、東郷両大将撰文の表忠塔記の額面が掲げられてゐるといふことである。海抜四〇〇尺のこの白玉山はこの表忠塔の下に立つて旅順要塞を視野の中に入れるに最適の場所で、約五分陸海の陣地を当時如何にして吾軍が悪戦苦闘したかそれをまのあたり見る様に説明をきいたのであつた。ねむの花が美しくさいて秋の虫声がきこえ、時々強さを感ずる程山の上をわたる風に吹かれてたつてゐると、大陸の進出をいそぎ建設をつゞけ完成へとあへぐすべての活動から脱して眼前を走る**陣と呼ばれた山波も足下にひろがる。動かない海もありし日の惨状を回想して尊い捨石と化した英霊の永遠に安らかならんことを黙々として見守りつゞけてゐる静寂な永遠の聖地だといふことをしみじみと思ふのであつた。無情の土にも石にも木にも草にも祖先の血が肉が骨が埋められ今も尚滲透してゐるであらうと足のうらを伝つて故人の血が通つてきさうな気がした。踏む石に心してみよ旅の人≠ニいふ言葉が強く胸にひゞいたのであつた。広瀬中佐の一(まま)の肉片を残して散つたといふ旅順港口は低い山を含む老虎半島と黄金山によつて狭められて港は東西二港に分たれ、日光をうけてきらりきらりと光る波の外動きが見られない様な静かななぎの海であつた。海に向つて右側、灯台の下、巨岩の上、円形の台石上に碇を置いた閉塞記念碑が見えてゐた。
赤煉瓦の建物とアカシアの並木のつゞく旧市街の一角に設けられた旅順要塞戦記念陳列場へ着いた。旅順要塞戦に使用した彼我の兵器被服等の遺品二千数百列が陳列されてゐる。建物はロシア風のもので古風な感のするものであつた。前庭露天に数門の大砲がさられて据ゑ附けられてゐたが、珊榴弾砲は堡壘、砲台、及港内の敵艦を射撃した日本軍使用のものだといふのであつた。記念館の第一室には玄関を入るとすぐ天井と左壁とに弾痕があり、はじめて見るものの肝を寒からしめた。これは日本軍が龍頭の西方、王家甸子から発射した十珊半加農砲弾丸が命中したものだといふ。第三室の各兵科の兵器があつめられた中に、ロシア軍の軍楽隊使用の種々の楽器がたくさん陳列されてゐたが感慨ふかいものがあつた。又貧弱な兵器に文明の歩みを思ひながら、室の中央天井から吊下つてゐる魚形山番なるものに驚異の眼をみはり、第四室に入ると壁間には当時従軍されてそれぞれ功名の高い我が諸将軍の肖像がならんでゐた。小さい箱に埃でくもつたガラスの蓋のついた陳列台の中には字も消えさうな南無阿弥陀仏の守札や、さびと土で変形しさうな六文銭や時計やナイフなど、我軍将兵の遺品が並べられて私達の涙をそゝつた。戦友のかたみとして時計を肌身はなさず持つてゐる兵の話などが如実に涙新によみがへると同時に、こゝにも祖先が生きてゐると思つた。第五質の東鶏冠山北保壘占領前後の模型も神業のやうな皇軍の偉力をみせつけられるやうでうれしかつた。興奮した頬に大和魂の誇を大きくしながら館を出ると埃にもまみれず気高く咲く桔梗の花がなつかしく気持をやはらげてくれるのであつた。バスが新しく開かれた山道をゆるやかにのぼりはじめ、先刻登つた白玉山と等高位になつてくると、山上の松柏類も小さくまばらになり、やがて視野が開けて赤土の山のいたゞきに達した。これが著名な東鶏冠山北堡壘であつた。幼い頃日露の激戦地の一として丸亀、松山、善通寺の四国の諸連隊の攻撃地で、決死隊がコツコツと坑道を穿つて行く話を手に汗を握つて何度も繰返して聞きたがつた東鶏冠山の堡壘の前に自分がたつてゐることをはつきりと自覚した時は感慨無量であつた。日本よりはるかに戦術に長けてゐるロシアが、全文化の粋をあつめて築いたこの陣地、今もその大部分を昔のまゝにのこす堅固な実にすばらしい堡壘で、肉弾必ずしも勝たずの万全の設備が加へられてゐるのには驚異以上のものを以て身内をゆすぶられる感がした。坑室の鉄扉には蜂の巣をつゝいたやうな小銃弾痕が残り、吾軍の苦戦を、山砲の弾痕はロシア軍の苦闘を無言の中に物語つてゐる。要塞の掩覆部にたつてその立派な設計にも感じないではゐられなかつた。しかも吾軍はこのロシアの誇りを一たまりもなく何回もの総攻撃激戦の中に遂におとし入れることが出来たのであつた。日本人のみのなし得た神業でなくて何であらう。そこには天皇陛下に帰一し奉る尽忠奉国の念がもえてゐたからで、悠久の過去から悠久の未来へつゞく日本人の偉大さであると思つた。この堡壘を死守したコンドラチェンコ将軍の墓に詣で山を下つて水師営会見所へ向つた。埃つぽい支那人街のうすぐらい家並を車窓にみて、満洲人の子供が物珍らしさうによつてくる中に車をのりすてゝ、土塀にかこまれた民家そのまゝの粗末な会見所へ入つた。衛生隊の仮ほうたい所であつた一軒の民家が残つてゐたまゝに歴史的会見所として乃木ステツセルの両将軍の劇的な会見を行はれたといふ。建物は三室に分れ、上ぬりのしてない壁に何となしさむざむとしたものを覚えた。低い天井のうすぐらい西側の当時の会見室には白木のテーブルと記念撮影の額が置かれてあつた。乃木大将の温顔がその中であたゝかくほゝゑまれてゐたのを今も思い出す。その会見室の四角な窓からも一本のなつめ≠ェ大きい枝をひろげてゐるのが眺められた。ステツセル将軍が乃木大将に贈る愛馬をつないだ記念のなつめの木であるが、幾星霜を経た今日も、尚昔の歴史を秘めて庭の左隅に生きてゐる。
高粱畠の間の道をまつしぐらにバスは走る。雨で道は川をなしてバスはその中を突進して水煙をあげる。畠中に民家が点在する。子供が遊んでゐるのが見えた。二〇三高地、急勾配を兵が爪をたててもがきつゝ登つたと聞いてゐた二〇三高地である。平和な村に秋草が紫に黄に白に咲き乱れてゐる二〇三高地であるが、胸をつくやうな勾配は今も感じられるのである。晴れてゐた空が雲を帯びて風がうなりを立てゝ渡りはじめる頃、乃木大将の揮毫に係る爾霊山の碑銘の下に立つた。最初ロシア軍の防禦工事が施されてゐなかつたが、明治三十七年五月以来工事をはじめ、特に高崎山を奪はれて後は半永久的なものとして工事をいそいだといふ。山腹には三段の散兵壕、二条の鉄条網を造り、加農砲三門機関砲三門をそなへてゐたといふ。二〇三高地の奪不奪は両国の勝敗の命の綱であつたといふ。当時両軍の死守死攻は想像だも及ばないものであつたと思ふ。松村中将の率ゐる第一師団後備歩兵第一旅団及第七師団は三十七年九月十九日の第二回総攻撃より十二月五日の占領まで肉弾戦を継続し吾が占領と敵の大奪回と実に五回に及んだといふ。この二〇三高地の土は我軍の死傷八千の人柱で堆く埋れたといふ。しかしさうした奉公の魂は皇軍をして完全にこれを占領し、砲兵観測所をつくり、旅順要塞の敵艦を全滅せしめ、世界五大強国の一に堂々その名を輝したのであつた。爾霊山の記念碑の裏にたつて谷を見下し、谷の木根と化せられた兵士の御魂に黙祷をさゝげて、ふと見ると乃木保典之墓といふ雨風にうたれた白い木標を見ることが出来る。将軍が最愛の二子を失はれてにつこりと笑つてお国のためにさゝげた命を喜ばれたといふ話を思ひ出すにつけ、大きな記念塔の陰に安らかに眠りますこの白い木標に、今更ながら新しい黙祷をさゝげずにはゐられなかつた。日本を今日あらしめた日露戦役の文字通りの悪戦苦闘をその遺蹟により、自然の要塞陣により、まのあたり見て大きな感激を感謝を頭の先から足の先まで秘め切れぬ程抱いて帰途についたのである。私達のどの顔にもどの瞳にも、一種の頂点にまで達した感激の色が溢れてゐた。感激につかれて博物館へ入つた一行は、短時間に制限された忙しさの中にも、熱心に最後の収穫を急いだのであつた。第七室より第十一室までは蒙古・支那発見の考古学の資料がならべられ興味をひいた。第十室の関東州宮城子の漢代壁画、甎墓の遺物と壁画模写及び同墳墓型のものがすばらしくならべられてゐた。南満洲は漢代前後には遼東郡の郡治が置かれたので、随所に漢代墳墓が残つてゐるといふ。古拙な手法で描かれた壁画は印度以前の東洋最古の絵画で二千年前の後漢初期のものといはれる。第十九室には西域特に唐代の高昌国であつた故都発掘の当代の木乃伊状遺骸があつた。人工的なエヂプトのそれとは異り、土地乾燥の関係から偶然ミイラ状になつたものであるといふ。明治末年大谷光瑞氏等が新疆省吐魯番附近から将来されたものといふ。少しの破損もないまでに整つた顔など、大に珍らしいもので服装などもよく残つてゐて面白いものだと思つた。この外、ガンダラ彫刻と契丹文字など、旅順ならでは見られないやうなものがたくさんあつた。再び旅順を訪れる事を期しつゝ、夕日も沈むころ夕なぎの海をながめながら、一途大連に向つた。

八月三十日。(大連―奉天―撫順(炭坑見学)−奉天)
大連駅にて税関の検査を受け五時十分の列車にて奉天に向ふ。戦蹟南山を望む大工業地域を形づくらんとしてゐる金州駅を経、マグネサイト産地として知られた大石橋駅を通過し鞍山に至る。列車が湯崗子駅千山駅を通る時車窓東方に有名な千山がのぞまれた。千山駅の南の方には鉄道を挟んで鞍形をした鉱山が並びたつてゐる。即ち東鞍山と西鞍山であるが、この辺へ来て日本人の多くみかけられる事等々、鉱業都市鞍山としての目ざましい発展が感じられた。黒々とした町。無数の煙突、車窓よりのぞまれる鉱山の一部に限りなき喜びを感じつゝ鞍山駅を出る。窓外の景色は牡丹江辺の北満のそれと異つて満人の部落も相当みうけられ平和な南満である。ついで歴史上著名な又日露戦役に遼陽の大会戦の行はれた遼陽駅を経て、列車は奉天に着く。渾河の北岸、広漠たる満洲平野の中に立つ都市である。駅前を大観する。多数の苦力、大連とは趣を異にした全くの満人の都市といふ感である。整然とした美しさはないが古い立派な奉天がのぞかれる。清朝興起以後史上に大きな役割を演じた所、伝統としての都市奉天がある。往事からこの地を利用して城がおかれ、今では欧州、北支に通じる鉄路の結節点だけに、奉天駅は如何にも満洲交通網の枢軸といつた感がする。それより奉天発、撫順に向ふ。渾河駅に於て分岐し渾河の左岸に平行して一路平原の中を行く。この辺の地は日露戦争奉天の会戦に我が軍の奮戦渡河の所である。畠の中の高梁、馬鈴薯、放牧、沿線は非常に豊かな感じだ。やがて列車は次第に鉱山気分のみなぎる暗い感じの小駅を経て、撫順に近づいてゆく。胸をしめつけられる様な重くるしい空気である。身内に迫つてくる強いもの。この鉱山都市撫順に入つてひしひしと身にくる感動である。撫順駅よりバスに分乗、炭坑及び市街の見学に出発する。バスは大山坑、第一第二露天掘の外満州国関係機関があり、満人により非常に賑はつてゐる旧市街を通り、古城子露天掘を経て製油工場・市街の順に進んで行く。諸炭坑はすべて南縁の山麓線に沿ひ新市街の東半は永安台の高台で全部満鉄の社宅となり、西半は平地で商業区、事務所学校よりなつてゐる。総人口二十三万人。日本人三万二千人(七割は満鉄に関係ある人。)炭鉱に従事する人満人六万人、日本人六千人との事である。炭鉱に全く詳細な説明を聞く。「本炭鉱は六、七百年前当地方に居住した高麗人が高麗焼をする為に採掘し、陶器製造の燃料に供してゐた。その後は土民の燃料としてのみ用ひられてゐたが、乾隆年間より百数十年採掘を禁止してゐたのが、光緒二十七年清国人が採掘し、その権利は露国の手に移り、日露戦役で明治三十八年日本人が占領、四十年満鉄が継承した。明治四十四年大山、東郷の二大炭鉱が完成、大正四年に古城子露天掘、九年には新噸、ついで各露天掘をなすに至つた。大正十三年には古城子に於て大露天掘りの実行に着手した。古城子の第二露天掘は深度三五〇mと云はれてゐる。炭田の西部が特に炭層厚く、傾斜急で被覆地層が少いので露天掘で採掘してゐるが、東部は坑内堀である。炭層の長さ約十七km、巾南北4km、厚さ平均40km、埋蔵量十億噸、満鉄は三十年間に二億噸採掘し、後八億噸残るとの事。石炭の産額は日本総産額の1/3を占めてゐるとの事である。露天掘の土砂岩石の剥離は上部の表土は剥土し、緑色頁岩及び油母頁岩は之を十米の階段とし爆破して地層をゆるめ、運びとり、油母頁岩の含油多い富鉱は製油工場に製油原料として供給してゐるが、その他にも油を採る会社に石炭液化工場等がある。
火力発電所は内地の尼ヶ崎のものと東洋二大発電所と称せられ、鞍山まで送電をなしてゐる。採炭は炭層を十米の階段として爆破し炭車に積込み運び去つてゐるとの事」であるが、以上の説明を聞き、その広大な炭田を前にして、無尽の石炭を埋蔵してゐると思はれる炭層豊かな油母頁岩、我が国の為或ひは満洲の為、その資源の力強さを眼のあたりにみて、限りなき喜び頼もしさといつた様なものが痛感されるのである。力強い嬉しい興奮をもつて、それより市街、静かな住宅街を経て撫順市を大観しながら駅に至り、奉天に再び向ふ。
いい一日だつた。力強いものに身体を押されて一日を送つた。日本の資源が、そして満洲の資源が無限に蔵される撫順又鞍山。内地の平和な農村、今又満洲のおだやかな農村を経て来た私達の眼には強すぎる程の色彩である。目に入つたものは暗い町、暗い炭坑、色彩は黒であるが、そして黒は陰気なものであるが、国の事を考へる時、その力強さに胸にせまつてくるものはほのぼのとしたあたゝかさ、嬉しさであつた。炭坑に働く日本人には何か雄々しく期する所ある筈だ。炭を掘る一部の満洲の人はともかく、私達がみかけた日本人は、内地から大陸に打つて出た人である。無数の煙突の下、暗い中に働く内地の人々の事を考へた時に感じた気の毒さといふ様な事は、しかし間もなくやつてきた清潔な美しい印象の新市街、住宅地の観察ですつかり消し飛んで了つてゐた。働く所、慰められる所、よく完備された安心さに、炭坑で感じた涙ぐましさが嬉しさに変る。
一日の汽車の窓外の景は、彼方に煙突がたちならび、もくもくと黒い煙があがるとも、駅には内地にみられぬ花壇があり、コスモスが咲き、楡があつた。美しいものが無数にあふれてゐた。真黒にピカピカ光つた石炭の山があつても、すぐそばには名もない草が花をつけて、つゝましく咲いてゐた。満洲では充実したものが育てられると共に、美しいものも一緒に雄々しく育てられてゆく。

奉天(八月三十一日)
奉天は古い歴史の匂のする都である。現在は一大文化的都市として躍進途上にあり着々とその面目をとゝのへつゝあり、堂々たる町並は溌剌の気にあふれ乍ら、どこかに落着いた複雑なものを感じさせる都会である。それは決してあの古い頑丈な城壁だけから来るのではないと思つた。前日大連より来て奉天に着いた時、駅頭の実に騒々しい馬車(マーチョ)洋車(ヤンチョ)の呼び声のうちにも、今まで見て来た哈爾浜や新京などゝ異つて、一種の言ひ得ない圧迫の様なものを感じた。今思へばそれがこの都のもつ幾千年の歴史の力であつたかもしれない。
奉天は渾河の北岸、広漠たる満洲平野の中に立つ。この地方は遠く渤海時代に瀋洲といひ元朝には瀋陽と呼び、明朝には瀋陽中衛をおいた。後清朝の興起と共に太祖が都をこゝに定めて盛京と改称し、今日の奉天の基礎を成すに至つた。その後北京に遷都してからも東三省の軍政の中心として瀋陽又は奉天と呼ばれた。近くには日露の役に有名な奉天大会戦の行はれた所、又満洲事変発祥の地柳条湖もこの地にある。実に新興満州国誕生の地であるといへる。かつての渺漠とした大荒野は幾千年の星霜を経て、こゝに今人口七十万を超える満洲第一の大都として、首都を新京に移されても依然交通、経済教育の中心地を誇つてゐる。
満洲に来てからの珍らしい雨の中を、埃のしづまつた奉天の街から又郊外へと車に揺られながら、いつになくしんみりした気持で見学に向つた。雨の為と時間の少ない為に心残りの所もあつたが、古い美しいものゝ香りを、市街のありのまゝの姿を、聖なる戦蹟に立つ思を味はふことが出来た様に思ふ。先づ奉天神社から大広場を経て旧満鉄附属地を南下し、忠霊塔に参拝して国立博物館より一路北上して北陵に向ひ、北大営から引きかへし、内城内を通過して同善堂を最後に見学し予定のコースを終つた。すべて説明はツーリストビユーローの越智といはれる方がして下すつた。次にその説明と自分の印象をたどつて、二、三の箇所を拾つて見ようと思ふ。
天照大神と明治大帝を合せ祀る木立の奥の奉天神社を車中より遥かに拝して、左手に満洲医科大学とその附属病院の堂々たる建物を眺め、忠霊塔の前で下車した時は、降りしきる雨が塔前の広場の玉砂利をしつとりぬらしてゐた。塔は六稜ピラミッド型の頗るモダンな感じのものである。その塔下に立つて、奉天大会戦の戦死者三万五千の英霊をまつるとの説明を聞き乍ら、これまでに拝して来た哈爾浜、新京、大連などの地に鎮まる英霊に併せ、その数多い忠魂に対して胸一ぱいの感謝で暫くは頭を上げることの出来ない気持であつた。博物館に行く途中、有名ないはゆる商埠地を通つた。諸外国人が自由に住んで商業を営むところ、別荘風の美しい建物が著しく目につく。説明によると、以前は犯人などもこゝへ逃げ込んでゐれば国際問題がうるさい為捕へられる心配はなかつたものであるといふ。今は国立博物館となつてゐる昔の東北軍閥の巨頭湯玉麟の私邸もこの一角に立つのである。白堊三階建の高壮なもので全部で室数二十二に及び、陳列せる珍宝三千五百点を数へるといふ。これを大急ぎで二十五分間に見て呉れと言はれて驚き乍らそれでも第一室から一通りは見て廻つた。けれど心に刻みつける暇もなく、たゞ眼を通して来たに過ぎないのは今考へても本当に残念である。中でも第一室の清朝乾隆帝時代の仏像仏塔は華やかな清朝全盛時代を偲ばせる金色燦然たるものであつた。八大金剛王菩薩像の豊かな肉付の光沢を思ひ出すことが出来る。その外注意を引いたのは外で見られなかつた遼や渤海時代の遺物が相当出陳されてゐたこと、又銅板画のすばらしいのがあつたこと、金や玉の宝座が多数見られたこと、順治・康煕・乾隆帝等の御宸筆が展覧されてあつたことなどである。特に皇帝の御筆はさすがに気品高く墨色も鮮やかに拝されて、何も分らぬ自分も暫く立ちつくした程である。本当に"古代支那文化を一堂に聚め終日飽くことを知らざらしめる"ものであると思つた。博物館をあとにし北陵へと向つたが、それにしてもあれだけの贅沢な私邸をもつことの出来た湯玉麟といふ男の全盛時代はこれ又如何ばかり華やかなものであつたことであらう。しかし彼は熱河征戦以来姿を消したまゝ今だにあらはれないといふ。北陵で下車する頃は生憎雨がますますひどくなり路はぬかつて靴をとられさうである。満洲では珍らしい老松の群におほはれて北陵は私達に内地の神社か御陵に参拝する様な親しみを覚えさせる。空に向つて美事な枝を張る松の緑の間に、朱壁黄瓦の楼閣が雨にしつとりぬれて如何にも美しい調和を保つてゐる。清の第二代の帝王太宗父皇帝と其の皇后の御霊のしづまる正しくは昭陵といひ、山名は隆薬山とせられる御陵である。中央の碑閣に至る磚道の両側には獅子、走獣、麒麟、馬、駱駝、象などの石獣がおとなしく並んでゐる。そのうち二頭の石馬は太宗が座乗した大白小白といふ馬をかたどつたものといはれる。足の短い忠実さうな眼をもつた馬が石とも思はれないやうな柔い肌を雨に打たせてゐた。この寂然とした陵域にも私達の先輩の尊い血潮が流れてゐるといふことはどんなに私達の心をつゝましくしたことだらう。奉天会戦に乃木軍の一支隊が夜襲を試みて敵の重囲に陥り、一個連隊全滅した戦蹟でもあるのであつた。ますます勢の加はつた雨の中を残り惜しく別れをつげて北大営に向つたが曇つた車窓よりたゞ広々とした野原の向ふに樹立が見えただけであつた。満洲事変の戦蹟として誰知らぬものゝない所である。市内の方に引き返す道は自動車道路であり乍ら水がじゃぶじゃぶついてゐて全くの悪路である。奉天は上水道は出来てゐるのに下水道が出来てゐないといふが、水のつくのもその加減もあるといふ。上水道は使用料が徴収出来るが下水道は一文にもならないので未だ手がまはらないとのことでこゝにも満洲の姿を眺める思がした。そして大都なるが故に、又古い歴史をもつ故に、下水道完成の日は遠い将来に待たねばならぬのではないかといふ気がした。

九月一日
奉天より安東まで
奉天発の汽車は蘇家屯より分れて一路安東に向つた。車窓より見た沿線の景観は大分今までと趣を異にして来た。川は前日よりの雨ですつかり濁り、雨に洗はれた木々の緑の美しさに一寸惜しい気がする。山も大分迫つて来たし、トンネルの数も多くなつて来た。この間までの草原一帯の偉観を見馴れた満洲の人が内地の木曽路を通つたら、さぞ窮屈に感ずるであらう等と考へてみたりして飽かず山と家と雨とを見る。汽車の外は次第に満人の数が減つて朝鮮式の美しい曲線の屋根がちらりほらり見えて来たのもそれ丈朝鮮入りが近くなつた事を思はせて一寸心残りがする。考へて見ると旅行の日数も大分重つた様であるし気持も落着いて来た様に思はれる。最初は実際色々の錯覚を起して困つた位であつた。
新京でもハルピンでも日本人町がいくらもあり、売つてゐるものは勿論日本製であり、売つてゐる店が何処も彼処も日本風であるから、満洲にゐるといふ感じがなかなか起らない。新京に例をとつてみても表通りは全く日本的であり、東京的であり、今更乍ら日本人の偉さにびつくりする。満洲を感ずる人は少いと思ふ。それが一歩奥へ入ると、これは全く予想外に田舎町らしい感じである。大連の露店市場で満人の芝居小屋を覗いてみた時、多くの満人が愉快さうに西瓜の実を割りながら眺めてゐるのを思ひ出すが、近代的都市の一角にかうした昔ながらの姿がくつついてゐるのかと思ふと、なんだかちぐはぐな感がした。なんといつても牡丹江とハルピン間の沿線は一番気持がよかつた。清々しい秋草が一杯咲き乱れ、何処かの駅で長い間停車してゐた時、すつかりいゝ気持になつて外へ出たりした事等が思ひ出される。
手もつけられてゐない果てしもない広野に野飼した牛を引張つて歩いてゐた満人の顔は、何時とはなしに影が薄くなつて、この沿線では朝鮮の人達が目につき出したのも仕方がない事だと思つたりした。高麗門高麗門といふ駅夫の間だるい声に、地図を開いて見たら、安東まであと僅かだが、雨はなかなか上りさうもない。安東、奉天間にも随分史蹟がある様で、この安奉線も又日本と密接な関係を持つてゐる鉄道である。それは日露戦争の際我が軍はここに軽便線を作つたが、戦後一九一一年十月一日改築完成を見、この年より九十九年間我国は経営する事になつたのである。雨になつてしまつた安東に就いて書いて見ると次の様になる。
満鮮の国境を成す鴨緑江の河口から二十七哩の上流に沿ふ都会で、満洲東南部の国境駅となつてゐる。人口二十万四千、当地は大連に次ぐ貿易港で、輸入品の五割は綿糸布、輸出品の主な物は豆粕、木材、柞蚕糸、栗である。駅前から東北に大和橋通を進めば、商業街をなし、こゝを洋車にゆられて通つたが、何しろ雨の事でもあり、ひっそり閑としてゐて淋しい程であつた。駅前から道を東南にとつて鴨緑江の江岸に出れば鉄橋に至る。
明日はいよいよ鴨緑江を渡つて朝鮮に入るのであるが、満洲の切手や葉書を清算してしまはうとその夜は専らお手紙に余念がなかつた。雨は大分小降りになつた様で、明日は晴れると思ひながら静かに寝に就いた。

安東より平壌へ(九月二日)
車中  きゝしにまさり鴨緑江が濁水なのは昨夜来の雨の故だらうか。筏の影も見えない。滔々と流れる大河を見つゝ鉄橋を渡る事一分間、国境線に立つ雨にぬれたトーチカをすぎただけで私達の外遊は終りを告げたのである。これからは帝国の旅だ。さういへば何もかもが変つてしまつたやうな気がする。切りそろへられた木材の山が沿線につまれてあるし、いつの間にか畑が田に変つてゐる。見なれた黒衣がすつかり白衣になつてしまつてゐる。窓近くに迫つて来る山も内地では始終見る景色だ。しかし何とごつごつした山肌なのだらう。短いながらも植林が茂つてはゐるが、所々白い岩肌が頑強に木を拒んでゐる。
あふれ出した川が道一杯にひろがつてゐる。小高い丘には黄色い、やせつこけた牛が一匹。
山が切れては又つゞく。妙香山脈の断片でゝもあらうか。地理の知識がはつきり役立たぬのがくやしいけれど、目の前に見る低い崖のくづれや開けた谷、高くのこつてゐる山頂の様子が、そのまゝ地形学の教科書となつて隆起準平原の削磨された有様を教へてくれる。山が切れたところには美しい田がひろがつて、一面に黄金の漣が立つてゐる。大同江の流域は豊穣である。塊状聚落をなして存在する饅頭型の藁屋根の一団。内地とちがつて人家が少い。停車した目の前の農家では大きなつるべを腰でくみ上げてゐる老婆がある。藁屋の中に床があり畳のやうなものが敷いてある。そして話にきいてゐた通りの大きな漬物壺が不似合に厳然と安置されてあるのも見える。
駅毎に沢山の白衣の人が乗りこんでくる。私達は満人の(それも主として下層の人だが)放散的ないはゞのびて行つてとゞまるところを知らぬといつた顔付と漫々的をその風土を知つて理解した。そして私達同志は、中央統合的な顔だと評して笑つたのであるが、今は又朝鮮の人の鋭角的な顔の線に気がついたのである。長い伝統がそこにあつた。李朝の暴政の下の忍従と曽ての荒れた朝鮮の山河の姿がそこに見えていた。風土と人間との関係を思はずにはをられない。
平壌に近くなると次第に丸い藁屋根がこんで来て、せまい道が幾筋も見え出す。町への漸移区域が内地と同様明瞭に見られるのである。満洲の町はこんなではなかつた。町だけが独立してゐた。何の前ぶれもなく、限りもない畑から、草原から、直ちにおそろしく繁華な町の中に飛び込むのである。満洲の大らかさがなつかしい。
平壌
平壌の町におり立つ。白一色の服装が曇つた町を明るくしてゐる。満洲では黒、朝鮮では白。それに比べて日本人のそれは、私達の周囲を見渡したゞけでもう幾色と数へ上げる事が出来る。幾多の文化に接しながら尚厳然と単色の衣を守つてゐる彼等の執着と幼少より今までの間にも驚く程変つて来た自分達の服装を思ひ合はせて、こゝにも民族性を感じる。同化性が強いだけに、又複雑で危険性も多い我々大和民族ではあると。
正しく区画された満洲の町を見做れてきた目には内地と似た町並が雑然とうつる。頭の上に大きな包みをのせてそりかへつて外輪にふみ出して行く鮮人の女。いかめしいすきとほつた冠をいたゞき悠々と去る丈の高い男。人を育んだ国土はそこにおいてのみ人を最も美しく見せる。
私はこゝでも認識を是正せねばならなかつた。伝統と誇りを持ち、新しい自覚に生きてゐる人達であつた。形のみの内鮮融和より、私達はもつと正しく見るべきなのだ。そしてもつと高い所まで引上げねばならないのではないかと感じる。その為に教育の実際をも見たかつたのであるが、土曜と日曜では遺憾ながらどうする事も出来ない。
博物館。  いつも遠い遠いところのやうな気持で楽浪の文化を呼びならはして来た。その四千年の縮図がこゝだ。遺物、何といふ沢山の蒐集だらう。貧弱な知識がその前に立つておびえてしまふ。石器時代の遺物、金属時代の銅鐸。銅鐸は内地の出雲九州あたりから出てくるそれと関係が深い。古拙的微笑をたゝへてゐる飛鳥仏が――ここでは楽浪仏だらうが――ある。
破損した遺物だけで私達は我慢して学んだのにこの漆器の色は・・・輝いた黒漆の手箱が二千年前そのまゝの色と形で安置されてある。飛鳥式単弁式蓮華文の瓦がある。見做れた葡萄文の鏡がある。天の日槍の昔から結ばれた内鮮が、芸術の上では尚緊密に交流してゐるのである。飛鳥天平の芸術の粋がこゝでは楽浪の文化として残つてゐた。
これも、どこかで見たやうな壁画の色だ。この壁画は、何とかの古墳の内壁に画かれたものゝ再現図だとか。この馬の様子や人の画が何か法隆寺、正倉院のそれと関係を持つてゐると思ふとなつかしい気がする。大丸太が縦横にがつしり組合された三丈四方もあらうかと思はれる彩筐塚木槨棺がある。地中深く埋もれ、或時は水にも浸されたとか。当時は白木であつた丸太も二千年の月日が痛々しく朽ちさせてゐた。内壁に残る色の変つたところは本物の赤漆であるといふ館長のお話。膨大な蒐集物に名残を惜しみながら少い時間にせかれて山上の瀟洒な建物に別れを告げる。
大同江
いつもならば底まで澄んでゐるといふこの河の、今日は惜しくも濁つた水を下る。今おりてきた乙密台がにぶい日をうけて木の茂みから一際高くそびえてゐる。台からの眺望は、どことなく京都の清水寺と似てゐた。緑の木陰の中にとけこんでゐる様子が。
平壌全体も京都に似てゐると思ふ。澄んだ大同の水は加茂川にも比べられようか。静かな歴史の都。朱 翠棟の箕子の廟は色あせ、高句麗の名刹なる永明寺は荒れた小さい堂宇が残つてゐた。その文化の跡に秀吉の昔から日清の役に至るまで我同胞が血を流して来たとは何といふ皮肉な運命だらう。静かに感傷を包みながら大同江が流れる。

九月四日(月曜) 京城見学
残暑厳しい九月の一日、旅行の第十五日目を京城の見学の為に観光バスに乗り込んだ。年は女学生位、声は円く透き透ってゐるが、清音と濁音とを混同して発音する、朝鮮人の女車掌の説明を聞き乍ら、李朝五百年の正都今は半島の首府である京城の街を走つて行く。李朝初期、即ち今から五百三十余年前の建築物で、文禄の役の時に、加藤清正が小西行長と先を争つて先に入り、陣を定めた南大門一名崇礼門の調和美を見つゝ、商工奨励館の前から朝鮮神宮へのアスファルトの表参道を通り、三百十三段ある石階を除けて坂道を上り、石の鳥居の前でバスを降りる。祭神に天照大神と明治天皇との御二柱を半島鎮護の主神として迎へ奉つたこの官幣大社は、奨忠壇公園のある南山中腹に市内を見渡す位置に立つ白木造りの崇厳な御社である。神域内の参集所で、京城の概略について、市街を目の前に見下し乍ら説明を聞く。京としては八百五十年前高麗朝時代今も人参の産地として有名な開城に都をした際、京城に離宮を置いて南京と言つたが、李王家が高麗朝を亡して京城に遷都し、その後明治四十三年の日韓併合により、当時二十万の人口が併合後三十年を経過した今では、半島全体に二百万の人口を有する様になり、年に四万人づゝ殖えてゐるといふ。今眼下に拡つてゐる所は、京城の町全体を瓢箪形と見做したその最も膨んでゐる部分で、北東に北漢山、その前山に三角形の北岳山、北西には仁王山、南には急峻南山と、周囲を岩峰によつて取囲まれた盆地である。山上には今四里二十六町残つてゐる城壁を環らし、八大門があつたが今は僅かに仁王山に城壁の一部と、他に東大門・南大門の二門が国宝として残つてゐるに過ぎない。南山と仁王山の間の北へ行く道は、支那の使節が往来した道で、それをバスで一時間、四里の道程を行くと、小早川隆景の戦つた碧蹄館がある。京城の町の左手、白亜の徳寿宮の周囲に、緑色のソビエツト領事館、その左にアメリカ右にイギリスの領事館が見える。市役所に当る京城府庁の灰色の建物、宇佐八幡・天照大神・稲荷大明神を祀る京城神宮の白い鳥居、乃木神社のある辺りは、倭城台又は倭将台とも云つて、物売市場になつてゐるのは、文禄の時、増田長盛が陣営し朝鮮人から食糧を買つた所である。大谷本願寺や石田三成が邸を構へたといふ、カトリツクのフランス教会は旧総督府のあつた地点にある。李朝の王を祀る宗廟が彼方に緑に見える辺り、京城帝大・京城工業学校・京城商業・女子医専・医学専門学校等の学校が立ち並ぶ大学通りである。南山一帯内地人が住み、すぐ眼の下あたりには朝鮮人が住んでゐる。右手は釜山へ行き、北へは金剛山・日本海へ出られる、朝鮮中心の地点にあるのである。以上の話を以て先づ予備知識らしいものを得て、再びバスに乗り、表参道と共に出来た裏参道を行くと、こゝら一帯は漢陽公園と云ひ、右手には李王が伐木を禁ぜられてから、樹木が繁茂する様になつたと云ふ南山を見つゝ天満宮・京城神社から、大正天皇の御成婚記念の御下賜により、三千六百種、一万七千余点の陳列品を納める科学館を只車上より見て通つた。東本願寺・日本赤十字本部・総督府官邸の前を通り、明治二十三年に出来たといふ一番古い日之出町小学校の赤煉瓦建物を左手に見て、昭和通りへ出ると赤煉瓦の軍司令部が歩哨に守護されてゐた。若草通りから本町通三丁目、黄金町通三丁目、角を回つて京城師範学校及び附属小学校・府民病院等の住宅地官公衙地を通つて博文寺に降りる。閑院宮殿下の御額「慶春門」の掲げられた門を入ると、広々と白い境内にコンクリート建ての御寺が聳え立つてゐる。本堂正面に「春畝山」と李王殿下の御揮毫による扁額を掲げ、奥には児玉閣下の「転法輪」の大字が覗かれる。この鎌倉様式の建物は、二十七万五千円の経費で昭和六年六月から七年十月までかゝつて完成したもので故伊藤博文公の霊を祀る曹洞宗の寺で、奨忠壇公園に四万二千坪の地を占めて、朝鮮の発展を守つてゐる。再び車上の人となり、三万三千五百人の観客を容する京城グランドから、女子実業学校・文禄の役に小西行長が入城した東大門を臨み、鐘路通五丁目を通ると、軟い藁葺や厳しい瓦葺の低い一階建ての珍しい朝鮮家屋が並ぶ。身分の低い者は一階しか建てられないさうである。大学通りに出ると、医専・高等工業があり、大学は法文学部・医学部・予科と各々離れて建つてゐて、赤い煉瓦塀のあたりを往来する、黒い洋服の学生が見受けられた。明倫町通りに出てから、頼しい朝鮮の女性を感じさせる女子医専や女子専門学校の前を通つて経学院で降りた。神門を潜つて孔子を正位として顔子・子思・曽子の四聖と閔損・冉雍・端子賜・仲由・卜商・冉耕・宰予・冉求・言偃・顔孫師の十哲と周惇頤・程頤・張載・程・邵雍・朱熹の六賢を祀る大成殿に額づく。附属してゐる明倫堂の学院に学ぶ官費生は、卒業して科挙の試験を経て国家の官吏となつたが、今では漢文研究をして忠壕学校の教師になるといふ。春秋二回に行はれる祭典の時に使用する祭器や支那から伝来した雅楽器、例へば編声架とか節鼓とかの丹青を施した諸種の楽器が蔵されてゐる。次は四百年前に建造し、南大門と共に古い弘化門を入ると李王殿下の御住まひであつた昌徳宮内の昌慶苑である。今は僅に文禄の役に焼失を免れた明政殿を残して、市民の娯楽所として、春は夜桜見物、秋は紅葉見物に興ずる所であり、他に動物園や装飾温室を持つ植物園もある。文武官の試験をしたといふ暎花堂の前の芝原、こゝでは武人が弓射をしたといふ所に立つて説明を聞く。李王殿下の御母太妃殿下が御住ひになる奥の方の内殿の区域も合せて全部で二十万坪、一周四粁の広さで、その中に七万坪づゝの内殿と秘苑・六万坪の昌徳宮がある。今の景徳宮・昔の景福宮と同じく、李朝初期に副宮として造営されたものである。五百余年前、火災の為に焼け、文禄の役に大火災にかゝり、主な建物は焼失し、今残るのはその後の建築である。昌慶苑の突当りにある秘苑は宮苑・後苑・内苑と云つてゐたが、後役所を置き、自然のまゝを生かして整理させたので、今尚美しい多種類の亭が残つてゐるといふ。頽れかけた石段に這ふ蔓の上を越えて宙会楼に上る。二階建ての一番大きい建物で応接間・書斎風で、下は温突の設備がされ、真中に板の間があつて絨緞が敷いてある。此処に群臣を招待され、冬は鉤戸を下し夏はそのまゝ二階で行つた。
この様に丹青で塗るのは民間では廟や仏閣以外には許されてゐないといふ。楼を降つて白木造りの茶室様に作られた斉月光風観を見て、質素な長楽門を潜ると演慶堂に至る。これは王の好みによつて民家風に作られたものであるが、大臣級の相当立派な建物で門番詰所とか駕籠・馬を置く所もある。昔の男女の別の喧しかつた通り、右は男の通用門、左は内房と云つて女や家族のみの通用門と、分けられてゐる。客門から内房へ行くのに、中庭を通り、竹で作つた正秋門を入ると広場に出る。主婦の居間や温突の焚口が見えるが、主人の居間は孟子にも「君子遠庖厨」とある通り、台所と離れてゐる為、雨の降る日は傘をさして食物を持つて行かねばならないといふ。物置小屋や女官詰所を見て、漢詩の一行づゝを、各柱に装飾として書き付けた亭様の建物を面白く眺め乍ら、太極亭に行く。王の休息所として厳しい屋根を持つこの亭が、王妃のそれの柔い山形の屋根の亭と対峙してゐる辺り、玉流川と名附ける清冽な岩清水が湧いて、傍にある朝鮮風の大きな木の(パガチ)で飲んだ味は又格別であつた。表面を削つた厳石には「飛流三百尺。遥落九天来。看是日虹起。飜成萬壑雷」と五言絶句が彫つてあつた。この秘苑は古樹繁り朝鮮では他に見られぬ緑の多い苑とは云ふものの、日本の御陵に見る鬱蒼たる幽邃さには遥に遠く及ばないものであると思はれた。昌慶苑内大樹の下で、佐保会員の方の御接待によって、サイダーつきで宿のお弁当を戴き、かうして昼餉も済んだので、再びバスに乗り、帝国大学附属病院から宗廟を経て景福宮内にある朝鮮総督府博物館に入つて、一々の陳列品について説明をきく。一階広間の第一室仏像の間には、三国時代の仏像二体の中、最大の金剛菩薩半跏像は内地の広隆寺木造菩薩半跏像と同じ像容を持つ優れたもの。新羅一統時代の仏像として慶州の南山から移した石造薬師如来像と壁間には慶州石窟庵のなだらかな線の美しさを持つ石造仏の模型が彫られてゐた。第二室には三国時代・新羅一統時代遺品。中でも古新羅遺品に、慶州附近の古墳瑞鳳塚や金鈴塚からの出土によるガラス器がこの時代既にあり、内地及び朝鮮にのみ見られる勾玉は、当時の内鮮の深い関係が分る。百済遺品として公州等の古墳や寺址から出た金銅飾・金具玉があり、又この時代の木棺もある。朝鮮と日本との関係を見る為に両者の土器・埴輪を並べて古代文物の密接な関係を知らせてゐる。第三室には高麗時代・朝鮮時代の遺品として主として青磁・三島等の陶器や調度品を陳列し、又朝鮮名産としての螺鈿細工や花角張と称する朝鮮固有の漆器の装飾法も珍しかつた。第四室には楽浪・帯方郡時代の遺品、「大晋元庸」の銘のある瓦当や大同江面厳里第九号墳出土品である金剛熊脚付硯は漢代の特色を示し、楽浪時代の木製馬・土偶・漆几や斧柄によつて、当時の制度が知られた。第五室は廊下を利用して内地の弥生式土器を伴出するといふ石器時代のや、金石併用時代の遺物や、高麗時代古墳出土鏡鑑の優雅な意匠に、内地のを思はせるものがあり、此の時代の活字も陳列してあつた。第六室は高句麗古墳壁画模写・高麗時代仏寺壁画模写・朝鮮時代絵画・書蹟と以上の通りであつたが、こゝに特筆すべきは、最後に平常は鍵のかゝつた小室から特別に出して見せて下さつた非公開の真物の燦爛たる光を放つ金冠の素晴しさで、皆一時はそれに気を奪はれた様に見詰めたのであつた。よくも五百年も古墳の中にかくも立派に残されてゐたと讃嘆せずには居られなかつたのである。王の玉座の置かれてゐた、勒政殿の朝鮮最大の木造建築は、その色彩の華麗さといひ、形と規模の大いさと云ひ、朝鮮の人達が、一生に一度は之を見たいと望むのも點頭かれる豪華なものであつた。石段の下には白大理石の標柱が並び、正一品から九品迄の文武官両藩の立つ位置が定められ、石畳の間には草の自在に生え伸びてゐるのが目についた。国王の毎朝政事を視られた便殿としての思政殿から修政殿に入ると、此処には大谷光瑞氏の寄贈による西域中央アジヤ仏蹟探検蒐集品が陳列されてゐる。前室の壁画は下絵の上から色彩を塗つたもので、法隆寺のものより新しく、宋時代だといふ。中央室には西域と支那の風土の相違によつて、支那にはないガンダラ仏教の影響を受けた塑造仏があるが、之は薬師寺の塑造仏と同じやり方のもので、時代から云へば、日本なら天平時代、支那では唐時代のものである。その他種々のものにより西域の文化を眼前に見る様であつた。修政殿の後にある慶会楼は、後の北岳山の奇峰と周囲の碧水と相俟つて好適の宴会場と云へよう。次にこの半島の政治を執つてゐる総督府に行く。建物は石造建築として東洋屈指と云はれるもので、十分に小豆石とか霏散とか、その他八種の大理石を使つて七百万円を費して昭和三年に出来たさうだ。中でも中央ホールの儀式場には七万円の投費による和田三造画伯の壁画が八枚、日本の羽衣の伝説、それと同じ朝鮮の伝説、六百年前の朝鮮の風俗、それに対して日本平安朝の風俗その他が美しく画かれてゐた。京畿道庁から逓信局・光化門通りを京城税務署・朝鮮日報社・府民館・京城日報社を通つて徳寿宮で降り、大漢門を潜つて俄の驟雨の中を李王家美術館に走り込んだ。正面には京城の傍にあつたといふ鉄鋳釈迦如来仏像は朝鮮最大のもので、天平以後、世界的であるといふ。第一室には高麗青・白磁陽・陰刻の楽焼、第二室には青緑象嵌・胎土・辰砂、第三室には朝鮮出土支那陶磁器として掻落手・各色の釉、第四室では朝鮮出土及伝来の三島手・*手・染付、第五室は工芸品・三国・新羅・高麗から朝鮮時代、第六室は絵画陳列、***等、第七室は仏教関係、第八室は三国時代末期、高麗古墳壁画の中、始めの世界にも有名な楽焼を一々鑑賞して見てゐる間に時間がなくなり、後は急いで見て後、それよりもつと早く殆んど素通り程度に、李王家美術館近代日本美術品陳列を見た。凡て京城の予定の見学をすまして、近代的設備の整つた朝鮮ホテルの大食堂で華やかなサンゼリヤの下に、佐保会の方達から御茶の御招待を受け、和やかな会合の後、随意に、大阪の心斎橋筋の様に狭い日本人店の立並ぶ本町を散歩して、お土産物を買ひ乍ら、三重旅館に帰つた。この夜から丁度防空演習で、カーテンを下し、管制用の小さい電灯の下で、もう第十五日目の旅枕についた。時間が許されたらもつと博物館を十分ゆつくり研究的に見学して内鮮の文化関係を見極めたいと思つた。
 
九月五日  京城から慶州へ
昨夜おそくまで、熱誠ある愛国者として世界の情勢を語り合ひ大いに気焔を吐いた一同は、無理に眼輪匝筋を押開いて、或は最後になるかも知れない旅の朝のユツクリした気分を味はうとした。が割合に出発が早くてスーツケースの整理もソコソコに駅に向ふ。
見送つて下さる大勢の佐保会の方々。今度初めてお目に掛つた人々許りなのに、随分既知の人である様に親しみを感じた。混雑したプラツトフオームには見送る人、見送られる人の何とも云へない気分が漂ふ。発車だ。次駅竜山まで殆んど一直線かと思はれるレールウェイに半身乗り出す位にして、長くながくハンカチーフを振りに振つた。遠からず来るであらう満洲への沿線だ。逢へない事は無い筈の人々なのに無暗に眼がうるんで了つて腰を下した私だつた。いろいろ考へてゐて、ストツプした駅に眼をやれば、○○○(ハングル)南京城とあつた。朝鮮も後一日。とてもとてもあつけないない様に感じられる。満洲々々とあんなに云つてゐたのに、何時の間にか忙しい旅をもう京城までも来て了つたのだ。いや、既に京城をももう離れて了つてゐる。朝早くから夜おそくまで忙しい旅の私達で、十分見学するだけの時間にも恵まれなかつたけれ共、満洲朝鮮が思つてゐたよりもズツトズツト好い所だつたといふ事、そして真の好い所悪い所もかうして実際に足跡を印してみて初めて分つたと思つた。満洲は一宝庫である。数限り無く埋蔵されてゐるものが吾々優秀なる日本人により世の中に出たいと念願してゐる様だ。日本で無ければ、外に満洲を拓くものは無い。日本が開拓してこそ真の意義がある。日支間は今こそ干戈を交へてゐるが、決つて芯から相容れざる国では無い。満人、支那人、彼等は非常に純朴な所を持つてゐる。素直で馴れ易い所もある。容易に融合する種族の様に思はれる。将来・・・と云つても遠からず東洋は和平すると思ふ。又古墳とか遺物とかから考へて見ても、何時までも干戈を交へてゐるべき国ではない。上代又中古には両国には文化の交通が相当あつた。遠い関係の国では決して無いと思はれる。昨夕の日報社の号外を見れば、欧洲に於いては正に第二次大戦の火蓋は切られてゐる。英も援将者してゐられなくなるであらう。元来が己が利慾の為にのみしてゐた英だ。今度は己自身を護る為に大騒ぎであらう。正に大戦である。東西共に蜂の巣を突いた様である。而して東洋に平和の来るのは間も無かろう。皆が真実の日本の姿を認め、自己の姿に目覚めて更生を決心した時、平和は確立する。日本は東亜諸国にだけでも真の姿を認めさせねばならぬ。勿論英*に於いては難い問題であるが、吾々は絶えず努めねばならぬ。戦争は憎む可きものであるが、然し実際止むを得ないものだ。これについては、私は何にも云はぬ。だが文化が進むにつれて、それが世界人類向上の為にのみそれが利用されるのでなく、人類と人類との争の為に利用されてゐるといふ事は甚だ残念である。互に戦ふのは勿論自国の防衛、そして向上進出の為であるが、それが為に世界を巻こんで乱すのはよくない。互に血を見ずして共に進み行くのが真実の意味を持つものと知らぬ彼等ではあるまいが・・・。あらゆる化学、機械等の類が戦争の為に用意されてゐるかの如き観があるのは遺憾千万である。序にもう一つ残念な事がある。今朝駅に急ぐ途中、私は注意を与へようかと思つた程の事である。勿論日本人は偉い。而し彼等は威張り過ぎてはゐないだらうか。道路上に於いても、旅館に於いても、薄々は感じてゐた事ではあるが、日本人は非常に威張つてゐる。成程鮮人にしろ満人にしろ吾々程では無いかも知れぬ。然し礼を失した態度、軽蔑した態度を取つていいだらうか。鮮人等は失礼な態度で取扱はれても表面には怒を出さなかつた。心中どんなにムツとしてゐるかと思ふと、自分まで血潮が逆流しさうだつた。勿論大陸へと進出し、発展やむなき日本は偉い。が満鮮の土地が無かつたら日本人は何処に流れ行く運命を持つてゐたのだらう。この問題は旅行者も勿論だが移住者も注意しなければならぬ事と痛感した。
フト胸にあげた私の手に堅いものが触れた。故人の御姿。朝から晩まで乗り通しの今日、車窓見学も、鮮北ならとも角も、かう馴れて来ると殆んどしなくなる。見るとも無く移り行く景色を眺めながら只考へるだけである。そして懐しい想出にふけるのだ。
アカシヤを紐の限りに退きにけり、朝鮮牛は汽車におぢきて。
 暑いとは云つてもやはり何処かタツチの柔いこの頃の風だ。窓からいい気持に吹かれ乍ら遠くに眼をやる。沿線に美しいポプラの繁る街路がある。とてもシンプルな柱上家屋みたいなのが点在する。が、やがてそれにも目馴れて了ふ。トンネルさへ無く、単調な京釜線のすべり。全く無聊だ。胸の固い感触、苦しい心を努めて楽しかりし想出にふけらせる。故人と北山に紅葉狩りした時、七才だつた。尖端の猛烈に恐げな透明な一寸程のものを拾つた。母は石鏃といふものだと精しく説明して下さつた。今でも一語々々殆んど覚えてゐる。次の日位、中学に入つた許りの兄と拾ひに行つて一斤位拾ひ、学校に寄附しに行つた。又あの時母は大昔は此処は海だつたかも知れない、貝がよく出て来るつて、二、三拾つて下すつた。それは早速小学校に寄付に行つた。センシジダイと教へて下さつた母の言葉も難くて説明は覚えず、只発音だけ判然記憶してゐる。ハツキリ内容は知らない乍らもお母さん子≠ヘ何時も背中でいろいろ教つたものだ。それが今斯うして急ぎつゝも満鮮を見学して来た時に種々の事が一時に分つて来た様に思はれるのである。大陸を見るに周末漢初にかけて支那文化の東漸は非常に著しかつた様である。前漢末か楽浪郡治が置かれるや、支那文化は朝鮮に溢れ出て来て、西日本の方へも延びて来たに違ない。今遺つてゐる文化でも相当なのに散逸した分が相当だつたから往時こそ素晴らしかつたと思はれる。私の幼時拾つたのは、今考へてみるに磨製石鏃では無かつたかと思ふ。墳墓を見るにつけ壁画を見るにつけ、又遺蹟を視るにつけ、往古の大陸との交渉がいかによく行はれてゐたかを知る。博物館で一覧すれば尚痛切に感じる。二千余年前の事
 大きい駅についた。大邱だつた。汽車のスウヰンギングから一休みする。
     忙しき旅を来りて慶州に今宵は果ての夢を結ばむ
三時間半程して憧れの慶州に着く。七時だつた。最後の夜を落ちついた純日本式の旅館に宿れて共に喜んだ。暗くて小さい町、然し乍ら従つて落ちついた静かな町。とても感じがよい。流石に仏都だなァ、古都だなァとしみじみ思ふ。旅で畳の上に(やす)めるのは今宵が最後だ。初めて蚊帳を吊つて貰ふ。星が空に綺麗で一入故郷を想はせられる。夜の街りを散歩する。旅の終つた悲しみと家に帰られる喜びとで皆複雑な様である。語を交はす事も少なくて散歩を了へる。皆胸が一杯で、言葉なんか出なかつたのであらう。
 旅ももう終る。明日一日だ。時間の都合で折角のよいものを見ながら、心ゆくまで視られなかつたのは返す返すも残念であつた。どうせ又来るんだ≠ニ独り慰めて見る。やはり今日となつて見ると、本当に忙しい旅をしたと思ふ。学生時代に満洲位十分に見て置きたかつた。幼児よりのギリシヤ熱も今尚盛である。外遊してゐる従兄が時折ギリシヤ文化についての文献等送つてくれるのに対しても多少は慰められ、一方では尚更その熱を烈しくされるので、苦しい時もある。ギリシヤのみならず世界各地を歩きたい。文化の日本の高さを吾々は今更の様に知り、驚き、且愛するであらう。旅は好きだが、親の許を離れたくない私は旅らしい旅をした事が無い。少し旅らしい旅をして見て本当の旅が望めて来る。望許りでふくれ上つてゐる私達だ。太く生きたいものだと思ひつゝ横になる。

九月六日
一、 慶州郊外
良いお天気、自働車を連ねて慶州郊外の古墳を訪うた。
鮑石亭趾は半ば枯れたる喬木のその蔭の掩ふところに曲水の遺跡がある。葺き石の溝が環の如く帯の如く繞り伸びしてゐる。角々では盃が止り舞ふ様になつてゐるとか、今を去る何年か前に技術上でこんなに進歩した時代のあつたことを驚嘆する。かつてはこの畔りで文雅の王者達が河辺の石に踞して髭を捻じつゝ想を構へたであらう。又新羅第五十五世景哀王の十月妃嬪と共に此処に遊んで宴酣なる頃、後百済の甄萱俄かに襲ひかゝり、王の遂に害された惨劇は遠い昔の夢、今ハ只畔の半死の古木に鵲の群れ啼くのみである。
鶏林は多種の古木の繁つた林である。新羅第四世の脱解王の時の金色の小*の話は日本と朝鮮が古代より交通のあつた一証拠ともみるべく愉快な事である。
博物館には石器時代の遺品、土器、陶器、*その他みるべきものが多かつた。特に私達の眼を奪つたのは金冠である。金冠は五十七個の硬玉製勾玉を鏤め、同じく黄金の瓔珞を懸け、私達を嘆賞させた。又木骨に青銅を張つて玉虫の翅を柑入して装飾した馬鐙のごとき玉虫厨子と全く同じで古代の交通の頻繁さを思はしめた。又梵鐘はその大きさと音の澄んだのとで私達を喜ばせた。
二、 仏国寺
宿屋に一旦帰り昼食後仏国寺に向ふ。
慶州は我が奈良の地である。新羅の都の様も今もとゞめて古寺あり、古墳あり、古塔あり、温雅なる山のたゝずまひ、私達は自働車の中で大和路を行く様な気がした。「望星山は慶州の三笠山といふんですよ、似てますか」と運転手君は問ふ。似てゐる様でもあり似てない様でもある。その中に自動車はポプラの並木を通り抜けて街路に坐り込んでゐる土地の人達に埃を浴せかけて行く。気の毒に思つてふり返つてみると相変らず埃の中にじつとして我々の車を見送つてゐる。その顔、−無神経な−、我々なら駄目と知りつゝ何かどならずに居れぬ。
バスは仏国寺の前に着いた。東に青雲橋白雲橋西には蓮華橋七宝橋あり橋を上れば紫霞門安養門に入る。紫霞門のうちには大雄殿あり、安養門のうちには極楽殿がある。昔は紫霞門より歩廊左右に走りて、その端は楼門となり、北に折れて大雄殿の左右に達してゐたが、今は只西方の一角に泛影楼を残すのみ。又昔は青雲白雲蓮華七宝の下は池で、崖下には清池のあつたことが知られる。この寺は新羅第二十三世法興王の草創で、その後三十五世景徳王の時大いに修築したが後文禄の兵火にかゝりしとの事、然しながらその規模の雄大なる草創当時清池に面して色美しき七堂伽藍が朝には緑の吐含山に映え、夕には池に深く影を沈めた様は偲ぶに余りあるものであつたらう。又文禄の昔、我々の祖先が勢すさまじく押し寄せ、清池に伽藍炎上の姿が如何に映つたか。星移り人変れども礎石のみは今も尚残る。国敗れて山河あり、城春にして草木深し、その感を一層深くしたのであつた。多宝塔釈迦塔その技巧の美しく、又それにまつはる伝説の恐しきに、我々は同情の涙をそゝいだのであつた。
三、石窟庵
石窟庵へとのぼりかけたのは真昼時二時すぎであつた。容赦なく照りつける日光は随分暑かつたが、道傍には秋草が一面乱れ咲いてゐた。急坂が終るとやがて一つの峰に出る。眼下に低く朝鮮の山々、広く見渡せば青海原がみえる。日本海だ。雲か水かそれと分たぬ一線で眼前に拡がる。私達は歓声をあげた。
路はやがて下り坂となり、石窟庵につく。その前の甘露水、滴々とわづか許りしか出ないそれをどんなに順番を待ちあぐんで飲んだことであらう。石窟庵は新羅第三十五世景徳王の時、仏国寺の重修と共に創建したもの。十五枚の壁面に四菩薩、十大弟子及び十一面観音を窟口の左右に四天王八金剛力士を陽刻し、又穹窿の天井その中心に当る所には宝華があつて恬然す。中央に趺座する釈迦仏は高さ一丈六尺、妙相端麗我々文科生が長い間実物をみる日を念願してゐたもの。新羅黄金時代の代表的遺品といへよう。又本尊をかこむ諸仏・諸天の像も亦た精妙の作、私達は次には雲崗龍門の石仏をみたいものだと思つたのである。下りたのは三時。ゆつくり休んで仏国寺駅へ着いたのは六時。この小さな田舎の駅はまだランプがともされて、一入皆の旅愁をそゝつたのであつた。日はとつぷり暮れて了つた。

九月七日  下関に上陸。何等見学個所なく、一路奈良に向はうとして、私達の心は既に奈良に、或は郷里に飛んでゐた。汽車の一日は永く、私達は疲れた。昨日までの充実緊張した日々において多くを見、聞き、感じて、疲れたのである。けれども一度大陸の空気に触れて来たものは内地の風物にも又以前と異つた感興を覚える。
 下関駅の構内もフォームも芋の子を洗ふやうな雑閙と混乱に、内地の生活の慌しさと緊迫を感ずる。悠然として汽車を見るといつた風な満洲人の無心な顔付が偲ばれる。日本人は自己の仕事に驀らに進んで脇見はしない。彼の地に働いてゐる邦人のみではなく、内地に帰つて見れば皆の人がさうである。世界歴史の表面に浮び出で、今や世界歴史の主流を成さんとしてある民族と、世界歴史の水面下に沈み、歴史の流を傍観する民族。其が日本人と満洲人の相貌まで変らせてゐるのかも知れぬ。風土の影響も勿論ある。
 内地の山河は涙ぐましいまでに小く、愛らしい。繊美に、情趣濃やかである。この山河は、憶へば涙ぐましく、見れば慕はしい。内地の自然は孫を溺愛する祖父母の如しと言へやうか。伸びゆく者を之に委ねてはならない。伸びゆく者は烈日に灼かれ、突風に立向はなくてはならない(つてきたへられなくてハならぬ)。古き伝統の情趣と美を包んで平和に眠る祖国の山河は、幼い日の祖母の俤の如く眼底にのみ永久に焼き付けて、青年は大陸に赴かねばならない。美しい内地の山河に甘やかされてはならない。
 内地といふ所は、既成の存在である。歴史の尖端に立つ現在が過去より受けたものゝ中には、善いものもあるが悪いものもあるが其が承け継いだ既成の事実であれば、すべては認容せられねばならぬ。しかるに大陸は未形成の混沌であり、しかもその中から美しいものが既に芽生えてゐた。  楡の木陰の瀟洒な建物、清々しく掃かれたプラットフォームには満鉄のマークを根無草の花であらはした花壇があり、コスモスさへ咲いてゐた北満の駅が忘れられぬ。何もない昿野に美しいもの善いものを育て上げようとする人の努力が感じられた。内地の汽車はひたすら奈良へと走りつゝある。