『験記』につながる可能性のある先行文献
『験記』についてのすべての論者は、この作品の編集の速さを考えると、何種類かの春日の霊験譚の収集は既にあったに違いないということで意見が一致していた。
近藤氏(注)は、特にこの点を主張した。あらゆる種類の話の集りは、その時に知られており、そして『山王霊験記』という例が既に挙られている。
さらに『大乗院寺社雑事記』(康正3[1457]年3月12日についてのもの、永島[注]によって論じられた)の記事から判断すると、一般に有名な『玄奘三蔵絵』ができるまでの本格的な先行文献は、既に信円(1153―1224)の時から存在していた。
春日大社はまだ、『験記』よりさらに古い神社の歴史の記述を所有している。そしてこれらには、『験記』に見られる資料が含まれている。そのことに関する具体的も証拠はある 。
最も早い春日の話の収集についての言及は、狛近真(1177―1242)によって書かれた『教訓抄』(1233)の巻7にある。(ZGR[続群書類聚]:179―80)
『験記』巻6第1段で述べられている話に関して近真は、それが解脱上人によって収集された『御社験記』(注)(「神社の霊験の記録」)の作品と考えた。
『英俊御聞書』もまた、この作品に言及している。「於篇目者、…於笠置上人之旧記、或尋都鄙諸家之甄録、所類聚也」(注)と。『験記』の内容は、解脱上人の記録がまさにその作品の土台を形作るようになったのだ、ということを示している。この問題は、5章の「解脱上人と『験記』と釈迦」で論じられている。
春日若宮の神主、中臣祐賢の日記には、三つの関連のある記事が入っている。
永島(1963:19)は、それらを見やすいかたちで述べた。
(1)文永6年4月20日(1269、永島は誤って文永4年4月20日と引用した)祐賢は、一乗院信昭(1247―86)が彼を呼んで、神社の歴史について尋ねたと記している。信昭はその時、春日に参籠していた。祐賢ができ得る限り答えた時、信昭は彼に細かい質問をした。そして信昭は祐賢に、自分に、書かれた文書類を提出するよう命じた。
(2)文永12(1275)年1月4日祐賢は、その時、興福寺別当一乗院信昭の所へ年賀の挨拶をしに行った。信昭は言った、「大明神厳(験カ)記定有覧、可進之由被仰出之」(注)と。祐賢は、そうするつもりだと言った。
(3)同じ年の8月17日(現在は建治元年と呼ばれる)祐賢は、信昭に請われるままに「当社旧記」を送ったと記した。
信昭の(春日大明神の縁起に対する)関心への強いこだわりに言及して、永島氏は、彼の家門的背景に一因ありとした。信昭の祖父である近衛家実は、明恵上人と明恵が自分の寺である高山寺に建立した春日社に深く帰依していた。信昭の父、兼経も又高山寺の春日社に対して熱心な信者であった。その上さらに、祐賢が日記を書いていた頃は、蒙古襲来に対する恐怖が両春日社への朝廷の関心をより高めていた時代であった。
信昭は、おそらく祐賢が興福寺の学僧たちと相談して集めたであろう幾種類もの験記の撰集を志したと、永島氏は判断しており(注)、祐賢と仲間が、解脱上人によって作られた旧記を調べることもしたであろう、と付け加えている。この結果として出来た作品は、覚円の役に立つものとなった。というのも、後になって彼が、『験記』巻19第1段と巻20第1段の話を付け加えることになったからである。このことが正しければ、その時巻17第1段から巻18第4段(「明恵上人が事」)の話は、古い験記に含まれていず、『験記』として特別に編纂されたに違いない。これらの異常な出来事についての、長くて詳細な記述はずっと以前から既に存在していたので、よく知られていたから(後につづく巻18第4段の論を参照)、それらは完成作品に入れる必要があつた。
勿論、以上のことはすべて推論である。もし、『春日御流記』、あるいは高橋貞一氏によって説明された写本(注)が、験記の底本であると認めないならば、どのようなものも「原『験記』」として確信を持つことは出来ない。
『春日御流記』(原本は興福寺所蔵)は、巻17と巻18に相当する話が欠如していることを除けば、確かに『験記』の本文にかなり近い。近藤氏(注)は、ずっと以前に編集された複数の文献を指摘して、『春日御流記』は『験記』が最も直接に基盤とした作品に違いないと示唆した。
高橋氏は、論文で、彼自身が発見した写本が同じ役割を果たすものだとした。そしてその写本は室町後期よりも遅くない頃のものであると時代をつきとめている。それは、『漸入仏道集』(仏道へのゆるやかな入門集)という興味深い題を持っている。写本とその重要性についての高橋氏の論は、彼は『春日御流記』について何も知らなかったように思われるが、『春日御流記』に関して触れなかったことによって存在が希薄になっている。とにかく彼の『漸入仏道集』についての全報告は、彼が列挙した、『漸入仏道集』と『験記』詞書との間にある不一致部分も含めて、題名は違うが、『漸入仏道集』が『春日御流記』の写しに他ならないことを暗示している。不運にも、高橋氏の写本の出版本(『仏教文学研究』2集1964年3月)は、今ではほとんど見ることが出来ない 。宮氏もまた(注)、それを見たことはないと記した。差し当たって、『漸入仏道集』は『春日御流記』であると推測するしかなく、それ以上、その件について何も言うことはできない。
『春日御流記』と『験記』詞書との詳しい比較により、数多くの小さな不一致が明らかになるが、その意義は、『春日御流記』が、全てを信頼することが出来ないであろう写本の状態でしか発表されていないために、解りにくくなっている。最も明白な違いの一つは、(巻17と巻18のことはさておき)『験記』巻3第3段に該当する部分にあるように、『春日御流記』は祐房と行尊について語っているが、『験記』では、信経と増誉という名に修正されていることである。近藤氏にとって(注)、これは『春日御流記』が『験記』詞書の先行文書であることを何よりも証明していることになる。
しかしながら、前述のことがたとえ本当だとしても、その考えはそれほど興味あることとは思えない。『験記』巻20第1段に対応する草稿を含んだ現在の形態に於いて、『春日御流記』は1304年末より前の時期の作品であるはずがない。『験記』全体が計画される前に、それが書かれる必要があっただろうか。
その上、『験記』の主要な編者である覚円は、今日我々が『春日御流記』として知っている本の写しを(験記に)取り上げる以上のことを何もしていないならば、彼が序文で話題にされる値打ちは全くなかったはずだ。そして比較的最近のことだが、とにかく『英俊御聞書』は別のことを提示している 。 近藤氏(注)は、『春日御流記』は、この本で論じているものとは違い、全面絵入りの験記の詞書であったと主張した。言い換えれば彼は(部分的に『山王霊験記』と、その継承者の類推に基づいて)、二つの完全な『春日験記』が、1304年から1309年の間に作られたと提唱した。これは、全く疑わしい。もし、『春日御流記』が本当に『験記』よりも前のものであるならば、それは、単に、『験記』本の先行した下書でしかないということもありうる。結局のところ『春日験記』は一つしかなかったはずだ。
しかしながら、永島氏(注)は、彼の論文で、『春日御流記』は『験記』よりも後に書かれたものと考えた。
その論争に決着をつけるのは難しい。
さて一方、近藤氏(注)は、『験記』の先行文献に関する別の証拠を提示した。これは彼が、金沢文庫で見付けた『春日権現験記抄』と表題のついた一通の文書であった 。その文書は主に『験記』巻1第5段と巻4第5段に相応する、かなりバラバラになった書き付けを含んでいる。近藤氏は、金沢にある称名寺の二世長老である釼阿(1263〜1338)か、少なくとも彼と同世代の者の執筆によるものと推測した。彼は、これらの記述は、『春日御流記』そのもの、あるいは、『春日御流記』の基となったものによって構成された文書から採られたものであると結論付けている。
しかしながら、『春日権現験記抄』は、必ずしも正確でなく、少なくとも、『験記』の詞書についての知識を耳にしたことから走り書きしたメモのようである。もしこれが『験記』又は、『春日御流記』の編集者たちが、仕事に使わなくてはならなかった題材の一種であるならば、彼らは才能ある作家たちだというほかない。近藤氏は、その考えを提案する際、「御社験記」についての言及をしている『教訓抄』の記載事項や、祐賢の日記からの資料に、まったく触れていない…見て見ぬふりをしていたようにも思える…ことを、我々は、考えに入れておくと良いかもしれない。これらの手抜きは、彼の立場を強めることにはならない。
験記の幹本