奈良女子大学文学部子ども学プロジェクト 公開シンポジウム

(共催:日本質的心理学会第4回大会実行委員会)

子どもにおける生活の歴史(life history)と文化間移動




下記の通り、文学部子ども学プロジェクトといたしまして、公開シンポジウムを開催いたします。
今回は「子ども学」の学術形成に関わる企画です。
ご関心をおもちのみなさまにはご参加賜りますよう、ご案内申しあげます。

 

日 時: 2007年9月29日 午後3時15分〜5時15分

場 所: 奈良女子大学記念館 2階講堂

参 加: 事前申込み・参加費不要。どなたでもご参加いただけます。

問い合わせ:奈良女子大学文学部子ども学プロジェクト事務局(東村研究室)

(電話)0742−20−3957

(E-mail)kodomo-gaku@cc.nara-wu.ac.jp

企画・司会: 浜田寿美男(奈良女子大学)


話題提供1: 「生き様に現れる共同性としての文化」  山本登志哉(共愛学園前橋国際大学)

話題提供2: 「証言における多重時間性と移動――Vygotsky理論の視点から」  高木光太郎(東京学芸大学)

話題提供3: 「子どもが衝動とのつき合い方を身につけるとき――文化的営みの形成と子どもの発達の共振」 當眞千賀子(茨城大学)

 

企画趣旨:

◇自然と文化

 「七つまでは神のうち」という。いまで言えば学校に上がるまでの子どもたちは、まだこの世に生まれて数年、それだけ人間の文化に染まっていない。「神のうち」というのは、文字通りには神様の領域ということだが、言い換えれば文化以前の「自然のうち」ということでもある。
 子どもはまず、やはり自然のものである。これを人間が人為で創り出すことはできない。男女の生殖行為も、卵と精子の合体も、受精卵の卵割にはじまる身体の形成も、赤ちゃんの出産という出来事も、すべて自然によってプログラムされた過程にほかならない。そしてさらに出産後、子どもがこの世の中で育っていく過程も、その基本のところで自然の仕組みに支えられている。つまり子どもは最初、やはり「自然のうち」にいる。ただしこの「自然」のなかには、周囲で子どもを育て、関わるおとなたちとの関係もあらかじめ予定されている。でなければ誰も生きていけない。
 一方で人間は、自然が敷いた生命の道程に重ねて、数万年の歴史のなかで言葉を生み出し、道具を作り出した。おかげで人間はどんどんとコミュニケーション世界を広げ、いまやそれによって地球規模の膨大な情報の流れにさらされるようになったし、おそろしいほど多種多様な道具・機器をこの世界に送り出し、かつては考えられなかったほどの人工物や消費財に取り囲まれて生きている。しかし、この文化のプロセスは、もともと自然のプロセスから離れて成り立ったものではない。文化はいわば自然の周囲をくるむようにして大きくなってきた。たとえば人も動物である以上、食べ物を食べなければならない。それは自然のプロセスである。しかしその食べ物の採取を自然まかせにするのではなく、農耕や牧畜として自分の方から計画的に生産する。それが文化である。あるいは口に食べ物を入れて咀嚼する食行動は自然そのものだが、人はそのレベルを超えて、いろいろな食べ物を集め混ぜ合わせて調理し、食具を使って食事をする。人間社会では、食事の文化が自然の食行動をくるむようにして、多様に広がってきた。
 育児もまた同じである。人間が人間になる前から、もちろん親は子を産み、子を育ててきた。その子育ての基本は自然に支えられたプロセスである。そしてこの自然のプロセスをくるむようにして育児の文化が多様に作られてきた。赤ちゃんに衣類を着せ、オムツをあてるのもそうだし、乳の出ない母には乳母が代わり、あるいは母乳に変わる代替物を考えたり人工乳を開発したりするのもそうである。また抱っこやおんぶにしても、自然のありようを超えた多様性が、人間にはある。育児の自然を、育児の文化が分厚くくるんでいる。それが人間の育児である。


◇自然と文化の織り合わされるところ

 そのうえで、生まれてくる赤ちゃんは、やはり、まだ文化をまとっていない新鮮な自然である。すでに文化をまとい、なお自然をうちに抱えたおとなと、この新鮮な自然との出会いが出産であり、両者のその後のつきあいが、子育てとして現れ、あるいは教育として現れる。そのような目で子どもを記述することが、いま発達の現場で、また教育の現場で求められている。たとえば赤ちゃんという自然と出会い、つきあうやり方が、どの共同体にも育児の文化としてあって、通常は、子どもを産む年齢になれば、誰もがその文化を身に浸み込ませている。子どももまだ小さい頃から、自分より後に生まれてきた赤ちゃんと出会い、その自然とのつきあいを、おとなたちの所作から見よう見真似で身につける。それが育児文化として共同体のなかで共有されてきた。
 トマセロらの二重継承理論によれば、人間は人間としての本性を、世代から世代へ、二つのルートで継承している。一つは系統発生(いわゆる進化)の過程を通して、遺伝によって人間的形質を継承するという生物学的継承。端的に言えば、人間からは人間の赤ちゃんが生まれ、赤ちゃんはその遺伝子構造に組み込まれた自然のプロセスを通して育っていく。もう一つは、人間が歴史の過程を経て積み上げてきた文化的形成物を、子どもがその育ちの過程のなかで、親の世代から学び、引き継いでいく。これはいわゆる文化的継承である。そうして見れば、子育てや教育の場はおとなの文化が子どもの自然に出会う境界だといってもよい。ここで自然と文化が縒り合わされ、織り合わされて、子どもたちの生活史(life history)が編み上げられていく。
 しかしこの議論は、まだいまのところ純粋に閉じた人間集団を想定して、きわめて素朴に描いたイメージでしかない。遺伝によって人が継承する形質に大きな変化が生じるには、おそらく万年単位の時間を要するであろうが、文化の側はいまや膨大な広がりと多様性を得て、ほとんどそれ独自の力学で動くと言ってよいほどになっている。たとえば、ある夫婦のもとに一人の子どもが生まれ、その家庭で育ち、地域に関係を広げ、そこから幼稚園・保育所に入り、やがて学校に入っていくという流れをたどっただけで、その家庭、地域、幼稚園・保育所、学校がそれぞれに独自の文化として子どもたちを囲むことになる。家庭や地域の基盤が強固で、それが子どもたちの生活史の軸をなしていたときはともあれ、その軸が大きくぶれはじめている今日、こうした生活史内の移動自体が、一つの「文化間移動」と言ってよいほどの落差を帯びるようになっている。実際、学校は同一年齢ごとの輪切り集団をシステムとして作り上げたことで、同年齢、同世代の横糸ばかりが分厚くなって、異年齢、異世代をつなぐ文化の縦糸が断たれてしまっている。そのためであろう、世代間で生活史を重ね合わせる筋道が失われ、家庭・地域の育児文化をごくふつうに身にしみこませていく育児の共同体が失われ、自分が子どもを産むまで赤ちゃんを抱っこしたことがないという女性が珍しくないという状況を生み出している。そうなると、赤ちゃんという自然とのつきあう文化を身に浸み込ませないまま、赤ちゃんを産み、不安ななかで育児をはじめるということにもなる。
 文化はもともと自然の周囲をくるむようにして広がってきた。しかしその文化が肥大した先では、文化が自然とすれ違い、これを裏切ることも出てくる。子どもの虐待なども、大きく見ればその一例かもしれない。
 いまでももちろん、子どもたちは「人間の自然と文化の出会うところ」に生きている。それゆえそのような視点から「子どもを記述する」ことが原則として求められる。しかしこの視点を堅持したまま、その具体相に迫ることは相当に困難な作業である。本シンポでは、3人の話題提供者からできるだけ具体的な報告を提供していただき、それを素材に、子どもが生きる生活の歴史を文化間移動の視点から読み解く方途を模索したいと考えている。そこからどのような「子ども記述」が展開されることになるか。それぞれの行う記述が具体的であればあるほど、その記述の接点が見えづらくなる可能性も高いのだが、そこに何らか共有可能な枠組みが登場することを期待したい。