いでよめる
 月やあらぬ春やむかしのはるならぬ
(古今 我身一つはかりはかわらて外はむかしのことくもおほしぬ心也)
 わが身ひとつはもとの身にして
 (玄よんでとよむべし)
とよみて、夜のほのぼのとあくるに、なくなく
かへりにけり
* やすめ詞也ふりみふら
  ずみとおなし玄たちゐ
  するにも去年に似ぬ也。
  さればたちてみゐてみの
  みの字見の字にもすへし
 月やあらぬ春やむかし歌
  師此歌詞書に、こぞにある
  べくもあらずとあるに心を
  つくへし。全体女の外に
  かくれてこゝにあらで去
  年に似ぬ歎きをよめり。歌の心はかく去年に似ぬは、月がむかしの月ならぬか。春が昔
  の春ならぬか。我身ひとつはむかしの身にてかはらさるに、去年にかはりたるは如何と思ふ
  こゝろの去年に似ぬにつけて、かやうにかはるまじき月春なとをうたがひて、月
  やあらぬ春やむかしの春ならぬとよめる所表なる餘情にかくこもり侍にや。我身は
  我と知てもとの身なるに、月春などもかはるへきにはあらねと、是は外物なれはかくうたひ
  つるなるべし。又云此歌の肝心の餘情はわか身一つはといふはの字にこもるべし。はの字に
  心をつけずは業平の本意にはたかふべし云々。愚案此歌の註飛鳥井家の古今
  の聞書、并に愚見抄、又徹書記物語の説等大かた同し。惟清抄等には我身ももとの
  身にてなきかと思へるが、我か身はもとの身にてあるよと見るべき也とあり。我とも我
  身ひとつはとある詞はさやうには見がたく侍るにや。只師説の義明にしてきみあるにはしかじ
 夜のほのぼのと玄あかず心をとめて。夜すでに明れば、いつまであるへきぞとなくなくある心なるべし其
五むかし男ありけり。東の五条わたりにいと
         (一密也隠密してる心也玄同)
しのびていきけり。みそかなる所なれば
門よりも元いらで、わらはべのふみあけ
 (玄つゐんとすこし物心ありてよむへし御説也)
たるついひぢのくづれよりかよひけり。人
しげくもあらねど、たびかさなりければ
 (玄染殿の后也)
あるじきゝつけて。そのかよひぢを夜
    (師居の字也番ををかれし也)
ごとに人をすへてまもらせければ、いけ
 (一も字「 」「 」)(此詞歌に懸て勢有)
どもえあはでかへりけり。さてよめる
 人しれぬわがかよひぢのせきもりは
古今
 よひよひごとにうちもねなゝん
とよめりければ、いといたう心やみけり。
        (玄物かたりの作者の詞也)
あるじゆるしてげり二条のきさき
* 人故に其所をしたふ心
  切なり清同
 東の五条わたりに
  肖前の段とおなし二条ノ
  后のことなり
 わらはへのふみあけ
  一草かりわらはべなどの
  道にしたる心也玄あら
  ぬ道をもとめてかよふ也
 ついひち玄つゐがき也
  愚案順ノ和名ニ築牆
  と両点也
 いけどもえあはで師いけ
  どもいけどもと心をつけてみる
  へし。さまさまとかくして
  忍びいらんとすれどもの
  心也。古今集此歌の詞
  書に、いきけれどえあは
  でのみかへりてとある
  も、度ゝ通ふ心あり
 人しれぬ我通路歌*