『験記』の幹本
予想されることだが、『験記』の絵を描いた隆兼は、最後の場面を仕上げる前に全場面の大略(「中書き」)を用意した。このことは、貞成親王(後花園天皇皇子)の日記である『看聞御記』に、永享10(1438)年2月27日の項で言及されている。(『続群書類従』521、永島氏の論文に引用されている(注))
抑鳴滝殿御絵春日御縁起中書一合廿巻。借給。拝見殊勝也。件御絵萩原殿御物也。往昔伏見殿暫被預申。再会不思議也。此絵正本春日社被奉納。(中略)絵所預隆兼書之。名筆也。竹内左大臣依立願新調。春日社被奉納。其中書也。隆兼同筆。萩原殿御相伝歟。仍鳴滝殿被預申也。(注)
この中書きが、詞書を含んでいたかどうかは明らかではない。現代では知られていないが、恐らくまだどこかに在るだろう。
その後数世紀間の『験記』
いったん神社に奉納されると、『験記』はそこで手厚く保管された。神社は今でも『験記』を広げるべき特別な漆塗りの台を所有しているが 、作品はめったに見ることは出来なかった。もし、興福寺で頼めば、東北院に限られたようだが見ることは出来たようだ(『大乗院寺社雑事記』の延徳2(1490)年8月1日条)。
その上、近衛基煕の元禄14(1701)年4月27日付けの日記(1917年和田氏(注)より引用)や、春日神社社司の光知の、宝暦10(1760)年の日記によれば(1983年の大東氏の論文(注)より引用)、神社の神官も興福寺の僧侶も、40歳以上でない者は、誰もそれを見ることは許されなかったとある。高位の神官であった光知でさえ、彼が41歳になるまでそれを見ることを要求しなかった。
しかしながら、例外もあった。『大乗院寺社雑事記』の中に丁度例証されているが、尋尊は、『験記』が、京都で後土御門天皇が御覧になってから戻ってきて、現在では東北院にあることを記述している。彼は引き続きこう書く。
仍自寺務内々御拝見所望之由、被仰遣東北院之処、明日ハ良家衆可拝見之由、明夕可進上之、明後日ハ可奉納 社頭云々、社頭外ハ東北院ニ出申、其外ハ先例雖不覚悟、自寺務仰間可進上云々、(注)
『験記』は永島氏(注)が記録したように、4回京都に運ばれたことが知られている。また、近年大東氏(注)は、『験記』が1725年に江戸城へ運ばれたことを付け加えた。応永年間(1394〜1428)の初め、足利義満が絵合(「絵の比べ合い」)に『験記』を取り寄せた。以後、『験記』は3回御所に運ばれている。:延徳2(1490)年7月、享禄2(1529)年3月、元禄14(1701)年4月。永島氏は(注)、三条西実隆の日記に記載されている延徳2年7月22日の記事に基づいて、1490年の朝廷の様子を以下のように述べた 。
その日、帝(後土御門)は、黒戸の御所へ赴いた。三条西実隆と中御門宣胤は詞書を読んだ。―宣胤は11巻、12巻、13巻を、実隆は残りを。出席者は皆深く感動した。その義務を果たすため、実隆はその前日、断食し、行水をしていた。
1529年、『験記』が、後奈良天皇が御覧になるため、京都へ運ばれた時、『験記』は注意深く扱われ、厳重に守られた。享禄2年2月29日に『験記』は奈良から運ばれた。『験記』が奈良に戻った4月12日に、一乗院からの代表が宇治まで迎えに来た(永島氏(注)、『御湯殿上日記』続群書類従巻三補遺を注記なしで引用する )。
以上のように、『験記』は朝廷によって、単なる宝物としてではなく、春日の神がそこに存在する、聖なる物として扱われたのである。
しかし、一方、江戸への運搬は、それに比べて厳重ではなかったようだ。『験記』は春日社の氏人二人によって江戸への往復がなされ、将軍の管理の下、5ヶ月間江戸にあった。当然、『験記』は大変丁寧に扱われ、多くの人々が熱心に見た。しかし、江戸では、『験記』とそれを見た人々との出会いは、京都でのそれと比べ、それほど印象的ではない。
18世紀の後半に、『験記』にとって不運な、投げやりに扱われた時期が始まったようである。宮氏(注)は、安永年間(1772〜1780)頃、『験記』が、どのようにして春日社の置き場所から、明らかに移されたかを検討した。
その状況は謎に満ちている。東京国立博物館蔵の、『験記』の模本に付け加えてある記録(その記録には弘化2(1848)年と書かれている)によると、京都の主要な上級官人だった観修寺経逸は、伝えられるところでは、ある商家から入手したらしいが、『験記』を京都に住む個人が所有していると知り、驚いた。経逸が春日社に問い合わせると、『験記』は本当に無いという。
幸運にも、経逸が、『験記』を完全に取り戻した時、彼は『験記』を関白鷹司政煕に委ねた。政煕は、二度と盗まれないようにという厳命と共に、『験記』を春日社へ返した。
一方で、大東延和氏は(注)、この記録の内容が正確ではないかもしれないという証拠を見い出している。
実際に何が起こったにせよ、18世紀後半の『験記』は少し投げやりに取り扱われていた。
『験記』の尊厳の衰えは、同じ時期の春日社や、特に興福寺の衰えに対応しているといえよう。
やがて、『験記』は鷹司家へ戻ったが、明治8(1875)年に皇室へ献上された(宮氏(注))。今日に至るまで、『験記』は皇室の所有物であり、現在は、14世紀におけるよりも、見るのに困難がともなう。
『験記』に関する知識の広がり