奈良で学ぶ/奈良に学ぶ
  今岡:なるほど、取材を通して「奈良」の魅力に深く触れられたのですね。そういえば、奈良については、まさに先ほど名前が出た岡潔先生が、『春宵十話』という本の中でこんな風に奈良の良さを描いておられます。
つまり、奈良というのは日本文化の発祥地だが、それも、民族としての劣等感がなかった時代の文化が栄えたところ。だから、本当に良いところだ、と。そして、こういうところを保存しておくと、良い趣味をつちかい、新しい文化を興す元にもなる。この町を中心に日本らしい文化を興したい、とおっしゃるのです。

  伊東:岡先生の随想は、たしかにとても魅力的ですよね。

  今岡:岡先生の随想の中には、仏教の用語が良く出てきます。彫刻や絵画にも造詣が深く、ミロのビーナスや百済観音、三月堂の月光菩薩の評論をしています。奈良の自慢はすばらしい仏像がたくさんあることです。

  伊東:「奈良」とはそういう深みのある場所なのですよね。そこに本学が存在しているのは、とても意義深いことです。


  今岡:はい、奈良にあるというのはとても大きいことなのです。
本学の特徴や強みがどこにあるのかということを、最近も、みんなで突き詰めて考えてみたのですが、結局とても単純なことに行き着いたんです。それは、国立大学法人奈良女子大学であること。つまり、「奈良」と「女子」と「国立大学」なんです(笑)。
「奈良」という得難い環境を最大限に享受しつつ、「女子」をエンパワーする教育をとことん追求する。そしてそれを、「大学」つまりユニバーシティとして普遍的な観点から、国立であることの強みを生かして学問的に究め、教育にも反映する。そういうことなんです。
数学なんて普遍的な学問だから、どこにいてもできる、と普通は考えがちです。しかし岡先生は違うとおっしゃる。地域研究はもちろん、一見普遍的な学問であっても、空間性は大事だということです。閃きが生まれるにはそれなりの環境が必要で、まさに奈良は理想的な場所だといえるのです。

  伊東:たしかに、そのとおりです。久しぶりに奈良に来てみると、東京などとは全く異なる空間と時間の流れがあることがわかります。京都とも違いますね。

『キラキラネームの大研究』

今岡:「閃き」といえば、今日最初に紹介したご本、『キラキラネームの大研究』も、たくさんの閃きが詰まっていますよね。最後に、このご本の内容をもう少し詳しくご紹介願えませんか。

伊東:執筆のきっかけは、「光宙」という名と出会ったことです。何と読むかお分かりですか。「ぴかちゅう」です。人気ゲームポケットモンスターのキャラクターですよね。そういう名前を子供につける時代になっているとしたら、それはなぜなのだろうというのが、疑問の始まりです。

今岡:
私も、そんな名があるなんて、ご本を読んでびっくりしました。

伊東:ただ、この「光宙」という名が実在しているかどうかは不明なのです。そこで、自治体広報誌の赤ちゃん誕生お祝い欄などをいろいろ調べてみました。すると、男の子では禮示(ひろし)や聖煌(せお)、女の子では栞來(かんな)や妃莉(ひまり)など、フリガナがないと何と読むのかわからないような名前がたくさんあることがわかってきたのです。しかも、今や、そういう名前が主流派になっている。
 
  今岡:キラキラした名前は実際にあったんですね。でも、そういう動きを批判的に捉えるのとは異なる視点で書かれていることが特長ですよね。

  伊東:はい。このような名前は、ときにDQN(ドキュンネーム)と呼ばれて、批判や揶揄の対象になることが多く、そのような声が巷に溢れています。でも私は、名付け親を無教養だと断じたり、名付けの善し悪しを恣意的に論じたりするのではなく、なぜそのような名前があるのかをさぐり当てたいと考えたのです。

  今岡:そこで、名前の歴史を遡ることにされたのですね。意外に思ったのは、本居宣長には稽古(とほふる)、舎栄(いへよし)といった名前の弟子がいて、宣長は名前を覚えるのに苦労していたという話。さらに遡って、織田信長などは、奇妙丸・大洞(おおぼら)・小洞(こぼら)・酌・人などといったとんでもない幼名を自分の息子たちにつけていたというエピソードです。

  伊東:ええ。また、今はオーソドックスに見える「和子(かずこ)」といった名前も、江戸期には「和」を「かず」と読ませること自体が逸脱でした。宣長はこれを問題視する文章を残しています。
これらはほんの一例ですが、要するに、もともと文字のない言語であった大和言葉の音を、漢字で表現するということ自体に無理があるわけです。その結果、日本語表記の世界は、当て字的な漢字で表現する名前が生まれたり、特定の漢字に新しい音を当てはめたりする余地がある構造になっています。

  今岡:『枕草子』や『古事記』『日本書紀』などの古典にまで遡ってゆかれたり、漢字学者・白川静先生の業績を参照されたりしておられるのは、そういう問題意識からきているのですね。そのあたりまで拝読すると、つい、<キラキラした名前は今に始まったことではない。それは古くからあり、日本語表記の宿命なのだ。だから現代のキラキラネームにもびっくりしなくてよい>といった結論を予想してしまったのですが……。

  伊東:ところが最終的な結論は、実はそうではない。たとえば、「腥」という文字をお考えになってみてください。「なまぐさい」という漢字ですよね。しかし今ではこの文字を名付けに使いたいというような感性が生まれています。

  今岡:なぜなんですか。

  伊東:月+星。すごくキレイな漢字だというわけです。

  今岡:えっ、キレイ?

  伊東:まさに「えっ!?」と絶句してしまいますが、大きな誤認がここにはありますよね。「月」は空の月ではなく、「にくづき」だということが理解されていない。こういうようなことは、古代から昭和初期まではなかったわけです。知ったうえで、あえて使うということはあったかもしれませんが。

  今岡:すると、同じキラキラしているにしても、決定的に何か違うものが現代の名付けにはある、ということなんですね。それは、何なのでしょう。

  伊東:このことを、個々の親を非難したり、彼らの社会階層や学歴などで説明しても十分ではないのです。戦後の国語政策にかかわる、もっと構造的なものが背後にはあります。

  今岡:推理小説なら、まさに犯人を突き止める直前まできましたね。でも、ここでネタばらしをせずに、あとはみなさん是非この本を買って読んでください、ということにしませんか(笑)

  伊東:それはありがたいですね(笑)。
私としては、キラキラネームとは、近い将来の日本語がどのような方向に向かうのかを真っ先に教えてくれる「炭鉱のカナリア」ではないかと考えています。そのあたりも、ぜひ読み取っていただければ幸いです。

  今岡:一見テーマはソフトですが、実は、身近な話題からどんどん深い森のなかに入ってゆく日本語論なんですよね。
さきほどつい「犯人」などと申しましたが、伊東さんのご本はかなり推理小説的なところがあります。データにもとづいて謎がつぎつぎと発見され、それを理詰めで解明していくというスタイルです。このあたりはまさに理系的思考なのかなと感じます。

  伊東:そうかもしれませんね。レンガを積み上げるように書くので、編集者の方にも、理詰めですねとよく言われます。

  今岡:でも、扱っておられる話題は文系です。

  伊東:わたしは東のほうの出身ですから、もし奈良女子大で学んで、奈良の地に住むということがなかったら、奈良や京都で書かれた日本の古典をこんな風に引用することはできなかったと思うのです。どこに住んでいても勉強でカバーできる部分もありますが、風土を肌で感じて知っているということには大きな意味があるように思います。

 
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