日本における饅頭の起源は奈良にあるといわれています。それは、日本に饅頭の製法を伝えた林浄因(りんじょういん)という人物が現在の奈良市林小路町に住み、饅頭作りをしたという伝承にもとづいています。また、現在でも奈良市やすらぎ通り沿いには林浄因を祭神とする林神社があり、毎年4月19日の「饅頭まつり」には、全国の菓子業界が饅頭を奉納して菓子業界繁栄祈願を行っていることからも、奈良と饅頭は深い関係を持っています。
一方、この神社では毎年9月15日、林浄因の末裔にあたる林宗二という人物を、印刷出版の神様とする「顕彰祭」も行われています。饅頭と出版。ちょっと不思議な取り合わせですね。そこで、奈良饅頭の歴史を、林浄因と林宗二の二人の人物に注目しながら調べてみましょう。
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林神社近鉄奈良駅から「やすらぎの道」を南に少し歩くと漢国神社があり、その境内に林神社があります。社殿の創建は昭和24年です。 ⇒地図(A地点が林神社です) |
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饅頭塚林浄因が宮女と結婚した時、子孫繁栄を願って紅白饅頭を埋めたとされる場所です。 |
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紅梅林浄因の子孫、「林宗二」が献木したと伝えられる梅の木が境内にあります。 |
日本の饅頭の始祖とされる林浄因は中国で生まれました。元(げん)に留学していた建仁寺僧龍山徳見(りゅうざんとくけん)の弟子となり、彼が日本に帰国する際に付き従って来日したとされています。林浄因来日の年については、史料によって暦応4年(1341)とも貞和5年(1349)ともいわれますが、どちらの説にしても林浄因は14世紀半ば頃来日したものと考えられます。
林浄因がつくったとされる饅頭とは、どのようなものだったのでしょうか?
貞享元年(1684)成立の『雍州府志』(ようしゅうふし)巻六「土産門 上 饅頭 」に
林浄因が来日する以前にも、小麦粉を捏ねて蒸し、十字に切れ込みを入れた「十字」(『吾妻鏡』建久3年(1192)11月29日条)や、『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)「看経」(かんきん)にみられる点心としての饅頭など、中身のないものや菜饅頭(なまんじゅう)のようなものが存在していたようです。「林浄因が饅頭の始祖である」というはそれ以前には存在しなかった「小豆餡」を饅頭の中身として利用した点にあるといえるでしょう。【→ 中世の奈良饅頭を再現する】
林浄因はその後龍山徳見が亡くなると中国に帰国したと言われていますが、彼の子孫は日本に残って饅頭屋を営み、現在の和菓子屋「塩瀬総本家」につながるとされます。塩瀬総本家34代目川島英子氏 (1996)(註1)によると以下のようになります。
長禄4年(1460)惟天盛祐が京都へ移ったことによって、京都の北家と奈良に残った南家に分かれたらしい。京都へ移った北家はその後、京都北家・京都南家にわかれてそのうちの京都北家が現在の塩瀬総本家となり、京都南家からは後述する林宗二が輩出された
京都にある建仁寺の僧に従って来日した林浄因が、なぜ京都でなく奈良を饅頭製作の地として選択したのでしょうか?これについては、
また、林浄因が奈良に住み饅頭を製作したと書かれた史料は早くても17世紀後半のものであることや、林浄因自身について不明な点が多いことを考え併せると、奈良と饅頭の関係にはまだ曖昧な点が残るように思われます。そこで次に、先に述べた京都南家の林宗二に着目して、もう少し調べてみましょう。
林家7代目となった林宗二は、名を林逸、号を方生斎とし、浄因から道安、浄印、妙慶、盛祐を経て道太の三男として生まれた人物です。
『多聞院日記』(註4)によると天正9年(1581)奈良で没したとされています。饅頭屋を営んだ一方、連歌や歌学、文学を得意とし『唐宋詩文抄(とうそうしぶんしょう)』『源氏物語』の註釈書である『林逸抄』を著しました。『饅頭屋本節用集』の著者としても有名ですが、古写本に明応(1492〜1501)の奥書、文亀(1501〜1504)の年号のものがあることから、宗二の先代によるものとする説もあります。しかし版の様式が16世紀頃のものとされ、宗二の業績から考えて、彼を『節用集』の刊行者と考えることもできます(註5)。いずれにせよ林宗二は、歌学や文学に精通した文化人だったといえるでしょう。
例えば、宗二は連歌師と親交が深く、牡丹花肖柏(ぼたんかしょうはく)から連歌を学んだとも言われ、肖柏から古今伝授として奈良伝授を受けたとされています(註6)。また、三条西実隆(さんじょうにしさねたか)から文選の講義を受けたとも言われ、『吉野詣記』(よしのもうでき)天文22年(1553)2月25日条によると(註7)、三条西実隆の子息、公条(きんじょう)が奈良詣に訪れた際には案内をするなど公家とも交流があったようです。
宗二は、父である道太の代に京都から奈良へ移住したとされていますが、そのきっかけとして 応仁の乱(1467〜1477)が挙げられます。応仁の乱では京都が戦場となり、戦乱を避けて多くの人々が京都を離れて地方へ疎開をしました。その中には一条兼良の一族のように、奈良を疎開先として選んだ文化人も少なくなかったと考えられます。室町時代から長谷寺を中心に連歌が盛んに行われていたこともあり(註8)、奈良は文化人たちに好まれる土地であったのかもしれません。
歌学や文学を得意とした宗二が奈良に移住したのも、このような文化人たちの動向と関連があったと考えられます。応仁の乱が収束すると、奈良では貴族の寺社詣や札所巡り、またそれをまねた人々の奈良往来が盛んとなります。それとともに、奈良墨や奈良筆など「奈良」の字を使った名産物が登場してきます。
奈良饅頭は、応仁の乱を契機として京都の文化が地方に伝播した結果、奈良に生まれた文化の中で、林宗二によって定着したものではないでしょうか。林浄因が饅頭の始祖だとすれば、林宗二は名産としての奈良饅頭の元祖だともいえるかもしれません。
ここまで、「奈良は饅頭発祥の地である」という伝承を出発点として、林神社、林浄因、林宗二と饅頭について述べてきました。その中で特に林宗二に着目し、彼が奈良饅頭の発展に大きな役割を果たした可能性があること指摘しました。
応仁の乱をきっかけとした人々の移動によって、京都周辺地域に様々な文化が波及したことはよく知られていますが、饅頭を通じて考えてみると、饅頭屋が出版業と結びつき、饅頭が奈良を代表する土産物として発展したことは興味深いことだといえます。
今回饅頭を通じ応仁の乱以後の奈良の状況をみていくことで、教科書で知る歴史とはまた違った社会の状況が見えてくるのではないでしょうか。奈良が「古都」として再認識され、観光地になっていった歴史とも深くつながっています。
そんなことも思い出しながら、奈良で饅頭を味わってみてはいかがでしょうか。
文責N.M.