東大寺の歴史

まんとくん正面
    目 次
1 東大寺創建から平安時代までの東大寺
2 鎌倉時代の東大寺
3 江戸時代の東大寺
4 明治時代から現在までの東大寺

    凡 例

このページは、高校の日本史Bの教科書用語と説明を主たる材料として、東大寺の歴史を記述する試みです。教科書のあちこちに分散した言葉が、東大寺というテーマの下に新たなつながりを持って思い出されることを目指しています。

本文中、教科書に記載された語句の前に*(アスタリスク)をつけて太字で示し、下記のように色分けしています。これら教科書用語には、原則としてよみがなをつけていません。

1 東大寺創建から平安時代までの東大寺

 東大寺ができるきっかけは、*聖武天皇の時代に社会的な不安が多かったことです。聖武天皇が即位してから、地震・日食が続き、神亀5年(728)皇太子の死、天平元年(729)*長屋王の変・皇太子の死、天平9年(737)天然痘大流行、天平12年(740)*藤原広嗣の乱など災難が度重なりました。

 聖武天皇は、まず天平13年(741)に*国分寺・国分尼寺の建立の詔を出しました。数々の災難を仏教の力で消滅させて国家を守る*鎮護国家という考えから、*国分寺は金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)にもとづいて四天王を護持する寺、*国分尼寺は法華経(ほけきょう)を絶えず読経する寺としました。

 その後、天皇や貴族に華厳経(けごんきょう)を説いていた*良弁が諸国の国分寺の総本山として東大寺を建立し大仏を造立すること進言しました。天平15年(743)、これを受け入れた聖武天皇は、時の都であった*紫香楽宮(現在の滋賀県)で*大仏造立の詔を出しました。大仏は最初紫香楽宮で造られ始めましたが、都が*平城京にもどったことに伴い、新たに東大寺が造営され、その本尊として大仏が作られることとなりました。

 大仏の正式な名称は毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)、良弁の説く華厳経の教理では釈迦如来と同一であり、一切万物を救済する仏とされます。この世に生きるものすべての永遠の幸福と繁栄を与える仏であると考えられていました。

 その大きな仏を造るという一大事業は、聖武天皇や国家の力だけでは完成できないため、*行基が全国をまわって大仏造立の意味を説き、物資や人手を集めました。こうして大仏および大仏殿の建立にたずさわった人数と物資は以下の通りで、莫大な量にのぼりました。

  • 材木の寄進51,590人、労働力1,665,071人、金銅の寄進372,075人、労働力514,900人
  • 銅約241トン、練金4,187両1分4朱

 こうして、国の力を一点に集中させて天平勝宝4年(752)に完成し、*大仏開眼供養が盛大に行われました。翌年に来日した*鑑真は東大寺に戒壇院を設け、僧侶の国家的な育成にあたりました。聖武天皇の遺品も東大寺に寄進され、正倉院に収められて現在に伝わっています。

 奈良時代から平安時代にかけて、奈良の大寺院は*南都六宗(法相宗・三論宗・倶舎宗・成実宗・華厳宗・律宗)と呼ばれる教派を形成していきます。東大寺は華厳宗の中心となると同時に、「六宗兼学」を目指す、総合的な仏教学の中心となりました。*平安京に都が変わると、東大寺造営と修理を担当していた「造東大寺司」が閉鎖され、国家の特別な保護を受けなくなりましたが、黒田荘(くろだのしょう 現在の三重県名張市)に代表される多くの*荘園を営み、斉衡2年(855)の大地震で大仏の仏頭が落ちた時も直ちに修理・復元されました。

 さらに、平安後期の*信貴山縁起絵巻から、東大寺はこの世の浄土とも考えられ、信貴山を開いた妙連の母が大仏に祈りを込めて、息子の居場所を大仏が夢でお告げをして知ることができたという話も残っています。*院政の時期には、*興福寺や*延暦寺と同様に、*僧兵が都に*強訴におもむくこともありました。

 平安時代の末、*保元・平治の乱の後、平氏は*大和国を勢力下におき、平氏政権と東大寺をはじめとする*南都の寺院勢力が対立した結果、治承4年(1181)*平清盛の命を受けた*平重衡らが、南都を焼きはらいました。この火災により東大寺は、二月堂・法華堂(三月堂)・転害門・正倉院以外の主要な伽藍を失ってしまいました。

 東大寺では「天下が栄えればわが寺も栄え、天下が衰えればわが寺も衰える」と言われていました。*平家物語には、この焼き討ちを見て、民衆は平家は滅びると噂したと述べられています。

2 鎌倉時代の東大寺

 *南都焼討後、東大寺は平氏政権に逆らった罰として、荘園・所領を没収されてしまい、消失した伽藍の再建を認められませんでした。しかし、*高倉上皇や平清盛があいついで亡くなったり、*源頼朝の動きが不穏になったために、これらの処罰はすぐに撤回されました。

 その後、*後白河上皇は東大寺の被害状況を知るために使者を送りました。このとき東大寺の再建を説いたのが、*重源です。その報告を聞いた後白河上皇は、重源を大勧進に任命し、直ちに東大寺の再建に取りかかりました。重源は精力的に全国を*勧進にまわり、源頼朝の協力のもとで、大仏や諸堂の再建にあたりました。このときに再建された大仏殿や*南大門などは、建築方法が独特なもので*大仏様(だいぶつよう)と呼ばれています。

南大門正面

 そして、文治元年(1185)に大仏開眼供養、5年後の建久元年(1190)に大仏殿が完成。建久6年(1195)に落慶法要が盛大に営まれ、建仁3年(1203)に再建事業が完成し、後白河上皇や源頼朝が列席のもと東大寺総供養が行われました。

 この再建事業と平行して、東大寺では多くの新しい仏像が造られ、奈良の仏師の代表である*運慶・*快慶らが活躍しました。*東大寺南大門金剛力士像など、新たな時代を代表する仏教彫刻が、東大寺再建をきっかけとして生まれたことは、特筆すべきことです。

年代出来事
1181(治承4)南都焼討による諸堂の焼失
1181(治承4)重源、大仏修理のための勧進を開始
1182(治承5)大仏修理の開始
1185(文治元)大仏開眼供養
1190(建久元)大仏殿再建完了
1195(元禄7)大仏殿落慶法要
1203(建仁3)東大寺総供養
鎌倉時代大仏殿再建年表

3 江戸時代の東大寺

 戦国時代、奈良は大きな兵火にさらされました。永禄10年(1567)の*三好・松永の兵火です。松永久秀の軍勢は大仏殿に陣を構えていた三好勢に夜討ちを仕掛け、その結果大仏殿をはじめとする多くの建造物が焼失し、大仏も原型を留めないほどに溶け崩れました。翌年の永禄11年(1568)には、山田道安(山辺郡山田城城主)が中心となり、大仏および大仏殿の修理が試みられます。*織田信長や、*徳川家康なども勧進許可を出しましたが、大仏は江戸時代になっても木造銅版張りの仮の頭部を乗せた状態で、雨ざらしのままだったといわれています。

 貞享元年(1684)*公慶が大仏の修理のために勧進を始めたことから、東大寺の復興事業が本格的にスタートしました。これは*江戸や*上方などの都市部で大仏縁起の講談と宝物の拝観を行う、「出開帳」(でがいちょう)の方式を用いたキャンペーンでした。この方法は、大仏の*現世利益・霊験を期待する民衆の信仰心をつかみ、多額の喜捨を集めて大仏修理の費用をまかなうことができました。その翌年には大仏修復事始の儀式が営まれ、東大寺勧進所として龍松院が建てられています。

 大仏修理の計画が具体化していくにつれ、奈良の町では大仏講という組織が編成され、勧進帳が作成されるなど、大仏復興への気運が地元でも盛り上がりました。そして貞享3年(1686)には大仏の修理が始まり、そのわずか5年後の元禄4年(1691)には大仏の修理は完了し、その翌年には大仏開眼供養が盛大に営まれました。このとき、奈良は空前の賑わいをみせたといわれています。

 ついで大仏殿の再建にも、公慶による勧進が続けられましたが、大仏再建よりさらに大きな費用がかかりました。元禄6(1693)年、公慶が将軍*徳川綱吉とその母*桂昌院に謁見したことをきっかけとして、東大寺復興は*江戸幕府主導の国家的大事業となっていきます。それでもなお資金が足りず、大仏殿の規模は鎌倉時代よりも大幅に縮小されて、現在の規模になりました。

 再建工事の期間は元禄7年(1694)から宝永5年(1708)までの14年の年月をかけ、大仏修理、大仏殿再建、さらに他の焼失した建造物に関しても再建が行われました。公慶が宝永2(1705)年に亡くなった後、弟子たちが勧進を引き継いで、東大寺の復興事業が完了したのは、公慶が復興を志してから約70年後のことでした。

年代出来事
1567(永禄10)三好・松永の兵火による諸堂の焼失
1568(永禄11)山田道安による大仏修理の試み
1684(貞享1)公慶、大仏修理のための勧進を開始
1886(貞享3)大仏修理の開始
1691(元禄4)大仏修理完了
1692(元禄5)大仏開眼供養
1694(元禄7)大仏殿再建開始
1708(宝永5)大仏殿再建完了
江戸時代大仏殿再建年表

 ところで、重源や公慶による東大寺再建の勧進は、*や*歌舞伎といった芸能にも取り入れられています。能の演目「安宅」(あたか)や、これを脚色して歌舞伎の代表的演目の一つとなった「勧進帳」(1702年初演)は、*平泉に逃れる*源義経と弁慶が、東大寺の再建を勧進する旅の僧として関所を通過しようとする、緊迫した場面を描いたものです。これは史実ではありませんが、悲劇のヒーロー義経と東大寺再建は、芸能の世界でしっかりと結びついています。

 江戸時代の東大寺復興事業は、近世の奈良の町そのものにも大きな影響を与えました。さらに江戸時代の旅行ブームによって、奈良は大仏詣でに訪れる人々でにぎわい、観光地として繁栄するまでになりました【東大寺復興と奈良の観光地化のページへ】。そして明治時代から現在まで続く、文化財を保護する活動を通じて、奈良は世界の文化遺産になったのです。

4 明治時代から現在までの東大寺

 江戸時代の後期、19世紀を迎えるころになると、大仏殿は老朽化が進み、木材の腐食や柱の傾き、屋根の変形が進んで、明治時代には倒れないのが不思議なほどだったといわれています。しかし、東大寺の修理は容易ではありませんでした。

 慶応4年(1868)に、明治政府は*神祇官を再興、その後神仏判然(分離)令を出し、仏教と神道を区別して神道を重んずる方針を示しました。これをきっかけに全国的に*廃仏毀釈の動きが広まり、仏像などは美術品として海外に売り飛ばされたり、薪など生活用品にされたりして、東大寺を始め奈良の寺院も大きな危機に直面しました。江戸時代に東大寺勧進所となった龍松院もこのとき廃院となっています。

 さらに*文明開化を目指す急激な近代化の中で、伝統美術は古めかしいものとして排除されます。こうした風潮の中で、*フェノロサの助手として奈良の寺院・仏像の荒廃ぶりを見た*岡倉天心は、日本人の精神が失われると痛感し、文化財の保護を訴えました。明治30年(1897)には、文化財保護のための最初の法律として古社寺保存法が制定され、貴重な仏像の保存や修復を国が行うことになりました。

 このような新たな制度の下で、岡倉天心らは破損が激しかった東大寺法華堂の*不空羅索観音像を修復、明治36年(1904)から大正2年(1913)まで、大仏殿の大規模な修理が行われています。とはいえ、*日清・日露戦争の巨大な戦費や物価の上昇などによって、文化財保護事業は常に資金的な困難をかかえていました。

 太平洋戦争の中で空襲を免れた奈良は、戦後に制定された文化財保護法によって、日本で最も国宝の多い県となり、東大寺は修学旅行の代表的なスポットの一つとなりました。良弁の没後1200年を記念して、昭和49年(1974)から55年(1980)まで行われた東大寺の「昭和の大修理」では、大仏殿の屋根瓦が軽量なものに交換されるなどの修理が行われています。そして、東大寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、*ユネスコより世界文化遺産に登録され、平城遷都1300年を迎えた2010年現在も、多くの観光客が訪れています。

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