令和8年9月大学院入学宣誓式 学長式辞
奈良女子大学大学院博士前期課程および修士課程5名、博士後期課程3名、合計8名の皆さん、ご入学誠におめでとうございます。ご家族やご親族をはじめ関係者の皆様に心よりお祝いを申し上げますとともに、奈良女子大学を代表して、歓迎の言葉を述べさせていただきます。
文部科学省が公表している2025年度の日本の大学進学率は60%に迫り、男女の差も男性が数ポイント上回る程度にまで縮まってきました。1960年度の大学進学率が男性13.6%、女性2.5%であったことを思えば、この60年余りでその格差は大きく解消されてきたと言えます。一方で、同じ2025年度の大学院進学率を見ますと、男性が16%強であるのに対し、女性は7%強と、依然として2倍以上の開きが存在します。OECD諸国に目を向けると、大学院進学率は軒並み20%を超え、30%を超える国もあります。さらに男女比較においては、むしろ女性の進学率の方が高い国も少なくありません。
我が国では、修士や博士の学位を持つ企業経営者や役員は未だ少数派と言えますが、諸外国に目を転じれば、学術の世界はもとよりビジネスや行政の領域においても、高度な教育・研究歴を経て学位を保持している場合が一般的です。グローバルな視点に立てば、大学院で取得する学位は、社会の多様な場面で相応の立場を築き、組織や他者を牽引していくための「パスポート」としての価値を十分に備えていると言えます。
日本では、大学院の学位取得者が全体から見れば少数であるため、学位授与に至る厳格なプロセスが広く理解されているとは言い難い面があります。しかし、本学大学院におきましては、明文化された規定に沿って厳正な審査を行い、修士・博士の学位を授与しています。だからこそ、本学の授与する学位は確かな社会的信頼を得ていることを、ここで強調しておきたいと思います。本日ご入学された皆さんは、そうしたキャリアパスを構築するスタートライン、あるいは博士後期課程への進学者にあっては新たなステップへの節目に立たれたことになります。少々仰々しい表現になったかもしれませんが、皆さんには大学院で自らの目指す学問・研究に打ち込める喜びを感じていただくと同時に、その学問の厳しさにも真摯に向き合いながら、全力を傾けて大学院生活を送っていただきたいと願っております。
さて、大学院で学び、研究することの真の意義とは何でしょうか。また、自らの研究成果を学会で発表し、学術論文として公表することにはどのような価値があり、何が求められるのでしょうか。レポートや業務報告書と、学術論文の違いはどこにあるのでしょうか。
既にご存じの方も多いかと思いますが、木下是雄氏の著作に『理科系の作文技術』という有名な書籍があります。かつて私は研究指導の開始にあたり、この一冊をテキストとして学生たちに提示し、研究や論文執筆に必要な要素とは何かを多角的に議論させていました。実用的な技術論も多く書かれていますが、私が特に強調してきたのは「研究や論文には絶対的なオリジナリティ(独創性)が必要である」ということです。これによって世の中に知られていなかった新しい事物や知見を提供する——これこそが研究や論文に欠かせない要素であるように思います。そしてもう一つ、強調して伝えてきたのが「事実と意見を厳密に峻別する」という姿勢です。
近年、AI技術が急速に普及し、あらゆる場面で語られるようになってきました。現代において研究や論文執筆、さらには広く企業や行政における仕事・業務などを考える際に、AIの存在を無視することはできません。私自身、将来、研究のすべてをAIに委ねられる時代が来るのかどうか、現時点では判断ができません。しかし、少なくとも現時点で私が想定し得るAIでは、研究活動を主導し、学術論文の全体を自律的に執筆することはできないのではないか、と考えています。現在、多くのAIツールの画面には「不正確な情報を表示する可能性があります」という趣旨の注意書きが表示されています。これは、客観的真実と厳密さを追求する学術研究の最終局面においては、致命的な課題と言わざるを得ないというのが、私の捉え方です。
かつて私は、専門分野の論文を読んでいる際に、引用文献の記述に小さな誤りがあることに気づいたことがあります。そしてさらに、別の先行論文にも全く同じ間違いが記載されていることがわかりました。つまりその著者は、原典に直接あたることなく、先行研究の記述をそのまま鵜呑みにした「孫引き」を行っていたのです。研究者として原典を確認しないという姿勢は、論文の信頼性を根本から損なうものであり、研究者としての誠実さを疑われかねない行為です。
先のAIの例も同様です。一度でも不正確な情報を混入させる可能性があるならば、その出力結果に全幅の信頼を置いてそのまま論文に使用することはできません。「見知らぬ物知りの人物から聞いた話を、そのまま重要な仕事の成果物として使用できるか」と考えれば、その危うさをご理解いただけるのではないでしょうか。情報の正誤や根拠、出典を自ら検証しなければ使えないのであれば、まず自身の頭で論理の骨格を構築し、AIをあくまで補助的な道具として活用する姿勢こそが、現時点での研究活動における適正なあり方のように思えます。社会や技術の変化は加速し、時には人知を超えるかのような感覚を覚えることもあります。しかしこうした時代であるからこそ、安直な情報に流されることなく、自らの頭で考え、自らの責任で判断する力が何より求められているのではないでしょうか。
本日より本学大学院に入学された皆さんは、授業料を納めて高度な教育と研究の機会を得たことになります。しかし同時に、公的支援を受け、授業料相当以上の恵まれた研究環境を優先的に活用できる立場を獲得したのだという見方もできます。そうした視点に立てば、皆さんは単に個人の探究心を満たすためだけに学ぶのではなく、得られた研究成果や知見を少しでも社会へと還元していく責務をも担っているのだということになります。新入生の皆さんがこの自覚を胸に刻み、本学での学びを通じて、研究者として、また高度な専門職業人として社会に貢献できる人材へと大きく飛躍されることを切に願っております。皆さんのこれからの歩みに深い期待を込めまして、歓迎の言葉といたします。
令和8年9月30日 奈良女子大学長 高田将志