基忠と彼の息子、そして覚円

 『験記』の序文によれば、基忠と彼の息子は「敬神の志、懇切の余り、結縁の為、他筆を交うべからずの由、約諾せらる所也」(注)とある。
 藤原氏の氏神である春日明神は、中臣氏やあるいは藤原氏以外の人間に仕えられることを好まなかった。さらに春日の祭儀に対する全体の責任を負っていたのは、藤原一門の長だった。そのため氏長者(『験記』が奉納された時は冬平、以前は基忠)の了解と参加が、おそらく不可欠のものだったはずである。冬基の参加は後から続いた。 

 良信の役目は少ししか明らかにされていない。良信は冬基より年上であるが、しかし僧であった。それゆえ、兄弟達と必ずしも同じ身分にいたというわけではない。実際彼の役目は、彼の独特の位置を反映しているかもしれない。良信は、巻17と巻18を書いた。それは明恵上人に関する部分であるが、それは、ちょうど『春日御流記』(後述)から欠けている詞書の段である。いずれにせよ永島氏(注)は、良信が慈信や範憲、慈信の甥の尋覚(彼は当時興福寺別当だった)らと興福寺で勢力争いをしていたと指摘した。おそらく良信は、自らの名を挙げる機会を喜んだだろう。

 覚円(『験記』の詞書を編集することを正式に委ねられた学僧)は公衡の弟であった。興福寺で彼は東北院の院主であったが、それは、良信が門跡をつとめていた、勢力の強い一乗院の子院となっていた。覚円は決して身分が低いわけではなかったが、ことによるとその仕事に対して総て任せられるほど十分な高い地位ではなかったかもしれない。永島氏が述べたように(注)興福寺でのすべての主要な派閥がその企画を代表するべく、全山一致で努力することは重要だった。従って覚円は、三蔵院範憲だけでなく、一乗院の最大のライバルである大乗院慈信とも相談したのである。

『験記』につながる可能性のある先行文献