奈良女子大学学術情報センター
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須 磨 記 本文 付翻刻 行程
 

「須磨記」の偽書性について


 『須磨記』は「菅家須磨記」(カンケスマノキ)と呼ばれることが多いが、「菅丞相須磨記」、「菅相烝須磨之記」、「聖廟御記須磨記」、「菅家御記」、「須磨の記」、「須磨道記」、「菅丞相須磨之記」、「菅相公須磨之記」、「須磨記菅家」、「菅家須磨乃記」などを外題や内題にした本もある。
 『須磨記』は、こうした外題や内題からも分かるように、「菅相公」つまり菅原道真の記であるとされている。今回参考にした早稲田大学附属図書館蔵の写本『須磨記』奥書にも
   此書者菅神御記也読者盥漱而可拝見也
と記されており『須磨記』が菅原道真によって書かれているかのように扱っている。しかしながら、本居宣長が『玉勝間』二の巻(筑摩書房「本居宣長全集」巻一)において、
 菅原大臣の書き給へりといふ、須磨の記といふ物などは、やゝよにひろごりて、たれもまことと思ひためる、これはたいみしき偽書なるをや、かゝるたぐひ数しらずおほし、なずらへて心すべし、
と述べるように、『須磨記』は菅原道真に仮託して書かれた書にすぎず、著者は未詳である。では『須磨記』の偽書性はどのような点に見ることが出来るだろうか。

『須磨記』において、道真は京を延喜元(九〇一)年一月二十日(二月十二日)に立ち、淀、河尻(尼崎市)を経て、さたの庄(守口市)で「ひるのかれゐ」をとり、武庫の浦(尼崎市)で宿泊したとしている。そして翌日に須磨の関(詳細は不明。須磨区関守町関守稲荷のことか)や須磨の浦に到着したと述べている。このように道真が辿った行程については、須磨の浦にたどり着くまでの二日間を中心に描いている。
 それ以降の行程については『須磨記』からは分からないが、道真が大宰府に至るまでの行程には二種の伝がある。
 一つは、京より淀に出て道明寺(藤井寺市)にいる伯母の覚寿尼を訪ねて暇乞いをした後に、難波より舟行して、須磨・明石を通り、淡路の西浦に至り、そして更に讃岐の海を西行し、鞆(広島県福山市)、宮市(山口県坊府市)を経た上で博多津に到着したというもの。 いま一つは、菅原道真が祀られている神社を順に行ったとする説である。この説によると、明石の綱曳天神(休み天神・兵庫県明石市大蔵天神町)、播磨の曾根天神(伊保荘天神《曾根天満神社》・兵庫県高砂市)、尾道の御袖天神(御袖天満宮・広島県尾道市)、防府の松崎神社(松崎神社・山口県佐波郡坊府町宮市)、伊予の綱敷天神(綱敷天満神社・愛媛県越智郡桜井町桜井)、豊前の浜宮天神、博多の綱敷天神(綱敷神社・福岡県築上郡椎田町高塚)を経たものとされている。別に、讃岐において道真の旧知が流されていく彼に会いに行ったという口碑が伝えられる。
 二説に共通して道真が須磨を通ったとするが、この二説は絵解き講釈や伝説・口碑が伝えるものであり確かなものとはいえない。
 むしろ、光源氏の須磨流謫を描く『源氏物語』「須磨」巻に道真配流の影響が見られることから、逆に『須磨記』は『源氏物語』「須磨」の巻を意識して書かれたものと考えられる。つまり『須磨記』は、伝説だけによって道真・左遷・須磨という設定で書かれたのではなく、『源氏物語』を意識した結果、この設定が用いられたと考えられるのである。 河海抄「料簡」は『源氏物語』執筆の由来としてある伝説を紹介している。
西宮左大臣源高明が太宰の権帥に左遷させられたという、いわゆる安和の変(九六九)に関するその伝説とはつぎのようなものである。
 紫式部が高明の左遷を嘆いていたころ、大斎院選子内親王から面白い物語が読みたいという依頼が彰子にあった。その依頼を受けた紫式部は、旧来の物語ではつまらないだろうということで新しく物語を書くことにした。石山寺に参籠し琵琶湖の水面にに映る月影を見ながら、須磨の巻の「今宵は十五夜なりけり」のくだりから筆を起したという。その須磨の光源氏については、「光源氏を左大臣になぞらへ、紫の上を式部が身によそへ周公旦、白居易のいにしへを考え、在納言・菅丞相のためしを引きて書き出だしけるなるべし」とある。(平成元年 新間一美「須磨の光源氏と漢詩文浮雲、日月を蔽ふ」より引用)これはあくまでも伝説にすぎないが、具体的にも『源氏物語』の中に菅原道真の影響が見られる箇所を指摘することができる。
 月いと明かうさし入りて、はかなき旅の御座所は、奥まで隈なし。床の上に夜深き空も見ゆ。入りかたの月かげ、すごく見ゆるに、「ただこれ西に行くなり」と、ひとりごちたまひて、いづかたの雲路にわれもまよひなむ月の見ゆらむこともはづかし
                   (新潮日本古典集成「源氏物語二」)
ここで光源氏のいった「ただこれ西に行くなり」とは、菅原道真の「代月答」という詩に拠るものである。
  代月答
   冥発桂香半且円 三千世界一周天
   天廻玄鑑雲将霽 唯是西行不左遷
 光源氏が結句の「唯是西行不左遷」を誦したのは、自分は道真のように都から追われた身であるが、それと同時に道真のように潔白の身であることに違いはない、というような意を込めたかったためであろう。
また、『須磨記』が道真の手によって書かれたとするには矛盾の生じる箇所がある。
『菅家文草』の「叙意一百韻」で、
老僕長扶杖 老いたる僕は長に杖に扶けらる(日本古典文学大系「菅家文草・菅家後集」)とある「老僕」つまり「老いたる僕」について、大系頭注には、ではつぎのように記 されている。
伝説によると、味酒安行という者が京より随行し、道真の死後五十余年で他界した。晩年白髪白髯の人だったので、白太夫と称し、今も大宰府の末社に祀られる。しかしこれは白女(しろめ)とかいう類の一種の長寿者伝説で、道真の悲劇のしょうがいを講釈して語り歩くものがあったのかもわからない。

ここで述べられる、「白大夫」の伝説は、中世以降の伝説である。ところが、『須磨記』(六丁・オ)ではこの「白太夫のぬし」が登場する。「白太夫のぬし」の存在は中世的かつ近世的な道真像を示しているのである。
 さらに『須磨記』に記された、
 君か住宿の木すゑをゆくゆくとかくるゝまてにかへりみしはや(十丁・オ)
という歌に注目してみよう。この和歌は、拾遺和歌集巻六・「別」の巻に収められている。「別」をテーマに詠まれていることからも、これは、『須磨記』の中で詠まれるのにふさわしい歌であるといえる。しかし、新日本古典文学大系「拾遺和歌集」の注で、昌泰四年(九〇一)、菅原道真が太宰権帥として配所に赴いた時、現地から京都に残した妻のもとに贈って寄こした歌とされているように、テーマとしては、似つかわしい歌ではあるが、それは須磨への途上で詠まれた歌ではなく、時間的な面で矛盾が生じている。

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