『験記』に関する知識の広がり
『験記』は近づきがたかったが、その存在は知られていた。そこで、春日の神に興味をもつ人々は、入手しやすかったであろう模本の詞書で、何とか用を済ませていた。
例えば、『大乗院寺社雑事記』によると(延徳3(1491)年7月中の記載の終わり)、大乗院は、『春日験記』を一巻所有しており、それは詞書しかなかった(近藤氏(注))。近藤氏は又、天理大学図書館にあると記録されている保井家文書中の類似した写本を引用している。
このような模本を読み続けていた人々、又は、そこから他人に教え続けていた人々の中で、だんだんと、『験記』中に言及された人物、場所、状況を理解する人は、確実に減ってきた。
他の縁起の場合と同様に(近藤氏(注))、聞書によって得る、より多くの情報、要するに、詞書の詳細な注が必要となった。英俊の御聞書を含む室町時代の終わりから残っているいくつかのものについては既に述べた通りである。近藤氏(注)は、英俊の御聞書のように、16世紀から伝わるらしい他の聞書を紹介した。これらの聞書の存在は、『験記』が完成した後三百年近く、内容に対するある程度の知識が、原本を見ることが叶わなかった多くの人々にもたらされたことを示している。
『験記』の模本
『験記』全体を、より多くの人々が享受するための、費用がかかるが唯一の方法は、『験記』を模写することである。
そのような模本は、江戸時代に制作が始められていたが、その時でさえ、藤原氏の氏長者の許可なしで模本を作ることは出来なかった(大東氏(注))。
大東延和氏(注)は、現在知られている『験記』の、全巻揃っている模本を表にした。それらの模本は次の通りである。
(1)観修寺家所有のものがあった。大東は、陽明文庫の模本よりも少し早い時期に位置付けている(注)。この模本がどうなったかは分からないが、この模本から作った現在の春日本の最後の部分が作られた1807年には存在していた。
(2)陽明文庫の模本(陽明文庫本)は、琳派の画家であり、近衛家の家臣だった渡辺始興(1683〜1755)によって、1716年から1735年の間に制作された。詞書は、「近衛豫楽院」というおそらくその頃近衛家の上流の一員だった人物によって書かれた(京都国立博物館(注))。この模本は、京都の陽明文庫が所有しており、1983年、そこで筆者はこれを見ることを許された。絵は(紙に)美しく描かれており、巻物の状態は良好だった。一回の滞在につき4巻のペースで、『験記』全体を見るのに5週間かかった。非常に大がかりな作品というものは、一つ一つの絵を見るだけでも、大変な時間がかかる。
(3)春日本(春日本、旧桑名本)は、一部原本から、一部上記(1)の本から模写した者である。将軍吉宗の次男、田安宗武(1715−71)の命によりその作業が始められ、宗武の息子、松平定信(1758−1829)の代1807年に完成した。
大東氏(注)は、宗武はこの『験記』が江戸にあった1725年、少年の時分に父に見せられておそらく始めて『験記』を見たのであろう、と推測している。宗武派近衛家の助力により模写を完成するために、おそらく1760年代に、原本を見る機会を得ている。完成した模写が焼失してしまい宗武はもう一度作業を始めさせた。しかし、模写が半分終わった所で(10巻まで )彼は死んだ。
上述したように、『験記』は行方不明になり、その後発見された時には、『験記』を模写する手段は無くなってしまった。定信は彼の父の手掛けた模写を当時観修寺(大東氏(注))の所有だった模本により完成させねばならなかった。
1983年に春日本は春日大社の所蔵するところとなった。特筆すべきは、普通21巻のところ、この本は22巻からなる点である。この余分の一巻は宗武の批評と共に『験記』巻1第1段の詞書を収めている。学識のある宗武は国学の思想に造詣が深く、巻1第1段に我慢がならず、巻1第1段が作品を損なわせているとしてこれを切り離させた。
(4)東京国立博物館の模本(東京国立博物館本)第一本は1845年に原本から写されたものである。
(5)国立国会図書館の模本(国立国会図書館本)は1870年に春日本をもとに作られたものである。
(6)東京国立博物館の模本第二本は1935年に原本をもとに作られたものである。
近代印刷術のおかげで、写真は写真であって原本ではない憾みはあるものの、『験記』は20世紀には広く開かれたものとなった。 おそらく、最初の写真複製版は、1929年に雄山閣から出版されたもので、他( 参考文献目録 に名が挙がっているもの)はその後追って出版されたものである。