国立大学法人 奈良女子大学
日本アジア言語文化学

日アの本

日本アジア言語文化学会員の著書・編著を、刊行年月順に紹介しています。なお、価格はすべて税別で表示しています。

2015年  2014年  2013年  2012年  2011年

【2015年】

▼ 木村小夜 著『太宰治の虚構』

木村小夜(福井県立大学教授、本学元助手、平成2年度博士課程単位取得満期退学・平成6年博士号取得)

作品を〈読み解く〉ということの手応えと面白さを具体的に知ったのは、太宰治『新釈諸国噺』について原典との比較を順に行い、その翻案の手法に緻密な構築性が見出せた時だった。以来、作品論は私にとって今なお可能性を秘めた方法であり続けている。その大部分を前著『太宰治翻案作品論』(和泉書院、2001.2)にいったんまとめ、引き続き翻案作品について考えていたが、他方で、実験的手法による難解な初期作品なども依頼原稿のお題として与えて頂いていた。

そのおかげもあって、本書には、前著から積み残していた『新釈諸国噺』三編の他、初期の「魚服記」「めくら草紙」「雌に就いて」・いわゆる女性独白体の「葉桜と魔笛」「誰も知らぬ」・翻案作品として「清貧譚」「駈込み訴へ」「右大臣実朝」・最晩年の「人間失格」、書簡体を駆使した作品群、同時代の西鶴受容をめぐる論考を収めることとなった。昨今の研究の趨勢に多少感化され、同時代読者の投稿や新たに発見した素材とのつき合わせも行ったが、こうした手続きも作品を〈読み解く〉段階を経てこそ生かせるもの、と考えている。

言葉とその送り手・受け手の関係に自覚的であればあるほど、言葉は現実と虚構の境界を相対化していく、という発想が太宰作品の根底にはある。告白的回想の語りや手記、変則的な行き交い方をする書簡、伝奇性濃い素材や歴史的人物をめぐる物語の受容・翻案。そしてその過剰な語りと読者への逆説性に充ちた挑発――太宰作品に特徴的なこれらの方法や表現が採用された必然性を、言葉が本質的にもつ虚構と現実のせめぎ合いや越境・反転といった性格を鍵として、作品論の立場から解明することを本書では試みた。

いったん活字にしたものには、必ず不満な点が残る。今回一冊とするために、全稿を大幅に書き直しつつ、改めて太宰研究全体と自説を合わせて俯瞰する必要に迫られた。根が怠惰な私にこうした機会を与えてくれたのは勤務校のサバティカルと出版助成の制度で、恵まれた今の環境に感謝している。

《和泉書院、2015年2月、296頁、4800円+税》

▼ 鈴木広光 著『日本語活字印刷史』

鈴木広光(本学教授)

私が印刷史の領域に足を踏み入れ、最初の論文を発表したのは1994年のことである。その頃、この領域はとてもマイナーだった。今もそうである。印刷が人類の文化に果たしてきた役割や影響 ―これには功罪両面がある― は誰しも認めるところなのに、なぜアカデミックの方面に研究者がほとんどいないのか不思議だ。この二十年間、小宮山博史さん、府川充男さんら在野で日本語の活字書体史研究をリードしてきた方々と『本と活字の歴史事典』『日本の近代活字』『活字印刷の文化史』といった本を作って、分野の活性化を図ってきた。この試みに対してはそれなりの評価を得たけれども、印刷史は相変わらずマイナーなままだ。

私たちは多くの新しい資料の発掘によって、それまでの印刷史の記述を随分書き換えてきた。実証面で飛躍的に進展させたという自負はある。けれども、他の領域に必ずしも大きなインパクトを与えられなかったのは、技術、デザイン、歴史、言語、文学など多方面の領域を架橋するような、言語文化に対する視座や領域統合の方法がまだ提示できていなかったからだと反省もした。今回、一書にまとめるにあたって最も意識したのは、そのことだった。生煮えの議論や強引な論の展開があることも自覚しているが、とにかくある一つの視座を貫徹したかったというのが正直なところだ。ちょっと値段が高いのが難点だけれど、是非とも手に取って、こんなに魅力的な研究領域があることを知っていただければ幸いである。(自分の単著だとこんなに真剣に宣伝するのかと、我ながら驚いてしまったのでした。)

《名古屋大学出版会、2015年2月、358頁、5800円+税》

▼ 木村紀子 著『「食いもの」の神語り―言葉が伝える太古の列島食―』

木村紀子(奈良大学名誉教授、昭和40年度卒業)

生あるものは、限られたいのちをつなぐために、日々何かを「食い」続けていなければならない。原始的な社会ほど、人々の関心と時間は、いかにして日々の「食」を得るかに多くがついやされていたはずである。しかし、記紀・万葉・風土記等の本邦初期文献には、必ずしもそうした実態を知るに、十分な記述があるわけではない。

本書は、それら初期文献からわずかに拾える「食」に関わる言葉や記述を綴り合わせ、それら文献時代を遡って、この列島に生きていた太古の人々の「食いもの」への思いを探り、そこにあった言葉と原初の実体を整理する試みである。以下「目次」を簡略に掲出することで、その具体的な内容の紹介としたい。

《角川選書、2015年1月、203頁、税込1836円》

【2014年】

▼ 奥野陽子 著『新宮撰歌合全釈』

奥野陽子(大阪工業大学教授・ 昭和50年度大学院文学研究科国文学専攻修了・文学修士)

後鳥羽院の勅撰和歌集親撰の企ては、正治2年の二度の応制百首から、具体的になる。院が定家の才能を見出したのもこの時である。本書で全釈を施し、解説を付けた『新宮撰歌合』は、建仁元年3月29日、二条殿御所釣殿で催された、中島にある新宮社への奉納歌合である。新古今編纂のための和歌所が二条殿内に設けられたのは、同年7月。和歌所設置直前の、新古今撰集の主要メンバーが揃う三十六番の大規模な撰歌合であり、九首が『新古今集』に入集した、などの点で、重要な歌合である。「隠名、褒貶」という緊張の中でこの歌合は行われた。成立過程が定家の『明月記』に詳しく記録されている点も、注釈の興味をそそった。定家は執筆を勤め、院に歌を絶賛され、緊張しつつも大感激している。「霞隔遠樹」を初めとする十の結題は大方が初出、歌人の苦心が見える。難陳に対する俊成判の老練さも見所である。

ここ数年、宇多院関係の初期歌合を読む機会がある。新古今時代の歌合との違いを実感して驚く。言葉の世界を対象的に扱うことができるようになった喜びにだろうか、「をみなへし」でも「をむなてし」でも可、和やかな笑声が聞えてきそうな歌合で、『古今集』から『新古今集』への和歌史のおのずからの展開が思われる。私にはどちらの歌合も面白い。もうじき仕事を辞めるのに面白いものがいろいろ出て来るのはある意味で困ったことだが、或いは喜ぶべきことなのだろうか。

《風間書房(歌合・定数歌全釈叢書19)、2014年6月、214頁、6000円》

▼ 高岡尚子 編『恋をする、とはどういうことか? ―ジェンダーから考えることばと文学―』

鈴木広光(本学教授)

「性同一性障害」という語を聞くたびに、私は違和感を抱く。性が心と体で一致しないことを悩む人々のことが社会的にきちんと認知されたことは、たしかに以前と比べて少しはましになったといえる。けれども、性が女と男の二種類に明確に分かれていて、それが心と体で一致しているのが正常という通念、そしてそれを前提にした物言いにはやっぱり問題があると思う。生物学的見地からもそれは誤っている。ことば(それがたとえ新語であっても)には、ジェンダーに関わる抜きがたい通念や因習がまとわりついているように思える。

文学部言語文化学科が「ジェンダー言語文化学プロジェクト」を立ち上げて、そろそろ十年になる。ことばや文学を突き詰めて考えようとするとき、「ジェンダー」という視点は有効なだけでなく不可欠だ。そのような問題意識から、学科ではジェンダー言語文化学の概論、演習、特殊研究を開講し、シンポジウムを開催し、年報に毎年、活動報告をしてきた。『恋をする、とはどういうことか』というちょっと見、恋愛指南書のような素敵なタイトルのこの本は、プロジェクトを引っ張ってきたフランス文学の岡尚子教授の発案、計画のもと、言語文化学科の有志の教員が集まって作られた。

第一部「「ジェンダー」について考える」は、岡教授によるジェンダー言語文化学の概論、第二部「「ジェンダー」を読む」は有志教員による読み物で、西洋の神話・伝承物語から、近現代の恋愛・ロマンス小説、日本の短歌や中国の恋愛映画まで、「恋とジェンダー」をテーマに各国文化と文学の読み方を提案している。日アのスタッフは、「中国の足をめぐるエロティシズムとフェミニズム」(野村鮎子)、「誰が恋をしているのか―和歌・ことば・主体」(岡ア真紀子)、「自分の恋を語り、書くことをめぐる闘争」(鈴木)を担当。

この本をタイトルに決めたのは、岡教授がジェンダー言語文化学概論の授業題目としてシラバスに書いたところ、勘違いした学生が沢山いて受講者数が多かったことによる。冒頭に書いたような通念を日頃から疑わない人たちが、この本のタイトルに惹かれて手に取り、中身とのギャップに驚いてくれたら愉快だな、とそんな想いが込められている。

《ひつじ書房、2014年4月、207頁、1800円》

▼ 鈴木広光 著『「徒然草」ゼミナール』(まほろば叢書)

鈴木広光(本学教授)

日本古典文学大系や全集には、ふつう校訂本文のほかに校異が示されている。私の学生時代からそうだが、演習では、その校異を資料に書き写したり、当該箇所の読解に参照したりということはあったけれども、なぜ諸本でそのように語句や文に違いがあるのか、その表現の違いが本文の読みにどう影響するのかを正面に据えて考えることがほとんどなかった。

多くの日本の古典と同じく、徒然草も兼好自筆本なるものは現存しない。現在出版物として提供される本文の底本になっているのは、江戸時代以来「流布本」としてよく知られてきた「烏丸本」か、現存最古の写本として知られる「正徹本」である。これら二つの伝本を比べると、たとえば枕草子などの諸伝本ほど大きな違いはないが、それでも語句や表現が異なる箇所は非常に多い。けれども、その語句の異同は校訂本文を作成したり、徒然草の本文系統をさぐるためのマテリアルとして使用されてきたにすぎない。本文の異同をつまみ食い的に利用するのでなく、諸本それぞれの表現の違いに即して読み込みながら、語り方の違いを復元していくべきでないか。表現のしかたが諸本によって異なるということは、実は言わんとすることが異なるということだ。このような視点からは、「『徒然草』にはこう書かれている」、「兼好はこう主張している」という言説は相対化されることになるだろう。

この本は、平成23・24年度に鈴木が開講した学部向けの授業「国語学演習」に参加した学生たちによるレポートのうち、諸本(主に「正徹本」と「烏丸本」)の表現の違いをもとに、本文の読みに関わる問題を論じたものを、先に述べたような問題意識のもとにまとめたものである。執筆者は、守田幸、福田さつき、山下瑠璃、田村美由紀、鈴木小春、瀬智美の六名。本学文学部のまほろば叢書の一冊として上梓するために、授業以外にも研究会を開いて検討を重ねた成果で、いずれも力作である。編者自ら言うのもなんだが、学部学生が書いたものとしてはかなりレベルの高いもので、単なる授業報告ではなく、ちゃんと読み物になっていると思う。

教員をやめるまでにあと何回、こんな演習ができるだろうか?

《かもがわ出版、2014年3月、112頁、1100円》

▼ 樋口百合子・藤田朱雀 著『万葉の四季―和歌を学び、書を楽しむ―』

樋口百合子(本学古代学学術研究センター協力研究員・平成23年博士号取得)

香道には、香木を〓(火+主)き出す香元と連衆の成績を記録する執筆の二つの役割がある。故に書の研鑽は欠かせない。筆者も香道を初めて数年経ってから、学生時代以来数十年ぶりに書を始めたが、稽古日のみ筆を持つ不心得者では一向に上達はしない。それでも師に勧められて展覧会に出かけることが多くなった。万葉歌が頻繁に書の題材に取り上げられていて、歓迎すべきなのであるが、作品に付せられた解説を見て「?」と思うことが度々あった。それが本書を書くきっかけと言えるであろうか。

古典和歌の世界―なかでも『万葉集』はなかなか入って行きにくい世界であるらしいが、わかりやすい歌を選ぶことを主眼とし、和歌の世界に親しむべく、丁寧な解説を試みた。

書は藤田朱雀氏の担当である。氏は国内外で書の個展を開催、日展作家、読売書法会理事などを勤める。和歌に合わせた模様のある料紙や、扇面、羽子板、短冊、帯などを用いている。さらに初心者向きに、懇切丁寧な書法の解説、巻末には変体仮名一覧、連綿体を付し、筆を取ればすぐに書けるように工夫されている。カラー頁も豊富で頁をめくるだけで楽しい。又四季の扉の篆刻は松本艸風氏の手による、味わいのある作品となっている。

本書をみて久しぶりに筆を持ちたくなったと言ってくださる方もいる。他に「大人の絵本、頁を繰るごとに穏やかになる」など過分な評も寄せられ望外の喜びである。

猶、10月29日から芦屋市谷崎潤一郎記念館で、本書の作品の展覧会を開催中である(12月7日まで)。実際に見れば作品の素晴らしさも一際理解できると思われるので、ぜひ足をお運びいただきたい。

《淡交社、2014年2月、127頁(一部カラー)、1944円税込》

(2014年11月稿。展示は終了しています。磯部補記)

▼ 関西中国女性史研究会 編『増補改訂版 中国女性史入門』

野村鮎子(本学教授)

野村鮎子が代表をつとめる関西中国女性史研究会が編纂した中国女性史の入門書。編集委員として本学会の大平幸代准教授や卒業生である東海学園大学の松尾肇子教授が、執筆者として四名の本学卒業生が参画している。

はじめて『中国女性史入門』を上梓したのは2005年。改革開放政策の中国で女性問題が一気に吹き出していた時期で、該書は順調に版を重ねた。しかし、その後、中国社会の変容は私たちの予想を超えるスピードで進展し、記述内容は現状にそぐわないものとなった。今回の改訂では、中国女性の歴史を「婚姻・生育」「教育」「女性解放」「労働」「身体」「文芸」「政治・ヒエラルキー」「信仰」という八つのテーマに分けて項目別に解説するという構成はそのままに、近年の新しい法律や制度、用語などを中心に改訂を行った。図版やデータ、研究案内も更新した。

《人文書院、2014年2月、230頁、2300円》

【2013年】

▼ 木村紀子 著『古事記 声語りの記(シルシ) 王朝公家の封印したかった古事(ふるごと)』

木村紀子(奈良大学名誉教授・昭和40年度卒業)

『古事記』と『日本書紀』は、ともに奈良時代、天武天皇の発意によって成った古代文献だとされている。ただし、『日本書紀』には、同書自体および『続日本紀』にそのことに関する記事があるのに対して、『古事記』の方は、古事記の序文に、天武天皇の勅語によった由のことが書かれてあるのみで、書紀・続紀といういわゆる正史には何ひとつ触れられるところがない。

ところで、両書共に天武天皇の発意によったとすると、天皇はなぜ神話時代以来の似たような「歴史書」を並行して作ろうとしたのかが、江戸時代以降疑問とされて来た。その議論の中で、古事記は後世の偽文ではないか、少なくとも序文は偽文ではないかといった説も複数の研究者によって主張されたりして来たのである。古事記が平安貴族にはほとんど読まれておらず、無視されていたらしいことも、疑念を増幅させていた。

けれども、古事記序文を丁寧に読めば、天武天皇は『古事記』という文書を作ろうとしたわけではなかったことがおぼろげに見えてくる。漢字文化渡来以前の日本列島において、古事記及び書紀の前半部に相当する、膨大な量の口頭伝承があったことは、疑う余地がない。おそらく天武天皇は、大陸・半島に対して、列島古来の確固たる国の存在を標榜できる、漢字漢文による正史『日本書紀』を作ろうとし、その一方で、古来の由緒正しい声による伝承世界も、稗田阿礼という存在を得て、残したいと考えたのだと思われる。だが、その試みは(天皇崩御によって)中途半端に終わった、と序文は述べている。しかしながら、阿礼の伝承の声は、天武の遺志をよく理解する三代後の元明天皇によって、太安万侶という書記者を得て、文字の記(しるし)とされ、そこではじめて『古事記』という文書が成立したのである。

本書は、そうした『古事記』成立の経緯の解明と共に、そもそも「声語り」による伝承とは、文字記録とどのように異なるものなのか、声に忠実に文字化することで、日本書紀が編纂過程で除外したどのような古事(ふるごと)を、古事記は記し残すことができたのか、またそれらのどの点が、平安公家の古事記を蔑ろにした理由(わけ)だったのか等について、種々の文献の文言から実証的に解明したものである。

『古事記』とは、宣長のいうような「ふるごとぶみ」ではなく、「ふるごと」を語り出すシルシとして書き取られたものだったのである。

《平凡社、2013年7月、208頁、3000円》

▼ 森本隆子 著『〈崇高〉と〈帝国〉の明治―夏目漱石論の射程―』

森本隆子(静岡大学准教授・昭和60年度修士課程修了)

「崇高」(サブライム)は、近代における〈風景の発見〉を導き出す機軸となった美意識である。アルプスに象徴される雄大で荒涼とした自然を前に、死の恐怖と紙一重に獲得されるスリリングな喜びは、自己超越を志向する倒錯的な観念の世界を形成し、明治という男性中心主義的な〈帝国〉を作り上げる快楽装置として機能する。

第一部「転倒の美意識〈崇高〉の力学圏―重昂・漱石・自然主義」は、志賀重昂『日本風景論』に、富士を頂く国土としての美的自然(ビューティフル)を、奇想としての自然(サブライム)に埋め込んでゆく反国家的なロマン主義の相貌を指摘し、この転倒的な美学の圏域を拡充していった自然主義文学の二つの典型として『破戒』(島崎藤村)、『野菊の墓』(伊藤左千夫)を論じたものである。「『破戒』の中の〈崇高〉」(第二章)では、北信州の雄大な山岳風景を背景に、出自の〈告白〉をめぐって展開される丑松の葛藤を、サブライムな自己超越への欲望のドラマとして読み解き、差別問題をめぐる社会と個人の対決を読みがちな従来の論に対して、負の現実を転倒させる観念の勝利の物語への読み換えを図った。「崇高の衰微」(第三章)では、そのようなサブライムな自己超越からの後退として『野菊の墓』を捉え、画のように美しい風景を額縁に綴られた男性一人称の閉じた語りに、秘匿された性的欲望を核に置くナルシスティックな観念世界、ひいては〈癒し〉としての文学が成立する契機を論じた。

第二部「異性愛と植民地―もう一つの漱石」では、〈崇高〉への意外なまでの親近性を示しながらも、これを文学的主題として中心化してゆく自然主義文学からは差異として析出されてくる漱石テクストを、ロマンチックラブを糸口に論じた。『門』『行人』他に、超越的な価値を志向しながら、同時に〈男/女〉の二項対立を過剰に強調することで、〈帝国〉のジェンダー編成に貢献するロマンチックラブを徹底的に相対化する批評意識を検証した。

第三部「近代資本主義の末裔たち―村上春樹とその前後」は、漱石において構造化されてくる〈異性愛―成熟―社会化〉の歪んだ図式が資本主義、ひいては高度消費社会の矛盾として顕在化してくる〈戦後〉の日本文学を、〈喪失〉という名の〈不適合感〉を武器に近代の限界に迫ろうとする村上春樹を中心に瞥見した。拙著の副題を「夏目漱石論の射程」と名づけた所以である。

《ひつじ書房(ひつじ研究叢書・文学編6)、2013年3月、264頁、5800円》

▼ 千本英史 編『「偽」なるものの「射程」―漢字文化圏の神仏とその周辺―』

千本英史(本学教授)

さきに、現代思潮新社から『日本古典偽書叢刊』全三巻(2004〜5年)を出してから、もう十年近く経った。この間、偽書という営為について、さまざまに考えてきた。それらをこのあたりでいったん纏めておきたいと考え、研究交流のある方々二十四人にお願いして、論文集としてまとめたのが、この本である。

あつかましくも冒頭に、私の「はしがき」と「序章」を置き、以下、第一章「東アジア諸国の「偽」の世界」、第二章「日本における「偽」なるものの展開」の二部構成とした。

第一章は論文八本とコラム一本で、本格的な論の展開を目指した。はじめに(厳密には東アジアとはいえないが)物語の基礎となる、インドについての「インド大乗仏教における偽書・擬託の問題―とくに龍樹の著作を中心にして」(五島清隆氏)、つづけて中国での展開を解説した「中国近代にとって「偽書」とは何か―「偽書」と「疑古」の二十世紀」(谷口洋氏)を置いた。これによって、インドでのありようが中国でどう展開したか、見取り図が明らかにされたと思う。さらに中国については「神々との対峙―伝李公麟筆「九歌図」は何を訴えたか」(楊暁捷氏)を置いて、絵の問題に論を拡げた。五島氏は私の大学院生時代に知り合うことができた先輩の仏教学者であり、谷口さんはいうまでもなく今の大学での同僚、そうして楊さんは大学院時代の学友である。多くの人に教えていただいて、自分のいまの文学の研究があるということをいまさらながらに痛感している。

続いてヴェトナムについての論文が三本並ぶ。この三本という数はちょっと誇っていいかと思う。ヴェトナムには何度も足を運んで、自分でも直接に文献調査もさせていただいているが、なかなか適当な文学史の本もなく、まして「偽書」についての概論など求むべくもない。そんな中で増尾伸一郎氏、グェン・ティ・オワイン氏、大西和彦氏といった、第一線の研究者に論じていただいたのは、ほんとうにありがたかった。

お一人ずつの名前をあげていては紙数がいくらあっても足りないので、以下は省略に従うけれど、第一章の最後には朝鮮・韓国についての論を配し、続けて第二章では、日本に焦点を絞って論じてもらった。こちらは論文は五本に留め、コラムを八本配して、多角的な検討を加えていただいたつもりである。

十年以上偽書を追いかけてきて、あらためて思うのは、偽書を学ぶということは、文学そのものを学ぶことそのものであるということだった。偽書は、いわゆる文学活動の鏡影なのだからあたりまえのことだけれど、何処の国に行っても、そのことを痛感させられることばかりだった。そうしてまた、東アジアという比較的近接した地域においてさえ、それぞれの国のそれぞれの時代の文学営為というものは、微妙にずれ、微妙に重なって、脳天気なブンガク研究の徒である私の予想をいつも裏切ってくれるのである。

《勉誠出版(アジア遊学161)、2013年3月、269頁、2500円》

▼ 樋口百合子 著『「歌枕名寄」伝本の研究』

樋口百合子(奈良女子大学古代学学術研究センター協力研究員・平成23年博士号取得)

修士課程を終えてから三十数年を経て、平成20年の10月に、博士後期課程の学生となった。修士論文では中世名所歌集『歌枕名寄』の写本を校合し、諸本の系統を取り扱った。流布本とした七写本中の最善本である宮内庁本は、校合資料として扱ったままで、いつか全巻を翻刻したいと思いつつ手付かずで三十年近く経ってしまった。博士課程に進学し、まずその作業にとりかかったのである。宮内庁本と陽明文庫本、そして新たに発見された冷泉家時雨亭文庫本の三本を翻刻し、資料編とした。総歌数は八千首を超えた。翻刻作業をしながら、かつて見逃していた成立情報や、改めて興味を抱いた万葉歌の朱の書入れ、冷泉家時雨亭文庫本の特異性などを論にまとめ、修士論文やそのほかの論文を加え論文編とし、資料編と併せて平成23年3月に博士論文として提出した。本書はこの博士論文をもととしたものである。博士論文をそのまま用いるのだからと安易に考えていたのだが、翻刻にしても、論文にしても改めてみると訂正したい箇所が多くあり、さらに校正の過程でも見直すべき箇所が出てきたりと、終わりなき作業が続いた。校正も索引作成もほぼ一人の作業であった。校正が出る度に、和泉書院にキャリーバッグを引きながら、通い続けた暗い道を、今も上六を通る毎に思い出す。しかし宮内庁本の翻刻作業をしながら、写真でしか見ることのできなかった高松宮本や陽明文庫本を実際に見ることができ、疑問を抱いていた箇所を明らかにすることができたのは大きな喜びである。博士課程では坂本信幸名誉教授・奥村和美准教授のご指導を受け、本書の上梓にあたっても数々のご助言をいただき、坂本先生には序文も頂いた。猶本書は日本学術振興会の平成24年度研究成果公開促進費の交付を受けた。

《和泉書院、2013年2月、684頁、23000円》

▼ 筧文生・野村鮎子 著『四庫提要宋代総集研究』

野村鮎子(本学教授)

『四庫全書総目提要』に著録される総集は、一百六十五種、九千九百四十七巻に及ぶ。その大半は、明代以降の書であるが、ここに宋代総集が三十四種含まれている。

本書は、この三十四種の宋代総集の提要についての研究書であり、また、これまでに上梓した『四庫提要北宋五十家研究』(汲古書院、2000年)と『四庫提要南宋五十家研究』(汲古書院、2006年)とをあわせた四庫提要宋代集部研究の最終章にあたる。

本書でいう宋代総集とは、宋代の文人によって編まれ、かつ宋代の詩文が収録篇中に含まれている詩文集を指す。筆者は宋代総集研究によって、編纂者の文学的志向や時代特有の文学観を考察することができるという見通しをもっている。しかし、従来の文学研究では、総集はせいぜいのところ宋代の詩派や文派の研究資料の一つとして扱われるに過ぎず、文学研究で脇役的な存在であったことは否めない。近年、中国では祝尚書氏の多年にわたる書誌的研究が『宋人総集叙録』(中華書局、2004年)として上梓されたが、日本においては宋代総集の文献学的な研究はあまり進んでいないのが現状である。既存の宋代文学史でも総集編纂の意義について言及したものは多くはない。

宋代の総集に特徴的ともいえるのは、編集テーマの多様化である。『会稽綴英総集』『天台集』『赤城集』『成都文類』などのように詩派や文派にかかわらず特定の地域をテーマとしたものや、『同文館唱和詩』『坡門酬唱集』のように文人の唱和詩を集めたもの、『古今歳時雑咏』や『声画集』のように詩の主題によって編纂したもの、『月泉吟社』のように詩のコンテストの入賞作を集めたものなど、一口に総集といっても多くのバリエーションが存在する。総集は、当時の人々や特定の詩派がどのような作品を精華と考えていたかという文学観を反映しており、宋人によるバラエティに富む総集の編纂は、文学観の多元化を意味していよう。

本書の各篇は、『提要』の原文、それに訓読、現代語訳、注、附記を加えた五つから成る。宋代総集の四庫全書本には版本上の問題が少なくないことから、附記には、和刻本や標点本の有無や善本の所蔵先といった個々の総集に関する基本情報のほか、調査の過程で得た版本上の問題や流伝についての新しい知見を記すように心がけた。日本における宋代総集の研究は緒についたばかりである。本書はその指針となろう。

《汲古書院、2013年1月、360頁、9000円》

【2012年】

▼ 竹田治美 著『宋代語録における副詞の研究』

竹田治美(奈良学園・奈良産業大学准教授・平成20年博士号取得)

大学院に入学して、日亜図書室に置かれた貴重な古典蔵書の多さに驚き、とりこになった。早速、興奮気味でその魅力を味わおうとしたが、その後、度々難しさで挫折に陥る。そこで入矢義高先生の手書きの『朱子語類口語語彙索引』に出会い、かつて、日本の漢語史研究はあらゆる分野中国より数段進んでいたことを初めて知った。特に近代の語彙・語法研究は、中国に大きな影響をもたらした。

言語は時代の流れとともに変化するのであるが、それにはさまざまな要因が考えられる。すなわち言語の内的な要因と外的な要因である。時代の変化の中、言語の変遷のプロセスには時代ごとの特徴があるが、単純に時代を割り切ることができないことも特徴である。

漢語語彙の発展過程や特徴、機能を明らかにすることは、漢語史の研究に大いに役立つものであると考え、しばらく中古時代の説話集に没頭した。そして第一歩として選んだのは古代副詞である。古代漢語の副詞は、他の品詞として用いられるなど複雑な品詞であり、数が多く、多様性を持っている。また、一般的に副詞と称されている語群は、意味や性質、状態、特徴によって分類方法が大きく異なり、学説も多岐にわたっている。

博士論文では宋学語録に着目したが、この大部の書を選んだのも無謀な挑戦だった。底本は宋学語録であるため、文言文と口語表現が同時に用いられ、儒教の経典、思想、哲学など広範囲の知識が必要とされるため、日々苦痛を感じながら作業を進めた。指導教官の野村鮎子教授は私に油断も隙も与えず、引っ張ってくださった。博士号を得ることができたのは、ひとえに先生のご指導の賜物である。

本書は、宋代語録合計一七五巻、副詞四三六種類を考察したものである。一つのジャンルの文体に限られ、全体的な特徴を敷衍できるとは言えないが、これが中国古代語彙史の「蒼海の一粟」にでもなれば幸いである。

《白帝社、2012年12月、294頁、4600円》

▼ 豊田恵子 著『三条西実隆』

豊田恵子(宮内庁書陵部図書課研究員・平成17年度博士後期課程単位取得退学)

三条西実隆(1455〜1537)は、室町期の公家であり、一流の文化人であった。後の御所伝授へと繋がる古今伝授を宗祇から授けられ、自身の息公条へと伝授する。また室町期を論ずる上で欠かせない、公家の日記として一級の資料である『実隆公記』を残しており、歴史上・文学史上でも重要な人物であった。しかし、一万首余り詠じられた和歌については、今まで詳細に論じられることはなかった。室町時代の和歌は論じる価値がないとされていたためである。確かに実隆は、平明温雅な歌風をよしとする二条派(つまり新味がないということ)に属していた。しかし、実際に一首の和歌を読み解いてみると、平明温雅の一言では言い尽くせない趣向が凝らされていることがわかる。本書では、今までなかなか精読されてこなかった実隆の和歌一首一首を丁寧に読むことで、実隆の歌人としての魅力を伝えることを重視した。いずれの和歌も、一筋縄ではいかない趣向が二重三重に施されており、ある種謎解きをするような面白味があった。そこには、決して詠みつくされた伝統のみにとらわれることなく、常に新しい和歌を詠もうとする挑戦的な歌人としての実隆の姿が立ち現われるのである。

なお、本書は、和歌文学会編集の、コレクション日本歌人選シリーズ全六十冊のうちの一冊である。本シリーズは一人の歌人の和歌を読解することに重きを置いている。歌人は万葉から近代に至るまで幅広く網羅されている。本書では、三条西実隆の和歌および狂歌を四十首取り上げた。一首につき、二頁ないし四頁を割いて、実隆の和歌の趣向の凝らしようや、一首の眼目を解き明かすように努めた。ご一読いただければ幸いである。

《笠間書院(コレクション日本歌人選)、2012年11月、124頁、1200円》

▼ 岡崎真紀子・千本英史・土方洋一・前田雅之 編著『高校生からの古典読本』

岡崎真紀子(本学准教授)

日々いろいろな文学と向き合っていると、自分がこれについて何か論じたとしても、テクスト自体が持っている圧倒的な言葉の力に比べれば、所詮ちっぽけな営みに過ぎないと感じることがある。とは言え、その力が一体いかなるものかを明らかにし、ときほぐして語ることこそが仕事なのだと思っている。

本書は、四人の古典文学研究者が、上代から近代までの文学のなかから作品の一節を選りすぐり、自分はこんなふうに読んだという解説を添えて、わかりやすくまとめた著である。『源氏物語』から僧侶の奇行を語る説話、そして北村透谷や文語体聖書に至るまで、さまざまな三六編を収めた。中学校や高等学校の教科書ではとりあげられないような文章も積極的に収録する方針をとっている。「古典読本」や「古典入門」などと銘打つ本は他にも多く刊行されているが、明治以降の文語体で書かれたものも採録の範疇とした点と、編著者それぞれの一癖(ひとくせ)ある目によって選んだ作品のラインナップは、他とは異なる本書の独自性と言っていいのではないだろうか。このような編集の姿勢は、ともすると前近代と近代を截然と区別しすぎるために文学史を図式的に捉えがちなものの見方や、学校教科書という一定のバイヤスがかかった観点はひとまず括弧に入れて、原文そのものを味わってほしいという、本書の心意気をものがっている(と自負しておこう)。

四人の編著者の専門は、主として中古以降近代以前の国文学である。本書を編むにあたって、ふだん守備範囲としている時代とジャンルはもちろん、日頃は正面切ってとりあげることが少ない作品にも手をのばして、収録する文章を選んだうえで、高校生のみならず幅広い一般読者にむけて語りかけるつもりで解説を書いた。それは冒険でもあり、快楽でもあった。なにより、すこぶる愉しかった。我々が味わった愉しさとは、やはり三六編のテクストに内在する言葉の力がもたらしたものに他なるまい。長い時間のへだたりを越えてなお読む者の心を躍らせてやまない「古典」の手ざわりを、この一冊を手に取った人々に受け渡してゆきたいと思うのである。

《平凡社ライブラリー、2012年11月、392頁、1400円》

▼ 樋口百合子 著『いにしへの香り―古典にみる「にほひ」の世界―』

樋口百合子(奈良女子大学古代学学術研究センター協力研究員・平成23年博士号取得)

香道を習い始めてから、古典文学と香りの関係について、疑問に思うことが多々あり、それが本書を書くきっかけになった。平安末まで書く予定であったが、量が多くなり、上代までとした。入門以来ご指導を受けている、志野流二十世家元蜂谷宗玄宗匠の序文をいただいた。同年夏に名古屋の家元邸において、一日がかりで行う、「古法十〓(火+主)香」の御伝授をうけ、思いがけなく最高点で宗匠の直筆の記録をいただいたことは上梓の記念となり、少しはご指導に応えることができたかと思っている。本書をきっかけに、組香の証歌についてもまとめてほしいという同門の方々からのご要望をいただいているので、いつか手掛けてみたいと思っている。

《淡交社、2012年5月、223頁、1900円》

▼ 磯部敦 著『明治前期の本屋覚書き  附.東京出版業者名寄せ』

磯部敦(本学准教授)

2012年5月、拙著『明治前期の本屋覚書き 附.東京出版業者名寄せ』が金沢文圃閣より刊行された。同書は文圃文献類従シリーズの一冊で、出版研究に有用な文献史料を復刻していこうというもの。同書においても、朝倉屋久兵衛「明治初年東京書林評判記」(『古本屋』3号、荒木伊兵衛書店、1927年11月)、蝸牛老人(朝野文三郎)『明治初年より二十年間 図書と雑誌』(洗心堂書塾、1937年)、および「書籍組合及書肆の変遷」「同(承前)」(『図書月報』2巻9・10、1904年)といった、明治初期の本屋に関する史料が復刻されている。これらはいずれも本屋じしんが語る同時代史料であり、その意味できわめて貴重な出版史料といえるのだが、その一方で記憶の混乱や操作が見られ、経験語り/騙りであるがゆえの危険性もある。その点については解題「出版史料としての〈物語〉―付「博文堂書店創立願」と明治二十年代の博文堂―」で述べたところである。

ところで、目当ての本屋がいつ頃から営業していて、どういった史料から裏づけられるかといったことを調べようとしたら、たとえば江戸時代であれば井上隆明『近世書林板元総覧』(青裳堂書店、1988年改訂増補)をはじめとする工具書が揃っており、さしあたって同書に就くところから始めていくことが可能である。が、こと明治初期のばあい、鈴木俊幸『近世日本における書籍・摺物の流通と享受についての研究―書籍流通末端業者の網羅的調査を中心に―』(科研報告書、1999年)以外に工具書はない。むろん、国会図書館の近代デジタルライブラリーで本屋検索すればある程度の傾向をつかむことは可能であるし、前掲鈴木書との併用でかなりの部分までまかなえるが、組合への参加状況や外からのまなざしまではわからない。本書掲載の付録「東京出版業者名寄せ」は、これらの問題に応えるべく、番付や買物案内といった名寄せ史料、組合設立文書等における本屋の屋号・所付け等を一覧にしたものである。精密な商人録の備わらない時期の本屋を調べる際の工具書として利用されたい。とまれ、大学院生時代からポチポチとパソコンに入力していたテキストデータがこのようなかたちで公開されることになるとは、なんともうれしいかぎりである。

さて、神保町が古本の街であり、京橋が印刷の街であったように、土地によっては商売と密接にからみあっている。では、奈良はどうなのだろうか。本屋や印刷所の分布状況はどうなっているのだろうか。そこに地域性と呼びうるものは見いだせるのだろうか。目下の、私の興味のひとつである。

《金沢文圃閣、2012年5月、308頁、19000円》

▼ 岩崎紀美子 著『與謝野晶子とトルストイ』

岩崎紀美子(昭和35年度卒・平成22年博士号取得)

四〇年近く教育現場での実践にのめり込み、書くことに無縁で来た。それが、與謝野晶子の実存追求に魅かれ、退職後、学の世界に深入りし、些かの思考を論にまとめる仕儀となった。「詩『君死にたまふこと勿れ』成立に関する試論」として『叙説』に発表、思いがけず我が作物が活字になる感激を味わった。一新聞記事をヒントに当時神格化されていた詩評に踏込を試みた、振り返れば大胆な立論であった。あれからもう十二年になる。その後も幸いに、晶子に於けるトルストイ思想の影響を追求する論を加えることが出来た。請われるままに処々で講演、晶子評論の世界では、私の〈トルストイ影響説〉も多少定説化しつゝあるらしい。この度書籍化への要望があり、安価で気軽に手にしていただける文庫本の形で出版した。

内容のコンセプトは、本の帯に、編集子が手短に紹介してくれた文が語っているので引用する。

評論家・與謝野晶子の内なるトルストイ。晶子の基本理念は、トルストイ思想の熟成によりもたらされた。與謝野晶子論の新地平をひらく実証研究。さらには、その存在が知られながら、著名な幸徳秋水訳のかげにかくれて論議されることのなかった杉村楚人冠訳「トルストイ伯『日露戦争論』」の全文を収録、分析する。

晶子ゆかりの東京・荻窪で拙著の読後感想として、「著者は魅入られたかのように研究を始めます。二通りの訳による表現の違い、晶子の詩との対比、当時あえて反戦を唱えた晶子の思惑、それを匪賊なりと攻撃した文壇、文豪トルストイの思想、様々な角度からの検証は次第に焦点が合っていくようで、著者の意気込みが伝わってきます。」と、タウン誌『荻窪百点』(二八六号)に評して頂いた。著者冥利につきる。與謝野晶子の評論には、現代に生きる視点が数々ある。「人として」生きる事を志す若き後輩方にお目通し頂けたら幸いである。

《文芸社文庫、2012年4月、343頁、777円税込》

▼ 磯部敦 著『出版文化の明治前期―東京稗史出版社とその周辺―』

磯部敦(本学准教授)

いまにして思えば、私の研究は、神保町交差点の近く、神田古書センターにある某古書店から始まったのかもしれない。

大学院入学後に買った、人生初の和装本。明治15年に東京稗史出版社より刊行された曲亭馬琴著『夢想兵衛胡蝶物語』、いわゆる活字翻刻本である。善本思想からすれば無価値のレッテルをはられる明治期活版後印本なのだけれども、近世と近代が交錯する時代を研究対象にした私にふさわしく思えたのだ。また、ゼミや卒論で草双紙などをひたすら翻刻していたこともあって、刊記「翻刻御届」の文字になんだか親近感を覚えたというのもある。半紙本、上下二冊で、福沢諭吉が二人ほど私のもとから去っていったのを覚えているが、その後の古書展で二冊500円ほどで購入できたときの驚きと悔しさも忘れてはいない。ともあれ、そのときに購入した人生初の和本が初めての単著の表紙を飾っているのは感慨無量である。

本書は、その古書店から始まった研究の軌跡である。内部史料もなく、刊本と周辺史料を漁りまくるところから始まった私の研究は、本屋研究から予約出版方法という流通の問題へ、そこから予約利用者という読者の問題へ、そして読者たちの思考や行動を規制する「文学」や「中流」という時代の問題へと展開していった。第一部各章の展開は、そのまま私の興味の変遷でもある。本書第二部は銅版草双紙、沢田文栄堂の仏書出版、石川県における新聞流通と対象がばらついているけれども、これまた私の興味関心の反映だ。そのとき目についた事象、面白そうな史料に出会えば、とにかくひたすらその対象に没頭した。明確な見とおしもなく、時代への、ただぼんやりとした興味だけが私の原動力であったけれど、だからこそ広い視野が保てたのだと思う。などというのは手前味噌だろうか。

極端にいってしまえば、私たち研究者の仕事は「歴史」を語ることだ。当時の「普通」のありようを、「あたりまえ」の時代の心性をいかにして浮かびあがらせ、それをどのようなことばで、どのように「歴史」として語るのか。なんとも大まかな話ではあるけれども、興味のおもむくままに研究してきてここにたどりついた。もちろんこれは結論という終わりなのではなく、私の研究はここからまた始まるのである。

《ぺりかん社、2012年2月、364頁、7500円》

【2011年】

▼ 阿尾あすか 著『伏見院』

阿尾あすか(奈良学園大学助教・2000年本学卒業、京都大学大学院博士後期課程修了)

鎌倉時代後期の持明院統の天皇、伏見院は、京極派和歌を代表する歌人でもあった。本書は、伏見院の特徴的な歌風や思想が表れた和歌を三十七首選んで、これに注釈を加えたものである。京極派和歌の特徴として、繊細な自然描写が挙げられるが、これは、創始者の京極為兼が傾倒していた法相宗の唯識思想に基づくものである。あらゆる存在現象は心の認識によって存在するに過ぎないとする唯識思想を踏まえ、京極派歌人たちは、心に影像として浮かぶ自然の光景を歌に詠んだ。天皇である院の場合は、「天地(あめつち)」の「心」の調和によって国土が治まるという国家観が加わる。これには、持明院と大覚寺の両統が正統性をめぐって争ったことが背景にあり、伏見院には自統の正統意識が強烈であった。そうした正統意識が発露している歌がある一方で、院の和歌には隠遁を志向するものも多い。院には王朝古典文学や漢詩文を愛好する心があり、それらの表現を摂取したものも多いが、院の和歌が志向する隠遁とは漢詩文の影響を受けたものであったことが窺われる。

以上が、拙著の概要である。一般の読書人向けに著したものであるが、ぜひこれから古典を研究したいと考える大学生を念頭に執筆した。論文を書く時は、苦心惨憺することが多いのであるが、本書を執筆する時は不思議と伏見院の歌境に遊び、楽しい心持ちであった。読者にもその時の楽しさが伝われば幸いである。

《笠間書院(コレクション日本歌人選)、2011年7月、116頁、1200円》


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