奈良女子大学学術情報センター
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中空日記 本文 付翻刻 行程表 行程図
 

レポート  中空日記   

 『中空日記』の作者は歌学者香川景樹である。尾張津島の門人氷室長翁の招聘により、景樹が文政元年の十月二十三日に江戸を発ち、十一月二十六日に津島に着くまでの、計三十三日間の日記紀行文である。

 この旅の前後事情にふれておくと、文化十五年(文政元年・一八一八)二月に景樹は門人河野重就・菅名節・菅沼斐雄を随え、江戸をめざして京都を発つ。その目的は、桂園派 の新歌論を以てして、江戸歌壇を制することにあった。
 京都で景樹を見送ったのは、中空日記に名前のみられる人々で言うと、三宅意誠・山本昌敷・多田韶・松岡帰厚・丹羽正高 ・波多野親民らである。すでに江戸においては児山紀成を筆頭にして桂園派歌人が生まれており、朝岡泰任・木村敏樹・本田以時らが江戸に到着した景樹を出迎えた。

 景樹は目白台の児山紀成の愛松軒に滞在し、そこを拠城として江戸での歌壇制覇の活動を展開した。しかし、加藤千蔭や村田春海の「江戸派」の流れをくむ一統は、景樹に対していろいろな批判や抵抗をし、景樹を江戸から追い出そうとする。“江戸歌壇の制圧”という願いもままならず、失望の感を漂わせていた頃、長翁からの招聘もあり、かくして景樹はこの『中空日記』の旅に出ることとなった。
 江戸から同行した門人は、菅名節と石田孝一のふたりである。相模川の近くからは波多野親民も合流する。

 日記の中で「此あやをは都よりつれくたりたる中の、ひとりにしあれは、こたひの旅にもともなふへきを、おのれかへりくるまてのかはりにとて、残しおきけるなり、」と述べているように、自身のかわりをつとめさせるべく、菅沼斐雄を江戸に残している。
 津島の長翁宅(椿園)には十一月二十六日に到着し、津島に滞在中、『中空日記』の奥書を記している(十二月一日)。その後十二月中旬には京都に帰った。

 景樹は失意を胸の内にいだきながらも、再度江戸へ下向する意志を強く持っていた。しかし社中での大反対にあい、実現には至らなかった。
 歌学者である景樹としては、この旅の道中、昔に今に知られている歌枕の地に、可能な限り、くまなく立ち寄っており、行く道々で詠まれた歌は、膨大な数である。
 『中空日記』に出てくる和歌は、景樹の作のみにとどまらず、門人等の歌も含んでいる。和歌は249首、うち1首のみ仏足石歌(五・七・五・七・七・七)体であり、あとは全て短歌(五・七・五・七・五)である。その他に「から(唐)歌」、漢詩で七言絶句が六首載っている。

 『中空日記』の旅は、東海道を西に上るルートである。上りと下り、という違いはあるが、中世の日記紀行文学作品のうち、同じ地を旅したものとしては、
      『海道記』 『東関紀行』 『十六夜日記』
   などがある。これらの作品は、ところどころで『中空日記』に影響を与えている。
 又、西行の歌の句:「思引きや富士の高嶺に一夜寝て」、芭蕉の俳句:「今朝散りし甲斐の落葉や田子の浦」なども本文中で引き合いに出されている。『方丈記』や『太平記』の影響も見られる。例えば、『中空日記』の菊川のくだりは
      槙の原を過て、くたりはつれは菊川なり、宿西岸而失命とかゝれし承久のいにしへ、
      おなしなかれに身をやしつめんとよまれたる元徳のむかし、かといひこれといひ、
      思ひやるたにとり/\かなしからすやは、こゝろあらん人たれかは袖をしほらさん
      東路にありときゝつる菊河は涙千世ふるところなりけん
    という内容のものであるが、「宿西岸而失命とかゝれし承久のいにしへ」とは承久の乱の時、藤原宗行が この菊川の地にて誅せらた際に書き残した漢詩のことを指しており、『海道記』『東関紀行』『太平記』に同様の記述が見られる。「おなしなかれに身をやしつめんとよまれたる元徳のむかし」とはこれも同じく宗行が宿の柱に書き付けた一首、
      いにしへもかゝるためしを菊川の同じ流れに身をや沈めん
のことを指している。こちらは『太平記』に記述が見られる。『中空日記』の本文中に、「光行の道の記」「かの光行かくたりし時」という記述が有るので、特に景樹は『海道記』(源光行の著とされている)をふまえた上でこの作品を綴っていることが窺われる。
      この作品中に見られる歌枕のうち、平安時代に歌枕として頻繁に歌に詠み込まれた地名と共通するものを挙げると、
   はこねやま、はこねのやま (箱根山)
   ふじ、ふじのやま、ふじのね、ふじのたかね (富士山)
   こゆるぎのいそ (小余綾の磯)
   うきしまがはら (浮島が原)
   たごのうら (田子の浦)
   うつのやま (宇津山)
   さやのなかやま (佐夜の中山)
  ※しらすが (白須賀)
   はまなのはし (浜名橋)
   やつはし (八橋)
   ふたむらやま (二村山)
等である。 ※「白須賀」は、上代・中古には「志賀須賀の渡」という歌枕で多くの和歌に詠まれているが、「志賀須賀」「志賀須香」が訛って、江戸期には「白須賀」となり、現在まで残っている地名である。類語の地名として、「横須賀」などがある。浅井了意著『東海道名所記』には白須賀の地名について、“東国の俗語に、沙のあつまりて小高きをば、須賀といふなり。宮の渡しより佐屋に廻る佐屋の入口にも、須賀といふ宿あり。蜂須賀などいふもおなじ。洲といふ心なるべし。賀は語の助字なり”と説明がされている。

 『中空日記』の旅は、江戸から名古屋に向かう、つまり東海道の「上り」のルートである。この作品中で、「富士」の歌は全部で23首になるが、各々の歌について、それが何処で詠まれたものか地名を挙げると、以下の様である。
   品川・箱根・風越・沼津・千本松原・原・吉原・蓼原・さった山・焼津・丸子・
大井川・金谷・掛川・国府
この旅においての、“富士山が見える限度”を考えると、東限は品川の海晏寺、西限は国府村だった様子である。この、富士の見える西限について、景樹は次のように述べている。「富士は吉田にて見ゆるをなんかきりといふなる、さるをこゝにして見出たるや、心あて深からてはとほこるめり」
富士を詠んだ歌の中で、次の景樹の一首は、有名である。
     富士のねを木の間/\にかへりみて松のかげふむ浮島が原
この歌については、次の通りの窪田空穂氏の評がある。
『中空日記』といふ景樹が五十一歳の時、江戸へ来てゐたが、二月、名古屋まで行く時の道の記の中に出てゐる歌である。上三句は、富士の清らかさを「木の間木の間」といふ事によって説明なく現はしてゐる。見える限りは見ずにはゐられない心で、その心は旧暦二月の雪の富士の清らかさの為である。「松の蔭踏む」は同じく清らかさを連想させるものである。この感は作者のその時の感で、読者に同感を求めてゐるところのものである。作者の感の伝わつて来ることを覚えさせる。
この一首は『桂園一枝』にも所収されている。桂園調の清新な歌風がよく現れた、秀歌と言えるだろう。

 ところで、この『中空日記』という作品を何度か繰り返して読んでいるうちに、ある一つの疑問がふくらんできた。――「中空」という語に景樹が込めた心情は何だったのか。
このタイトルが示すところのものは、何なのか、ということである。この日記のなかには「中空にして定めなきかな」と歌に詠んでいる箇所と、「夢路は中空にそたとるへき」と綴られた箇所の二回きりしか「中空」という語は出てこない。
 景樹よりも前の時代の先人たちは、和歌の中でどのように「中空」という語を使っているのか、『新編 国歌大観』を開いてみた。すると、「中空」には大きく分けて二種類の使われ方があるようで、“情景をありのままに詠んでいる”場合と、“心情を歌に詠み込んでいる”場合の二つに分けられる。前者の方は、「中空」という語が単に「空」としての意味を果たし、季節(特に秋)の情景や、月について等を和歌に詠んでいる。それに対し、後者は単にそれだけではない、含みのある使われ方がなされており、「雲」や「煙」などが詠まれ、「心の日かげ」・「ものおもひ」・「むなしき夢」・「かたぶきてゆく」・「ただよひて」、そして「身は浮雲」の如く、たよりなく、はかなげ、といった具合に、辛い心情や物憂げな気持ちを「中空」という語に託している。
香川景樹の『中空日記』本文を締めくくっている、「なほ夢路は中空にそたとるへき」という一つの文句が非常に印象深いのは、酷なまでの反対勢力の景樹批判に遇い、江戸歌壇制覇の望みも叶うことなく、失意のうちに江戸を発つこととなった景樹の心情が、この文句に凝縮されているからではないだろうか。

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