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活動状況

やえ・ここのえ・ときのこえ

  大学院教育について、先生方に一言語っていただくコーナーです
(「魅力ある大学院教育イニシアティブ」メールニュース 掲載中!! )

vol.060 :  「キャリアコンサルティングの使命」
        人間行動科学専攻 人間関係行動学コース 川上範夫 先生

vol.058 : らーめん部
        人間行動科学専攻人間関係行動学コース  本山方子 先生

vol.057 : 私にとっての音・音楽
        人間行動科学専攻 教育文化情報学コース  藤井 康之 先生

vol.055 : 恩師のこと
        社会生活環境学専攻 共生社会生活学講座  阿部 敦 先生

vol.054 : この夏の体験から
        人間行動科学専攻 スポーツ科学コース 成瀬九美 先生
vol.053 : 奈良に来て
        共生社会生活学講座  松岡悦子  先生
vol.049 :  「ワールドカップサッカーと近代世界システム」
        社会生活環境学専攻 生活環境計画学講座  山本直彦 先生
vol.048 : 大学院時代を振り返って思うこと
        社会生活環境学専攻 社会・地域学講座   吉田容子 先生 
vol.047 :  研究は何のためにやるのだろう?
           −ローヤリングのシンポをきっかけに考えてみた
        社会生活環境学専攻 共生社会生活学講座   大塚 浩 先生   
vol.046 : 研究テーマ
       大学院人間文化研究科 人間行動科学専攻  中山満子 先生   
vol.045 : 潘家園旧貨市場
        大学院人間文化研究科 比較文化学専攻  武藤 康弘 先生   
vol.043 : <院生による概論>のススメ
        社会生活環境学専攻 社会・地域学講座  小川 伸彦   
vol.042 : 区切りの時を迎えて
        社会生活環境学専攻 生活環境計画学講座   牧野 唯 先生      
vol.041 :    
       人間行動科学専攻 人間関係行動学コース
       (実験心理学) 天ヶ瀬正博 先生
vol.040 :    
       社会生活環境学専攻 社会・地域学講座   石崎研二 先生
vol.039 : 「奈良にいるならでは」の研究を
       社会生活環境学専攻 社会・地域学講座  鶴田幸恵先生
vol.038 : わかりきった話
       人間行動科学講座   柳澤有吾 先生
vol.037 : 
       生活環境学部 住環境学科  藤平 眞紀子  先生
vol.036 : いざ、「思考の向こう側」へ!! 
        ――大学院生と接する日々に思う――
       社会生活環境学専攻 人間行動科学講座  木梨雅子 先生
vol.035 : 徒弟修業とパターナリズム
      社会生活環境学専攻 人間行動科学講座   西村拓生 先生   
vol.033 : 大学院イニシアティブ・・・若手研究者への期待
       社会連携センター長            鍜冶幹雄 先生
vol.032 :大学院の魅力は? ―本イニシアティブへの期待―
       文学部長                  出田和久 先生
vol.031 :「女性研究者キャリア論」の役得
       共生社会生活学講座          宮坂 靖子 先生
vol.030 :46%の意味:「女性研究者の王道」
       社会・地域学講座           高田将志  先生
vol.029 :留学のすすめ
      国際交流センター  センター長     西堀わか子 先生       
vol.028 :大学の個性化
      副学長                  井上裕正 先生
vol.027 :
      国際社会文化学専攻 比較歴史社会学コース  寺岡伸悟 先生
vol.024 :
      附属学校部長               水上 戴子 先生

vol.023 :大衆への反逆
      文学部長 (比較文化学専攻 日本アジア文化情報学講座)  
                          奥村 悦三 先生
vol.022 :将来に希望の持てる研究・教育大学院への提言
      −大学院の重点化を目指して−
      大学院人間文化研究科長         矢野重信 先生
vol.021 :サッカーと研究         
      社会生活環境学専攻 生活環境計画学講座 上野 邦一 先生
vol.020 :葵祭について
      比較文化学専攻  文化史論講座    小路田 泰直 先生
vol.019 :まずは名称からはじまった「子ども学」
      社会生活環境学専攻 人間行動科学講座  浜田寿美男 先生
vol.018 : 「アフガニスタン女子教育支援」の取り組みから                
       比較文化学専攻 文化史論講座      岩崎 雅美 先生
vol.017 :自主企画セミナーに思う
      社会生活環境学専攻 人間行動学講座   藤原 素子 先生
vol.016 :   
      社会生活環境学専攻 生活環境計画学講座  瀬渡 章子 先生
vol.015 : 
     社会生活環境学専攻 人間行動科学講座   井上 洋一 先生
vol.014 :泥縄であった 
     社会生活環境学専攻  社会・地域学講座  松本 博之 先生
vol.013 :お茶の水女子大学での「大学院教育イニシアティブ」 
     社会生活環境学専攻 社会・地域学講座   内田 忠賢 先生
vol.012 : 
     社会生活環境学専攻 生活環境計画学講座 増井 正哉 先生
vol.011 :「競争」をこえて 
     社会生活環境学専攻 社会・地域学講座  栗岡 幹英 先生

vol.010 :雑 感 
     社会生活環境学専攻  共生社会生活学講座  佐野 敏行 先生

vol.009 :貪欲な好奇心と旺盛な行動力を!!
     社会生活環境学専攻 社会・地域学講座  相馬 秀廣 先生
vol.008 :   
     社会生活環境学専攻  人間行動科学講座   麻生   武 先生
vol.007  :期待と希望と危惧
     社会生活環境学専攻  社会・地域学講座  戸祭 由美夫 先生
vol.006  :大変な時代       
      社会生活環境学専攻   社会・地域学講座 中島 道男  先生
vol.005 :「見えにくい死  隠された死  専門化する死」 
      社会生活環境学専攻 共生社会生活学講座  清水 新二  先生
vol.004 :不確定志向への誘い
      社会生活環境学専攻   人間行動科学講座  杉峰 英憲  先生
vol.003 :「贈る言葉」
      社会生活環境学専攻  人間行動科学講座  小田切  毅一 先生
vol.002 :「開かれたネットワーク」を創る
      社会生活環境学専攻 社会・地域学講座   中道 實 先生
vol.001 :"独創のおもい" 
      社会生活環境学専攻 生活環境計画学講座   今井 範子 先生



「キャリアコンサルティングの使命」

人間行動科学専攻 人間関係行動学コース
 川上範夫 先生

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 世界的経済混乱にわが国も惑わされている。企業や産業界の人たちの揺れ 動きのあり様を見ていると、アメリカ化の圧力のもとで個別化、孤立化、 断片化、細片化に向かって流されてきた人間関係風土のひずみがここにきて 人の心を余計に不安に陥れているように思われる。うつや精神的不調にさい なまれる人はもちろん、健常と思って暮らしている人たちも、自分の心の ばらばらに直面化させられてきている。一言で言うならば、実業界の人たちに とどまらず、一般市民、教師や学生たちのだれもが、いつのまにか自分の生き 方のビジョンを考えるのではなく自分自身の安全と守りだけに心を向けるように なってきていた。それゆえ、この度の突然の混乱にあたって、高年指導者層 から若者にまでわたって心はパニックになるばかりで、だれもがますます自分 を委縮させて乗り切ろうとしているかのように見受けられる。  

  心理臨床実践学の領域では、ちょうどこうした経済社会動向の激変に合わせる かのように、2008年末から厚労省による「キャリアコンサルティング技能検定」 が始まった。就労支援はもとより、仕事にかかわるさまざまな苦悩に対して 人間関係を基盤にして援助ができる専門職の認定である。

 筆者も認定試験委員の一員として、認定されたキャリアコンサルタントが 心の専門も大切にして実践にあたってくれるならば、今、巷間で苦しんでいる 人たちのよき理解者、連帯者になってくれるものと期待し、この認定制度を 育てていきたいと考えているところである。





らーめん部

人間行動科学専攻人間関係行動学コース
本山方子 先生


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  何人かの院生と「らーめん部」というものをやっている。何をするかというと、 大学の裏のラーメン屋に一緒にラーメンを食べにいくだけである。ラーメンの研究 や蘊蓄を語ったりするのではない。ただ行って、多少の雑談をして、ラーメンを 黙々と食べて帰ってくる。メンバーや固定した活動日が決まっているわけではない。 部員の義務もない。ゼミに関係なく、誰でも一緒に行けば仲間である。今のところ 院生が中心で、学部生はたまにゲスト参加が認められるような、「おとなの」集まり になっている。  
 
 らーめん部のきっかけは、2年ほど前に在学していた院生とラーメンを食べに 行くと、たまたま相談にのることが続いたことであった。そのうち何か相談事が ある時、「先生、ラーメンが食べたいんですけど」とか、「○○さんがラーメンを 食べたいそうです」と言うようになり、「らーめん部」をする、となった。「部費」 にすると言って、そのラーメン屋の金券に応募したりすることもあった。
 
 彼女たちが修了してからは、悩める院生ばかりではないが、「らーめん部」はその 名称と共に後輩の院生に引き継がれている。不思議なことだが、ラーメン屋では、 研究室やゼミ室で聞けないことや言わないことが話される。フォーマルにはまだ 言えないが、院生なりに問題視していたり、理不尽なり正義に思うところが漏ら される。それを聞いて、院生の感性を頼もしく思う一方、教員として衿を正す思 いになったり、あるいは、院生の正義に応えられない自分のふがいなさを胸の内 で嘆いたりしている。  

 このような場にとって、ラーメンの媒介する力は大きい。ラーメンにはちょっと うるさいので、私が行き続けても良いと思うラーメン屋がなければ、そもそもこう いう場にはならなかったかもしれない。院生の入れ替わりとともに、らーめん部は いずれ消滅していくのであろうし、それでよい。資源として教員やラーメンを利用 することの有無も含めて、院生が自らの学習環境を柔軟につくり出す力を引き出す 存在でありたいと思う。







私にとっての音・音楽

                人間行動科学専攻 教育文化情報学コース 
                       藤井 康之 先生 

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 はじめまして。前田行央先生の後任として10月から着任し、音楽関係の授業を担当しています。なにを書こうか迷ったのですが、自己紹介を兼ねて、私が今まで続けてきたピアノについて、自分の研究とかかわらせながら書くことにします。

  私がピアノを習いはじめたのは、小学校3年生のときでした。それまではエレクトーンを習っていたのですが、ピアノという音色の魅力、ショパン、ドビュッシーのピアノ作品を弾きたいという強い思いから、どうしてもピアノを習いたいと親に訴えました。ピアノ以外の楽器の音色(特にオーボエ、ヴァイオリン)や、オペラ、歌曲、室内楽の作品も好きなのですが、今でもピアノの音色、作品に一番の親しみと愛情を感じます。
 
  さて、私は大学院から現在まで、戦前期における小学校音楽の歴史研究を続けていますが、今でも大学院入試の口頭試問のことをときどき思い出すことがあります。ある先生に、次のような質問をされたのです。「あなたはピアノを小さい頃から習ってきましたが、その経験とこれからしようとしている研究はどのようなところでつながっていますか」。この根源的な質問に、そのときはうまく返事ができなかったのですが、研究を続けていくうちに、自分のピアノ経験と歴史研究とのつながりが見えてきました。
 
  修士論文で取り上げた北村久雄という小学校音楽教師は、音楽独自の価値と特質について、次のように強く主張しました。音楽はほかの芸術とは異なり、いかなる観念の媒介もなしに、音そのものによって人間の魂に迫ってくる機能をもつ「音楽の直接性」と、音そのものの純粋な美しい響きをもって、人間を音楽と同化させる機能をもつ「音楽の純粋性」によって意味づけられるのだと。音楽美学用語でいえば、「自律的な音楽」の立場に拠っていたのです。しかし、本当に音・音楽そのものだけによって心に訴えかけるものなのか。音楽との一体感をもたらすのは、純粋な美しい音・音楽だけなのか。それまでの自分のピアノ経験と照らし合わせてみると、どうしても違和感があるのです。 
 
 私が音・音楽を感受し表現するとき、歴史、文化、社会に加え、日々の出来事が埋め込まれた作曲者の思い、それらが含み込まれた作品世界と向きあいながら、自らが発する音に耳を傾けます。アンサンブルの場合は、共演者が醸し出す音色、呼吸や間と、演奏会の場合では、聴衆の息づかいや微細な反応と応答しあいながら音楽世界を創造します。また、そのときどきの心情によって多彩な表情や感情を表すものとして、音・音楽が心に沁み込んできます。さらには音に伴う振動を身体全体で感じることも含めて、音楽として受けとめています。私にとって音・音楽は、ただ美しいから魅力があるのではありません。自分を取り巻くさまざまな関係のなかで、はじめてその意味をもちえるとともに、生きる営みと常に密接にかかわり、ときに心をおだやかにさせ、ときに心をざわめかせ、揺さぶり続ける存在なのです。現在、北村に代表されるような音楽美を一義に置く音楽教育のあり方がいまだ受け継がれています。音楽美に固執しすぎることによって、大切なものを見落としてしまう危険性があるように思います。今へといたる音楽教育の歴史的な構造と課題を浮き彫りにし、これからの新たな可能性を模索することが、大学院から取り組んでいる私の研究課題です。
  最後に、私の心をざわめかせ、揺さぶり続けてきたピアノ音楽をいくつかご紹介しましょう。ヴァン・クライバーンのラフマニノフ≪ピアノ協奏曲第2番≫、マルタ・アルゲリッチのラフマニノフ≪ピアノ協奏曲第3番≫、サンソン・フランソワのショパン≪ノクターン≫、ディヌ・リパッティのバッハ≪パルティータ第1番≫、ショパン≪ワルツ≫。

 興味のある方は、ぜひどうぞ。




恩師のこと

                 社会生活環境学専攻 共生社会生活学講座

                         阿部 敦  先生

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 これまでの経歴や研究について思うところを自由に述べて下さい――2008年10月に着任して間もなく、そんな依頼を受けた。その際、私の頭に思い浮かんだのは、二人の恩師のことであった。今回は、そのうちの一人であるA先生のことを述べることで、依頼されたテーマに対する自分なりの回答としたい。

  私が博士課程に在籍していた一年目の秋、某福祉系学会が九州大学で開催された。当時、A先生を中核に、他の博士課程の諸先輩方も、多数学会に参加されることもあり、僭越ながら私も参加することにしていた。慣れない学会に、専門分野における自らの無知さ加減を思い知らされる状況も加わり、私は精神的にかなり疲労していた。学会終了後、気がつけば、私は、夕食を求めて歩く一団の最後尾についていた。時間の流れが、妙にゆるやかだったことは、今でも鮮明に覚えている。
 
  そして、ちょうどターミナル駅の入り口近辺に着いた時だった。ダンボール生活をしていると思われるホームレスの男性に、A先生が何やら話しかけている。多少距離があったので、詳しい会話の内容はわからなかったが、それから彼は我々の集団に合流し、私たちは(おそらくその男性の紹介であろう)地元の美味しい屋台ラーメン屋に行くこととなった。もちろん、そのホームレスの男性も、その店で、我々と一緒にラーメンを食べていた。ビールを片手に小一時間くらい、我々は彼と同じ時間・空間を共有した。

 食後、一団はターミナル駅の入り口近辺に戻って来た。そしてホームレスの彼は、「それじゃあ、私はここで」と自らの小さなダンボール・ハウスの前で、私たちに言った。その時の彼の寂しそうな、それでいて無表情でもあるような何ともいえない表情を、私は今でも忘れられない。そして先生は、「それじゃあ、ここで」と彼と握手を交わし、我々は予約していたホテルに戻った。その際のやりとりは、私の心に、強烈に響く何かを残した。A先生が差し出した握手の手が、何の違和感もなく自然に出ていたことにも、私は(今だからこそ書けるが)正直なところ“動揺”した。

 私はその後、博士論文の指導で、A先生から大変多くのことを学ばせて頂いた。しかし、ある意味で、あの時の、あの男性ホームレスとの時間が、最大の論文指導だったように思う。今になれば、あの時、先生が彼にどのような言葉をかけていたのかを、自分なりに想像することができる。また、その行為の含意するところは、私のその後の研究スタンスに、少なからぬ影響を与えることとなった。

とてもA先生のようにはなれそうもないが、今後も恩師と旨い酒が飲めるように、それなりの努力はしてゆきたいと思う。諸先生方、どうぞ宜しくご指導下さい。






この夏の体験から

                 人間行動科学専攻 スポーツ科学コース 
                             成瀬九美 先生

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  8月下旬、伊豆での研究会の帰りに大雨が降りJR線がストップした。昼過ぎに伊東駅を出て夜には奈良に着くはずだった。しかし、「線路点検作業が終わり次第運転を再開します」「雨が強くなりましたので作業を中断します」と順繰りに構内放送が流れるだけで、列車は一向に動かない。代替輸送はないのかと駅員につめよる人、駅弁を求めて行列する人など、喧騒の光景も時間の経過とともに収まり、私はホームの端のベンチに居場所をみつけて座った。その日は8時過ぎまで待ったが動かない。素泊まりで宿を見つけ早朝に再び駅に戻った。結局、19時間遅れで出発するまで、そのベンチで約10時間を過ごした。
  しかし、研修会で一緒だったゼミの先輩と途中から合流したこともあり、退屈しない時間だった。女性の長話は良くあることだが、その日はお互いの家族への思い出話がとろとろと流れ出て、話しても聴いても情景が浮かび気持ちが動いた。会話は野球の試合のように表と裏の攻撃がはっきりしていて、その上、延長戦のように果てしなく続いた。
  一方で私は、状況を伝える構内放送が流れると、携帯電話を取り出して新幹線の予約を変更していた(今から思えばさっさと見切りをつけてキャンセルしてしまえばよかった)。その先送りする作業で脳裏に浮かんだのは、熱海駅で階段を駆け上がり、京都駅で改札を駆け抜けて近鉄電車に飛び乗る私の姿だった。輪郭はあいまいながらも彩りのある私と、くっきりとしているがモノトーンの私が、ベンチに座る私の中に交互に現れた。
  今、学生たちには将来の自分像を持つことが常に求められている。先に進む自分の姿を、彼女たちはどんな形と色で描いているのだろうか。






奈良に来て

               共生社会生活学講座  松岡悦子  先生

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  9月から奈良女子大学に勤め始めた松岡悦子です。大阪生まれの大阪育ちですが、ずっと20年間以上北海道で生活していました。専門は文化人類学、とくに医療人類学です。研究スタイルは文化人類学ですが、中身はリプロダクション(産む・産まない・産めない)にかかわることで、現在アジアの女性たちがどのように産んだり産まなかったりしているのか、リプロダクションに政治・経済・文化がどう影響しているのかを研究しています。リプロダクションは、女性と男性の違いが最も鮮明になる分野なので、ジェンダーの視点が入ってきます。

  さて、私が奈良女子大学に来て感激したことは、窓の外に鹿がいたこと。そして「来い来い」と呼ぶと、鹿がこっちを見て私と目が会ったことです。鹿は、北海道では(おそらく他の地域でも)野生動物(あるいは狩りの獲物)に分類されます。文化人類学者のリーチによれば、動物はペット、家畜、獲物、野生動物のどこかに属することになるのですが、奈良の鹿はそのいずれにも当てはまりません。リーチの分類に「観光資源」というカテゴリーが抜けていることを発見しました。

  もう一つ、私にとって新しい体験は電車通勤を始めたことです。北海道での自宅から大学までdoor to doorで歩いて10分、その間にコンビニ、ポスト、銀行なしとは大違いです。電車通勤のおもしろいところは、駅の雑踏と電車内で一時的に自分が「匿名の存在」になることです。大学と家との中間で、いったんどこの誰でもない人になって、電車を下りると別の役割の人になる。電車通勤の思わぬ心地よさです。でも、心地良いと言えるのは、奈良のような中規模都市ゆえのぜいたくかも。

  今は北海道と奈良と視点を移動させつつ、近鉄高の原と奈良駅の間で、また奈良女の構内でフィールドワークを試みています。これから仕事でご一緒させていただくことになるみなさま、どうぞよろしくお願い致します。




「ワールドカップサッカーと近代世界システム」

社会生活環境学専攻 生活環境計画学講座 
                    山本直彦 先生

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 かれこれ10年ほど昔になりましたが、大学院博士課程時代に、インドネシアに留学していたころ、東南アジアを経済危機が襲いました。インドネシアも経済状態が不安定になり、30年以上君臨してきたスハルト大統領の政権が倒れました。その後、社会情勢も悪化し、僕の住んでいた町内では毎日朝まで、住民による夜警をしていました。近所の人たちに混じって、僕の当番も1週間に1回やってきました。ちょうど1998年のサッカー・ワールドカップ・フランス大会が開催中で、道の真ん中にテレビを引っ張り出してきて、(ちょっと呑気なのですが)時差のおかげで夜中に生中継を見ながら賑やかに夜警をやっていました。

 決勝は、確か、フランス対ブラジルでした。ジダン率いる地元フランスがフォワード不在と言われながらも優勝しました。スポーツ新聞の総集編で、「現代サッカーは、多人種混成チームじゃないと勝てない。」という記事を読んで、確かにブラジルもフランスもそうだなと思いました。フランスの代表チームは、フランス政府の移民政策推進の「動く広告塔」としても知られています。

  なぜだろうと思いながら、しばらく忘れていましたが、4年後の日韓大会に出場した各国の代表チームの選手の顔ぶれを見ていて、あれ?!と思いました。当時、オランダが世界につくった植民地都市の研究をしていました。大航海時代の歴史の概略程度は頭に入っていたので、最初にヨーロッパから世界へ出て行ったスペイン、ポルトガル(第1世代)、遅れて続いたオランダ、イギリス、フランス(第2世代)で、旧植民地とヨーロッパ本国代表の人種構成が全く違っていることに気がつきました。

  「第一世代」の国の代表選手は、いわゆるヒスパニックの人々で、もともとスペイン、ポルトガル人です。その主な植民地は中南米です。唯一、ポルトガルの植民地だったブラジルだけは、人種混成なのですが、その他の強豪チームのアルゼンチン、ウルグアイ、メキシコなどスペインの旧植民地の代表選手は、(クレオールなどの混血はもちろんあるのですが、見かけは)ヒスパニックの人々です。

  これに対して、「第二世代」の先鞭を切ったオランダは、最終的にはインドネシアと中米スリナムだけを植民地として持ち続けたのですが、クライファート、ダビッツ、セードルフなど、本国代表にスリナムに出自を持つ選手がいます。往年の名選手フリットやライカールトも元はスリナム出身です。イギリス代表も多人種チームです。ナイジェリアは旧英領ですが、名選手オコチャを始め、皆が身体能力の高いアフリカ人の選手です。フランス代表が多人種チームなことはいいましたが、セネガルやカメルーンなど旧仏領の代表チームはどうかというと、やはり、全員アフリカ人の選手です。

  なぜか?第一世代はカトリック、第二世代はプロテスタントということが大きな理由のひとつだと思います。カトリックの重要な教義は、キリスト教世界を世界に広めることです。新世界で布教するためには、現地埋没の覚悟で一緒にそこの人々と住む必要があります。簡単に言えばプロテスタントは、教会の権威に従うのでなく自らの本分に精を出しなさいという教えです。一生懸命仕事に打ち込むのがいいというわけです。つまり、植民地に行くと一生懸命お金を儲けるのですが、一旗揚げるとリッチになって国に帰ります。現地の安い労働力を使うことは、帰っても止められなかったでしょう。

  つまり多人種チームは、植民地闘争を勝ち抜いてきた国という側面があり、そうした国がワールドカップも勝ってきたと気づいて、複雑な思いを感じました。ただ、少し新たな時代を感じもしました。初戦ではセネガルが、かつて支配された前回覇者フランスを倒し、韓国は日本より上に勝ち上がったし(もともと韓国のほうが強いけど)、我々にとっては何より日韓(Korea-Japan)共催でしたから。




大学院時代を振り返って思うこと

 

                  社会生活環境学専攻 社会・地域学講座
           吉田容子 先生

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  本学の大学院人間文化研究科で平成17年度より実施の「魅力ある大学院教育」イニシアティブ−生活環境の課題発見・解決型女性研究者養成−教育プログラムの授業科目として,平成18年度より大学院博士後期課程にあらたに開設された「研究プロポーザル演習」を,瀬渡章子先生と一緒に担当している。本年度(後期)で3年目の担当となり,少し軌道に乗ってきたような気がする。「やれやれ」と思っていたら,本年度前期の「女性研究者キャリア論」(博士前期課程)を,本山方子先生・向井洋一先生と3名で担当することになった。

  「研究プロポーザル演習」「女性研究者キャリア論」の授業は,学生のみなさんが‘大学院でどのように学ぶのか’について自分なりに考えてもらいたいというねらいがある。そのため,本学大学院を修了して研究職や高度専門職に就いている方にゲストスピーカーとしてお越しいただき,「大学院時代に何を考え・どのように過ごしたか」を受講生のみなさんに話してもらっている。私たち担当教員が大学院時代を振り返って話をすることもある。

  私の大学院時代,研究を進めるのに何か‘こだわりのスタイル’があったわけではない。というか,そんな‘こだわり’など云々言っている場合ではなく,大学への就職に焦りを感じながら,同じ年代の(別の大学の)大学院生たちに遅れを取らぬよう,がむしゃらにやっていたのだが,悲しいかな,空回りすることが多かった。

  ‘こだわり’と言うにはほど遠いが,私は,‘毎日大学へ行くこと’に決めていた。実家を離れてアパート暮らしだったため,アパートで勉強するには誘惑が多すぎた。「さあ今日は論文書きに集中するぞ」と思って机(コタツの代用)に向かうものの,すぐに集中力がなくなって寝転がったり,テレビを見たり・・・。夜になると,「今日は予定の10分の1も進まなかった」と後悔したことが何度かあった。なんとかせねばと思い,月〜金曜はもちろん土・日も院生室で過ごすようにして,否が応でも勉強する環境へと自分を追い込んだのだった。さらに,院生時代に指導を受けた先生からは‘アルバイト禁止令’なるものが出されていた。高校や予備校で非常勤講師をする時間を研究に費やしなさいということなのだが,当時の‘貧乏院生‘にとっては酷なお達しであった。全くバイトもせず毎日大学の院生室で過ごしたその頃は経済的・精神的に相当辛かったが,いま考えると,自分の研究時間をたっぷり確保することができたとても贅沢な時間だった。
 
  それぞれの院生に合った大学院での過ごし方があるだろうから,私の経験を押しつけるつもりは毛頭ないが,人生のある一時期,ひとつのことだけに集中してそれに埋没してみるのも有りじゃないかと思う。





研究は何のためにやるのだろう?
           −ローヤリングのシンポをきっかけに考えてみた

       

社会生活環境学専攻 共生社会生活学講座   
大塚 浩 先生 

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 一昨日、シンポジウムで報告をした。私の専門分野の学会(法社会学会)での企画なので、研究者や弁護士が参加して、かなり突っ込んだ議論が行われた。シンポのテーマは、弁護士と依頼者の関係を弁護士倫理の観点から検討するというものだったのだが、今回はいろいろと思うところもあり、特にシンポジストを請け負ってよかった、と思った。
  弁護士とか、裁判官も含んだ法律家、というと皆さんはどんなイメージを持っているだろう。ドラマや映画では刑事弁護や少年事件で、正義の実現のために奮闘するというのが定番の活動分野のように見えるが、多くの弁護士にとっては、それらの分野は時間的にもケース数的にも、また収入の面でもむしろマイナー分野と言っていいと思う。そもそもこれらの分野だけで事務所の経営を維持するのは難しい。国によっても違うのだが、日本の場合は、金銭債権関連、要するにお金の貸し借りにかかわる問題とか、近年では破産事件などが多くなっているようだ。全弁護士の半数が活動場所にしている東京(この大都市偏在もそれ自体大きな問題だ)では、ビジネス分野、要するに企業に対する法サービスの提供(契約や労働にかかわる紛争予防や、知的財産権管理、また、訴訟代理)の分野が急伸している。これらの分野はなかなかドラマにはなりにくいが、アメリカでは巨大事務所(ローファーム)が発展しているので、事務所そのものを舞台にしたドラマは結構あるみたいだ。では、このような企業分野は、正義の実現とかかわりないかといえば、そんなことは全然なく、最近企業経営でよく言われる「ガバナンス」とか「コンプライアンス」を通じて、CSR(企業の社会的責任)を果たすための基礎的な視点を与えているともいえる。

 他方の極では、最近できた「法テラス」での低所得者層を中心とした法律扶助や、刑事で国の費用で被疑者・被告人に弁護士をつける仕組みである国選弁護などの公益活動がある。また、”cause lawyering”といって、弁護士が自身の道徳的価値観から行う法サービスの提供を通じた政治運動・社会運動の領域も重要な分野だ。こう書くと何のことかわかりにくいかもしれないが、公害訴訟とか薬害訴訟、靖国訴訟、オンブズマン活動、クレジット・サラ金被害者救済運動、最近話題になったものだと死刑廃止運動を背景にし、世論からは一種のバッシングを受けた光市母子殺害事件での被告人弁護活動なども、もしかすると違和感を感じる人もいるかもしれないが、そう言ってもいいかもしれない。
 
こう書き連ねてくると、じゃあ、弁護士が実現すべき正義というのは一体何のことなのかもはやよくわからなくなってくる。実は、このようにものすごく多様な価値に基づいた活動を、「法的」正義の実現にかかわる活動としてすべて包摂できるという建前をもつのが、医療や宗教などとも共通する専門職の特徴といっていいだろう。
 
  面白いことに、私たちが弁護士の主たる活動分野とイメージする刑事弁護や公益活動、”cause lawyering”の分野など、弱者に対するサービス提供分野のほうが、企業分野などに比べて、弁護士の判断が依頼者のそれを圧倒して、その意思が置き去りにされてしまうという倫理的問題を発生させる可能性が高いといってよい。これは考えてみれば当然のことで、弁護士にとって企業や富裕層は事務所経営を安定させてくれる上得意なので、弁護士の判断の押しつけなどは起こりにくいわけだ。

 だけれども、やはり専門家がその熟練したスキルを通して依頼者の当初の意思を超えてそれを導き、エンパワーメントしていく活動もやはり社会・公共に「善」をもたらす活動として貴重だ。クレサラ被害者救済運動の集会に参加した時は、ちょうど貸金業関連の法律改正に成功したタイミングだったので、大変な盛り上がりようだった。弁護士がいないなあと思ったら、高利貸しに対する運動でもある秩父事件の映画の衣装をまとって華々しくステージに登場され、仰天したものである。そのような弁護士たちに依頼者たちが文字通り涙を流しながら握手を求めてくるさまを間近で見ていると、こういう活動の理論的意義をきちんと基礎づけることが、研究者の真の社会的役割なのかな、という気もしてくる。

 というわけで、シンポジウムではその方向で頑張ってみた。専門的な観点から言うとちょっと難しい仕事なので、批判も受けたし、また他方では興味や賛意もある程度いただけたようにも思う。高名なビジネスローヤーが好意的な見方を示してくれたのはうれしかった。

 最初の話に戻って、なぜ私が「やってよかったと思ったか」、というのは結局、私自身もやはり社会・公共に対してもっている理想やcauseが弁護士同様にあり、それにもとづいて原理的に重要な貢献のできる可能性のある見方を発信できた(ように自分では思う)からだという単純な理由によるのだと思う。

 自然科学も含めて研究に特定の価値とかポリティクスからの中立などはあり得ないというのが常識的な見方になっているが、だからといってもちろん研究の際の開き直りは禁物だろう。だけれども、私たちが普段対象にしている現象、制度、組織、集団、資料などを深く分析したその結果を通じて内在的に導かれる視点から、社会に”public goods”を提供してゆくことは、むしろ機会を得て研究活動を行う者の社会的責任ではないだろうか。

 というわけで、ちょっと固い感じになってしまったが、私自身、もっと世のため人のためになれる人にならないといけないなぁ、と、学会のあった神戸の南京町でミーハーにも新聞のランキングで2位になった店で肉まんをほおばりつつ、ぼんやり考えていた。

                                        以上




vol.046          

研究テーマ

                大学院人間文化研究科 人間行動科学専攻
                              中山満子 先生

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  学生の頃「心理学の学生って,自分に悩みがある子が多いよね」という言葉をよく耳にした。家族関係,自尊感情の欠如,対人不安・・・。確かに教員になってからも,学生の研究テーマの選び方って随分と「自分の体験」と密着しているな・・・と感じることが多かった。もちろんそれは一概に悪いことではないのだが,自分が挫折感を味わったから「人はどうやって挫折から立ち直るのか」,自分と母親の関係に悩んでいるから「青年期の母子関係」がテーマというのは・・・と,「実験心理学どまんなか」を自認する私としては,このようなテーマ選びを密かに批判的に見ていたのも確かである。

 ところがいつの頃からか,私自身の研究テーマが自分の体験に密着したものとなってきていることに気づいた。10年くらい前に研究テーマをシフトする必要があり,インターネットと人間の行動という大きなテーマで研究をすることになった。なかなか研究を立ち上げることが出来ず悩んだ時期に,ふと「私の回りの人は,どうしてこんなにインターネットに対してポジティブなんだろう?」「どうして私は消極的なんだろう?」と考え,それがきっかけになってインターネット利用行動と欲求,不安,態度といったものとの関連を調べる研究を行なうようになった。また数年前には自分が母親になり,それまではまったく興味のなかった親子関係や母親どうしの関係(いわゆるママ友)にも学問的に興味を持つようになり,気がつけば自分の研究テーマになっている。

 ・・・ということで,「実験心理学どまんなか」からふらふらと浮遊しはじめた私の研究テーマ。この後どこにいくのか,自分でも見当がつかない。




vol.045          

潘家園旧貨市場

                大学院人間文化研究科 比較文化学専攻
                              武藤 康弘先生

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 潘家園旧貨市場は北京最大の骨董市場である。毎週土・日には、出店数が3000軒を超える規模にまで膨れ上がる。場内は、壁のない大きな屋根つきの建物とそれを囲むように配置された細長い二階建ての建物群から構成されている。その脇には、石造彫刻を展示した区画と駐車場が付設した広大な敷地である。土日は早朝から骨董品を買いに来る人でごったがえし、朝10時頃になると観光客も加わり身動きがとれなくなってしまう。 

 どんなものが売られているかというと、いわゆる書画骨董の類が中心となるが、陶磁器や玉器にとどまらず、少数民族の刺繍や染色工芸品・織物、さらには毛沢東バッジ等の文革物まで、中国各地から様々な物資が運ばれてくる。なぜ、これほどまでに骨董品や民具を求めて、中国内外から人々が集まってくるのだろうか。中国では、富裕層の増加とともに美術品や骨董品の市場が急速に拡大しているのが最も大きな要因である。各地に同様の大きな市場が形成されつつある。それに加えて、価格が手ごろなこともあって、外国人観光客も骨董品を求めて大挙して押しかけてくるのである。

 潘家園旧貨市場は、まさに北京を代表する観光スポットと化しているのである。市場のある潘家橋は三環路とよばれる環状線上にある。空港からはリムジンバスで直接アクセス可能である。この環状道路沿いには、現在の中国経済の活況を物語るように近未来的デザインの高層ビルが林立している。バスの車窓から眺める北京の町並みと潘家園の雑踏は、まさに現在の中国経済を象徴する光景なのである。




vol.043          

<院生による概論>のススメ

                社会生活環境学専攻 社会・地域学講座
                              小川 伸彦先生

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 人はどんな時に多くを学ぶのでしょうか。
教わるときより教えるとき。これが答えではないかと思います。

 大学院生も例外ではありません。講義に出るよりも、シロウト相手に教える難しさと面白さを経験したとき、ひと回り成長するはず……。そう考えて本年度、自主ゼミ形式で立ち上げたのが「院生による現代社会学概論」(主催:奈良女子大学社会学研究会)です。

 昨年5月から本年2月まで、社会学を専門とする計16人の院生や修了生がひとり一回づつ模擬の教壇にたち、聴講は全学によびかけました。講義の題材は、ジェンダー論、差別問題、アニメーション、医療、家庭の誕生、社会的逸脱、デンマークの家族、中国の家族、南アフリカの教育、R.マートンの社会学、企業福祉、障害学、環境問題、現代社会学の理論、女性学の流れ、など多彩です。留学生による英語の授業もありました。

 実施方式は次の通り。

 毎回、講義は70分ほどにおさめ、残りの20分は教授法についてのディスカッションにあてる。さらに無記名のコメントペーパーをフロアから募る。授業ですから、必要な機材の準備や設営も講義担当者ができるだけ自力でやります。さらに全体をサポートするのが、季節にふさわしいデザインのチラシ作りや、毎回の結果報告配信などです。

 学部生もふくめ年間でのべ150人ほどが聴講し、登壇した院生からは「はじめて授業をして、とても勉強になった」などと好評でした。

 概論とはスタンダードな知識の提供です。あえて<概論>を看板にする本取組のねらいは2つありました。ひとつは、狭い専門に閉じこもりがちな院生が、自分の学問を平易に語れる広い学識と視野を獲得すること。もうひとつは、院生自身の教育力アップ。「奈良女の院生はわかりやすい授業もできるらしい」。こんなウワサをひろめて、教育・研究職を目指す院生の就職を支援できればと、来年度の準備をはじめています。

 院生による概論。本学の他の分野でも、試みられてはいかがでしょうか。実現すれば、ぜひ聴講させていただきたいものです。

P.S.  楽屋話ですが、運営にお金はあまりかかりません。年間の全経費は、チラシ作成代の約1万円のみ。運営事務は院生ボランティアに頼りました。ただ、自主ゼミといいながら、教員が口を出しすぎたかもしれません。自主性の強制!? いけませんね……。




            

vol.042  区切りの時を迎えて

 

                社会生活環境学専攻 生活環境計画学講座
                           牧野 唯 先生

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先日、平成19年度修士学位論文発表会がありました。大学院生が、それぞれ取り組んできた研究テーマに一区切りをつける時です。人間環境学専攻住環境学コースでは初めての試みとして、昨年6月に2回生を対象とした中間発表会を行いました。その時に、教員から投げかけられた質問や意見は、咀嚼され、反映されただろうか・・・その後も学会で研究発表を重ねていく院生達を、教員一同はあたたかく見守りながら、半年間を過ごしました。

 院生時代とは、考え込むことに人目はばかることなく時間を割ける貴重な期間です。身近な生活環境に目を凝らし、問題の所在を突き止めようと、ものの見方、思考の方法を、指導者から学んでいきます。フィールドとの出会いには巡り合わせがあり、研究室での様々なタイミングによるところが大きいとはいえ、テーマとの出会いは、その人にとっての必然となり、しっかり貫いて新しい価値観を導き出すのに不足はありません。

 本学の大学院で過ごす2年間が、院生にとってかけがえのない学びの場となるよう、来年に向けて気持ちを新たにしました。




vol.041


人間行動科学専攻 人間関係行動学コース(実験心理学)
天ヶ瀬正博 先生           

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 心理学の究極の課題は生命体が有する能動性の謎を明らかにすることである。能動性とは自ら成長し運動することである。しかるに、独立した学問としての心理学の誕生は、ことばの意味や思考の論理性や行為の原因を心や脳に求めたのが契機であった。かくて心理学はバージョン・アップした霊魂論となり、究極の問いへの答えは遠のいた。

 能動性は魂に発し身体は受動的な反応機械に過ぎないとデカルトが唱えて以来、世界も生命体も機械とされ、教育を含む近代の「科学技術」は機械論を基礎にした。20世紀には人間すら機械と化し、労働は使役されるものとなり、大量生産と大量殺戮の技術が誕生した。人間性の回復が求められているのに、心理学は魂を扱う「技術」として商品化されるに到った。いまだ究極の問いへの答えをみないでいる。

 私たちが学生たちに究極的に願うことは、課題や試験への応答性ではなく、学びの能動性でないだろうか。マルクス主義に憧れていたはずの父は「お前らは牛や馬と同じだ。鞭で打たれないと学ばない」と言い、体罰を非難された教師をかばった。その体罰教師は「水辺に連れて行くことはできても、牛に水を飲ませることはできない」とよく口にした。「ぼくは牛じゃない」と反発して私は能動的になった。(この錯綜!子どもは不思議だ。)

 環境は整ったかもしれない。手は尽くしたと思う。後は能動性なのだが。





vol.040 

    社会生活環境学専攻 社会・地域学講座
 石崎研二 先生

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 院生に覇気がない。いや、これは身近な例から感じることである。控えめであること、穏やかであることは、本学の学生の美徳だと思うのだが、もっと尖って生意気であってほしいと思う。

 以前、とある先生から次のようなおもしろい話を聞いた。学力とはロジスティック曲線のように成長する、と。ロジスティック曲線とは、生物の個体数の段階的増加を表現したものだが、時間とともに緩やかに増加する初期、急増する中期、そして増加率が鈍化する後期に分けられる。先生曰く、学部生は初期、院生は中期、教員は後期に当たる。そして、各段階の曲線の接線で将来を展望する、あるいは過去をふりかえるというのだ。

 学生の段階では、いくら接線を延ばしても院生や教員の域には達しない。だから、予想以上に高い段階にある院生や教員のことをすごいと思う。しかし、急増期に当たる院生の接線は傾きが大きくなるため、自分の将来予想を下回る上級生や教員に対して、つい生意気な態度をとる。だが、これが健全な院生の姿なのだ。もっと上級生や教員にくってかかってほしい。それが急成長していることの証ではないだろうか。

 さて、かくいう教員はというと、曲線の後期の段階で接線を過去に延ばしたときのことを想像してみてください。





vol.039 
「奈良にいるならでは」の研究を

            

                          社会・地域学講座  鶴田幸恵先生

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  東京のように自分の専門にぴったりあった研究会があるわけでもなく、そもそも研究会の数もそんなに多くない。10年近く、ほとんど東京でばかりフィールドワークをしていたので、調査の足場もない。どうしたものかと不安に思いながら、昨年6月に奈良女子大学へやってきました。それから半年ほど経つ間、あっちこっちに顔を出し、関西での研究会にもフィールドにも、やっとなじんできました。
 
  そうして気がついたのは、奈良で研究をする楽しさ、うま味です。関西の研究会は、研究者の数が少ないためか、どこも学際的なようです。発表をさせてもらえれば、他分野の研究者から意見を聞くことができ、広い視野で自分の研究を見直すよい機会になります。また、関西の人のネットワークの作り方も、やはり人数が少ないためか、独特なものになっているようです。そのためフィールドに行っても、奈良ならでは、関西ならではだと思うことに出会うことも多いです。その独特さは、奈良に、関西に腰をすえ、じっくりとフィールドワークすることで、出会えるものに違いありません。

  しかし、奈良女子大学の院生さんとは、研究会で出会ったことはまだないし、噂を聞いたこともありません。奈良に住み研究をしているという地域性を生かした、あるいは地域性に着目したフィールドワークをしている人も、社会学ではそんなに多くはいないようです。なんともったいないことか。そう思うと同時に、東京の大学でも京都大学でもなく奈良女子大学にいることを、戦略的に利用しなくては生き残れないのではないかと危惧しています。それは、今後の自分自身の研究に当てはめてみて、切実に感じることです。

  奈良にいるうま味を、東京にいたからこそ知っている奈良にいるゆえのマイナス点とともに、ちょっとずつでも院生さんたちに伝えていけたら。そのためにも、どんどん研究会で発表をして、奈良での、関西での経験の独特さがわかる論文を、早く書かかなくては。そして、院生さんたちに「してやられた」と思ってもらえたら、最高。そんなことを、最近考えています。




vol.038 

わかりきった

            

                             人間行動科学講座   柳澤有吾 先生
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 この季節になると(ならなくても)大学院の定員充足問題が気になるテーマとして挙がってくる。大学院の拡充が説かれて久しく、ここ十数年で大学院生の数は約3倍にもなっている。定員増の中、とくに奈良女の大学院でなければという理由が乏しければ志願者が減るのは当然で、大学院を手放す決断をするのならともかく、それができないのであれば、なんらかの個性化を図らなければならない。

 もちろん、突飛なことばかり考えるのではなく、「地道にやる」というのも―きわめれば―ひとつの立派な個性化だろう。どれもわかりきった話ではあるのだが、単に「わかりきった話」で終わってしまうことが問題なのかもしれない。

 プロジェクト型予算配分に引き回される日々が続いており、いま現在も「大学院教育改革プログラム」への応募が懸案事項の一つ になっている。こうした課題への対応を迫られるなかで、大学のあり方や各種の「資源」、地域との関係などを十分に反省できるなら、それはそれでひとつの契機として肯定的に受け止められる部分もあるはずだが、必ずしもそのようにはなっていないように思われる。

 その理由について考え出しても。結局はまた「わかりきった話」ばかりになってしまいそうだが、ひとつだけ取り上げるならば、「中小企業」なら「中小企業」らしく、「社員」一人一人との「対話」がもっと重視されてもいいのではないかと(本気で)思う。コース(講座)会議や専攻会議などのなかで埋もれていってしまう「声」の中には、耳を傾けるべきことが予想以上にたくさん含まれているのではないだろうか。





vol.037 

                                    生活環境学部 住環境学科

                      藤平 眞紀子  先生

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 日頃、研究室の机の上には種々の書類が散乱、山積み状態である。なんとかならないかと、自分の乏しい整理・整頓力を空しく感じることが多い。運良く ファイルに収められていると、いざという時に役立つものである。

 さて、本大学院イニシアティブに関して、一冊のファイルがある。タイトルは「FD部 会」、最初の頁に部会ごとのメンバー表が入っている。私の名はFD部会 に記されており、現在に至っている。そこで、ここでは、私の目からみたFD部会の様子を紹介させていただきたい。

 なお、あくまでも一部会員による目視観察によるものであり、一部、経験的に得られた情報も含んでいる。目視観察では、観察者の主観が入りやすい場合もある。また、観察者自身のことはみることができない。この点をお許しいただきたい。FD部会の様子を以下に箇条書きする。

・アイデアが豊富である
・無口ではいられない
・時々迷子になる
・素直である
・試みる
・実行力がある
・支えられることがある
・ほっとすることがある
・新たな発見がある
・一部にすごいパワーがみなぎっている
・きちんとしまる(しめる)
・素敵な出会いがある

  FD部会の様子をご想像いただければ幸いである。さて、FD部会では、年明け2月ごろに、FD研修会を予定している。今までは、院生も含めたFD研修・ 交流会が多かったが、今回は、河合塾の方を講師としてお招きし、大学院受験の動向等についてお話いただけるよう準備を進めている。

 FD研修会へのご要望 等ありましたら、お近くのFD部会員まで、よろしくお願いします。






vol.036 

いざ、「思考の向こう側」へ!! 
――大学院生と接する日々に思う――

             

社会生活環境学専攻 人間行動科学講座

                         木梨雅子 先生

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  俗な話題で恐縮だが、最近、お笑いタレント田村裕が著した評判の『ホームレス中学生』を購入、一読した。その中に「味の向こう側」と題する話がある。ご存じの方も多いかもしれないが、おおよそを紹介すると、文字通りの極貧生活を送っていた田村少年が、ある日わずかばかりの食事――お茶椀1杯にも満たない白米ご飯だけ――にありつけた。それを味が無くなった後も「延々と噛んで噛んで噛んで」いくと、一瞬、何とも言えぬふわっとした甘い味がしたという体験談である。すこぶる幸せな気分になった少年はこれを「味の向こう側」と名づけた。

  現在、私は大学院助教という立場上、専攻・講座の枠を越えて何人もの院生に接する機会に恵まれている。院生たちに、上記「味の向こう側」の話をすると、必ず誰かが冗談交じりに、「思考の向こう側」を目指そう、と口にする。言いだす院生の大半は、それぞれ論文の完成に向け、ラストスパートに突入している。かねてから育んできた自らの「研究」について「延々と考えて考えて考え」る日々。思考が尽き果て、諦めかけた時、新たな一瞬の閃きが、幸福感と共に必ず頭をよぎることを信じて、奮闘し続けよう――という意味の例えだそうだ。

  そういえば、かつて自分が院生だった頃、そんなフレーズこそなかったものの、似たような心境で学生生活を送っていた。私が「向こう側」に到達できていたかはわからない。だが、研究とそして自分と向き合い、言葉を紡いでいく難渋な作業が、たまらなく貴重で魅力的と感じた一瞬は確かにあった。

  冒頭『中学生』のエピソードには続きがあって、その後も幾度となく少年は「向こう側」への到達を試みるが、二度と達することはできなかったという。食を渇望するゆえに味わえた幻の味。なるほど置き換えると、知へのハングリー精神が「向こう側」への必須アイテムということか。ならば、大丈夫。夜を徹して勉強することも珍しくない彼女たちが、向こう側へ到達する日は近いはずだ。
 
  しばらくは「いざ、向こう側へ!」を合言葉に、健闘を祈ることとしよう。





vol.035

徒弟修業とパターナリズム

              

人間行動科学講座   西村拓生 先生


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 私が学んだ大学院は「捨て育ち」がモットーだった。が、このモットーを好んで口にされる私の恩師は、古風で厳格な徒弟制的指導をされた。恐る恐る持って行った原稿は、ある時は「しゃらくさい!」のひと言で引き裂かれ(比喩に非ず)、またある時は、原形をとどめぬまで朱を入れられた(もとい、入れていただいた)。「捨て育ちなら放っておいてくれ!」と、ほとんど呪詛の言葉をつぶやきつつ、それでも私は、研究者に必要ないくばくかの技と気概を身につけられたように思う。そのことを、今は感謝している。

 奈良女に来て後期課程を担当するようになった時、自分の学生たちには、あんな思いはさせたくない、と念じる一方、人文科学の研究者養成は徒弟修業でしかできない、とも確信していた。省みれば、自分が受けた教育の「物語」から自由になるのが如何に困難か、という典型的な症例である。

 その結果、私の指導は、どうやら女子大特有のパターナリズム(父権的温情主義)に陥ることになった。私の親切さ(のつもりだった)は学生の自立を妨げ、私の学問的厳格さ(のつもりだった)は学生の発想を制約していたようなのである。

 幸か不幸か、私は今、担当の学生たちからの様々な反逆に直面している。そのエネルギーが、彼女たちの研究者としての自立につながって行ってくれるよう、祈るような気持ちでいるのだが…。




vol.033

大学院イニシアティブ・・・若手研究者への期待

                   

 

社会連携センター長  鍜冶幹雄 先生

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 学生時代に、「学部は、勉強の仕方・本の読み方を学ぶところ。大学院は、研究の仕方を学ぶところ。」と教えられ、今も心に残っている。この言葉の本質は変わらないと思うが、現実の大学を囲む環境は大きく変化している。この変化に対応するため、本イニシアティブの役割は大変重要であり、今後の大学院教育を考えていく上での期待には大きなものがある。

  例えば、研究の仕方にしても、よりそれぞれが自立して研究することや、広い視野を持ってテーマに立ち向かうことが期待されている。視野の広さといえば、私の企業での30数年の研究生活のなかで、「横に視野が広く、かつ縦に深い実力を持つ、T字型やπ字型の研究者となれ。」と指導され、またそれを受け継いで指導してきた。現実にはこのことは、例えば、最近の工学系博士課程修了者や、ポスドクの企業との就職マッチングがなかなか思うように進んでいないことに見られるように、口で言うのはやさしいがまだまだ課題も多いのが実情である。
 
  しかしながら、日本の研究の将来は、若手研究者にかかっている。本イニシアティブを通じ、こういったT字型やπ字型の研究者が数多く育って欲しいと望むとともに、私自身も担当科目(インターンシップ実習、学術プレゼンテーション演習)を通じて微力ながら努力をしていきたいと思っている。





vol.032

大学院の魅力は? ―本イニシアティブへの期待―

 

文学部長 出田和久 先生

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 学生にとって大学院教育の真の魅力は何かと考えてみると、それは既成の知だけではなく、未確定の知をも対象としていることだと思う。だから私はいつも、従来の知識からはここまでは確かであろうが、ここから先は必ずしも確かではない。未知の事柄も多いことを、伝えるよう心掛けている。確定した専門領域の知を伝えることを中心に考えれば、本学の少人数教育のコストパフォーマンスはよくないが、未知の世界を探求する(チョッと大げさ?)という側面からすれば、その利点は大きい。
 
  一方、イノベーションの現代にあっては、知識や技術の陳腐化が早いから、常に新しい知識や技能・技術の獲得が必要となるので、主体的に「学び研究する」姿勢は重要である。大学院ではなおさらであるが、主体的に「学ぶ」・「研究する」姿勢を身につければ、大学で獲得した知識や技能が直接役立つことはなくても、どこかで新しい問題に直面した時に、課題の発見と解決に役立つ知識や技能を獲得する道筋を比較的容易に見つけることができるだろう。

  このように考えると、「大学院生の自主活動支援」を導入して、課題解決能力を培うことを目標の一つに有する本イニシアティブは、大学院教育に求められる本質を内包しており、その意義は大きく、成果が期待されるところである。





vol.031

「女性研究者キャリア論」の役得

 

             社会生活環境学専攻 共生社会生活学講座 
 宮坂 靖子 先生

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  私は本山方子先生(人間行動科学専攻)と一緒に、「女性研究者キャリア論」を担当させていだくことになり、今年2回目の授業を終えた。本学の特徴は、女性研究者のモデルが多いということであるので、そのメリットを十分に生かし、授業では、本学教員や本学と関連ある研究者など多くのゲストスピーカーを招いて、就職までの経緯や現在の職業生活などを、時にはライフヒストリーも織り交ぜながら話していただいた。
 
  昨年度の受講生からの感想に、「担当教員もゲストも女性ばかりで女性に偏っている」という指摘や、「大学の教員ばかりでなく民間企業の研究員の話も聞きたい」という指摘があり、今年の授業では、男性研究者や民間企業の研究者など、多彩なゲストをお招きすることができた。

  もちろん、学生に大変好評だったのは言うまでもないが、私自身も学ばせていただくことが多く、楽しみな授業であった。本学ではそう珍しい存在とは言えない女性教員であるが、一人一人の先生方のこれまでの歩みは、公私ともに並大抵なものではなかった。が、それを、何事もなかったようにさらっと流してしまうところがまたすごい。パワーを分けていただき、その上自分の生き方を考えるよい機会も与えていたいたことは、担当教員冥利に尽きる。ゲストとしてご協力いただいた皆さまに、この場をお借りしてお礼を申し上げる。
  (最後に、まったくの余談であるが、「女性研究者の未婚率41%」(ちなみに、男性は17%)と説明した際のどよめき。これも今年の授業で印象に残っている一齣である。)




vol.030

46%の意味:「女性研究者の王道」

 

               社会生活環境学専攻  社会・地域学講座
高田将志  先生

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  拙文と関係する大学院イニシアティブのポスターは,味のある写真一つをとっても,関係の方々のアイデアと奉仕精神に溢れる労作だなあと思っていたある日,某研究所に勤務する研究者の方からこんなことを尋ねられました.『「女性研究者の王道」修了生の46%が大学教員』を見てのことです.「この数字は全部パーマネントの職についておられる方ですか?何で国の研究所や民間企業の研究者を入れないんですか?大学院修了後の進路の可能性という意味では,残り54%についての方を知りたいですね.」
  私自身,正確な数字を把握しているわけではなかったので,きちんとした受け答えができず,身近ないくつかの事例を述べるしかできませんでしたが,皆さんならどうお答えになったでしょうか.近年の大学院生の進路,とくに博士後期課程修了者の進路を当事者の立場に立って考えると,先行きの不透明感にため息が出そうになります.しかしながら大学院生を受け入れる側としては,ため息をついたり,嘆いたりするだけでは,社会的責任を問われかねません.その意味では,新しい様々な取り組みを進めることで,大学院教育の改善に努力するのは,当然といえば当然でしょう.一方で,大学院教育の「王道」は,究極的には,大学院生自身の研究力のレベルアップと,その力が正当に評価され生かされ得る環境をサポートする,という点に集約されようにも思われ,これに関しては昔も今も大きく変わってはいないような気がします.
   冒頭のエピソードのように,「外部の目」というのは時に,新しい視点を我々に提供してくれます.「内部の目」からの改善は無論ですが,とくに「外部の目」からの指摘に謙虚に耳を傾けながら,改善に向けた新しいチャレンジを行う重要性を改めて感じた次第です.一方で,そのような「外部の目」からの指摘で逆に,自分達の培ってきた良い点を再認識できる場合もあると信じたいものです.腰を落ち着けた昔からの地道な取り組みと新たなチャレンジ,双方のバランスこそが,新しい時代の大学院教育に必要ではないでしょうか.
   余談ですが,大学教員の世界に足を踏み入れるのが遅かった私も,当初,多少なりとも持ち合わせていた「外部の目」的視線が,だんだんと失われつつあるようにも思っています.自分の視線が偏っているかもしれない,ということを謙虚に反省せねば,と感じる今日この頃です.





vol.029

 

留学のすすめ

 

            国際交流センター
センター長 西堀 わか子  先生

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 学生が、海外の大学や研究機関などで勉強や研究を行うことを奨励する文部科学省事業の一つに、「教育の国際化推進プログラム(長期海外留学支援)」というものがあります。この事業に寄せる各大学の関心がこのところ高まっています。
  この事業は、修士又は博士の学位を取得することを目的に学生を海外の大学へ派遣するプログラムや、学生がアジア諸国で長期間専門の研究を行うといった内容のプログラム(取り組み)を持っている大学が、それらのプログラムに基づいて学生を派遣する場合に必要な経費を文部科学省に申請するというものです。この事業に採択されると、学生は授業料や航空運賃、月々の奨学金の支給を受けられます。この事業が狙うところは、一つは国際社会で貢献できる人材を育成すること、もう一つは大学の国際競争力の強化を図り大学教育の改革を促進させることにあります。
  奈良女子大学は、この事業に応募するために「奈良女子大学長期海外留学派遣プログラム」を平成19年度に立ち上げました。立ち上げと同時に、学生を募集し、文部科学省に申請したところ、修士の学位取得を目的に留学する学生1名が採択されました。学内での書面審査と面接、語学力、文部科学省へ出向いての日本語・英語による面接受験など、高いハードルを越えなければなりませんが、今後、この事業に挑戦する奈良女生が増えていくことを期待しています。

 大学院イニシアティブは、文字通り国際的に通用する人材を育成するための教育・研究プログラムです。そこで、イニシアティブ担当の先生方にお願いしたいことは、このプログラムにご関心をお寄せいただき、優秀な学生に応募をお勧めいただきたいことです。11月には文部科学省の公募が開始されます。

 ちなみに、平成19年度の派遣が採択された大学は、北大、東北大、筑波大、東大、東外大、一橋大、信州大、名大、京大、阪大、神大、奈良女大、広大、愛媛大、九大、九工大、佐賀大、熊本大、鹿児島大、首都大、慶大、ICU, 上智大、明大、早大、立命大、計26大学72名(応募者107人)です。

 国際課留学生係が、随時相談に応じておりますので、まずは内線3240へお電話ください。






vol.028

大学の個性化             

 

                    副学長   井上裕正 先生

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   例年、5月末から6月にかけては副学長(教育・学生支援担当)として全国的な会議に出席する機会が多い。今年も国立大学教養教育実施組織会議が佐賀大学の当番で佐賀市で、全国大学入試選抜研究連絡協議会が大学入試センターの主催で東京で開催された。そうした会議では、教育や入試に関する各大学のいわば先導的な取組が報告されるが、その多くは若干の違いはあっても本学も取組んでいるものである。80を越えるすべての国立大学法人について確認したわけではないが、各法人の中期目標・計画も似たり寄ったりであり、特に教育・学生支援に関して言えば、同じような内容であってむしろ当然であろう。

 そうした状況のなかで、今、大学の個性化、機能分化の必要性が叫ばれている。そのことに関連して、いろいろな会議に出席していつも感じることがある。それは、本学が国立の女子大学であるという、われわれにとっては自明の事実である。他大学の報告に耳を傾けながら、いつもその事実を確認させられると同時に、他大学の出席者からもそのことを指摘されることが再々である。当面するもろもろの評価への対応や次期中期目標・計画の策定に際しては、国立の女子大学として本学に課せられた使命をよりいっそう自覚する必要があると感じさせられる昨今である。





vol.027

 

 国際社会文化学専攻 比較歴史社会学コース                             寺岡伸悟 先生

 

 

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  近年、地域社会で活躍できる人材の育成、地域貢献のための大学の役割といったことが、しばしば語られる。文学部でも、その一環として「なら学プロジェクト」を立ち上げ、活動を行ってきた。奈良県は、大学の数自体は決して多くはないが、奈良という地域性を活かした個性的な大学が少なくない。そのなかのいくつかは、奈良研究にも熱心で、メディアへの情報発信も盛んだ。ある意味強力なライバルといえるのであるが、しかし本学を見渡して気付くのは、近隣の大学に比べて、カバーできる領域が非常に広いことである。「奈良」という対象について、人文学、社会科学、自然科学と、じつに多彩な方向から接近することができる。こうした多彩さ、さまざまな分野の共在がそのまま、他大学のまねできない本学の魅力となっている。
  こう書いてくると、大学の地域貢献、といえば、大学で得た専門性を地域に応用できること、といった風に捉えられるかもしれない。しかし、私が実際に地域と関わりをもつなかでは、少し違ったふうにも感じるのだ。地域社会とはもともと専門家の集団である。市民活動などに参加してみれば、それがよくわかる。さまざまな商店主の方は流通や商業の専門家である。ホテル業の方もいる。農家、製造業の方、お寺の方もいる。行政や法律家も加わっている場合が多い。そうしてみると、地域社会で大学が発揮する専門性など、実は限られたものでしかない。
  では地域社会の一員として大学に期待されているものは何だろう。お粗末な私の経験から言わせてもらえば、それはたんに特定の学問に根ざした専門性というよりは、多彩な学問領域の共在のなかでうける知的刺激によって育まれた、柔軟で、ときに現実離れした発想やものの見方、突拍子もない方法なのではないか。上で挙げたような方々と眼前の地域づくりについて話し合いを重ねているとき、他ならぬ大学からの発言として一番喜んでいただけるのは、そうした発言ができたときなのである。
  そうした発想を育くむためには、広い知的刺激、ゆったりした思索の時間、そして遊び心も必要だろう。院生さんたちは、それぞれの研究で専門性を追究しているのだが、同時に、この「たゆたう知的空間」のなかで呼吸していることが、彼女達を大学人らしく育てているように思うのだ。
  しかし、残念ながらそうしたものを享受する余裕は大学という場所から失われつつある。せめて院生さんたちにとっては、大学がいつまでもそうしたものを享受できる場所であってほしいと願いたい。逆説的なようだが、それが実は、地域社会で本当に「役に立つ」人間を育てることであると思うのである。




 
vol.024 

                      附属学校部長  
                           水上 戴子 先生

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  近年、若年層の雇用機会が減少し、新卒無業者や大卒フリーター、ニートといわれる若者が増加しています。次世代を担う若年層の失業率が高いことは若年層の雇用において重要な問題となっています。このような状況の中で、大学生の就職を取り巻く環境は厳しさを増しており、就職率は年々減少傾向にあります。
  新規大卒者の求人が悪化した最大の要因は、景気の低迷による労働需要の大幅な減少と大学への進学率の上昇に伴う労働供給量の大幅な増加によるものであると考えられます。第二の要因として、近年派遣労働者数の増加が著しく、大卒において事務職等の採用が減少しているのは非正規従業員への代替、つまり雇用形態の多様化が大きく影響しているものと思われます。第三の要因として、通年採用の本格化にあるといわれています。いくつかの調査報告によると、企業における新規大卒者の採用は、派遣労働者などの非正規労働者に対する依存度を高めるとともに、即戦力的な人材を確保する観点から、中途採用やキャリア採用に対する依存度を高めつつあるといわれています。
  このように、雇用形態が大きく変化している中で、学生の職業観や職業意識を形成するのに大学の果たす役割は極めて大きいといえます。各大学で学生に対するキャリア教育に力が注がれていますが、今、大学に求められているのは長期的な視点に立ったキャリア支援機能であると考えられます。大学生の進路も多様化しており、大学院進学や専門学校への進学等、就職のみでなく資格取得や将来の進路に関するアドバイスの重要性が高まってきています。本学でのキャリア教育に対する取組は年々進展していますが、今後の取組として現役学生に限定するのではなく、卒業生にも開放していくことが必要と思われます。新卒無業者や大卒フリーターに限らず、仕事をやめ家庭に入った卒業生は、就職に必要な情報から離れた状況にあり、就職に関する情報提供とキャリアに関するアドバイスを望んでいると思われます。卒業生に対する就職情報の提供やキャリア教育に関するアドバイスは卒業生に対する大きな支援となり、卒業生の大学に対するアイデンティティや母校愛を育成し、更には大学の発展に繋がることを願っています。





 
vol.023 
大衆への反逆

文学部長 (比較文化学専攻 日本アジア文化情報学講座)

        奥村 悦三 先生

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  かつて自らを律することを知らない人々が幅を利かす時代の到来を警告して『大衆の反逆』という書を著した人がいました。

 わたしが大学に進んだとき、多数の「団塊の世代」が進学するのに合せて、国立大学の定員枠は広がり、私立大学が増設されたのでした。そして、大学生はエリートではなくなり、「大衆」化したのでした。そのころ、学生が「インテリゲンチア」として社会の不正を正さなければならないと叫んで、多くの大学で「大学紛争」が起きたのですが、じつは、そのときすでに、大学生は、もはや選ばれた存在ではなくなっていたのです。「正義を求める闘争」が、もしかしたら「大衆の反逆」だったかもしれない、というわけです。
  その、40年以上も前の「学生運動」が終息に向かったあと、大学生の行動が社会的に大きく取り上げられることは、ほとんどなくなったように見えます。「正義」を振りかざしはするものの、それが実現可能なものであるかどうかにまったく無頓着で、どこまで現実に対する責任感をもっているのか疑われる大学生は、ノブレス・オブリージュを引き受けるエリートというよりも、欲しいものを平然とおねだりしてやまない大衆そのものであるのかもしれないということから言えば、ここ何十年間にもわたる大学生の政治的な冷静さ、「正義」に対する冷淡さは、社会にとって悪いものではないとも考えられましょう。
  ただ、波瀾に満ちた動乱より、退屈でも平穏な日常を愛するわたしではありますが、自分が属する社会に対して責任を負おうとする人がほとんど皆無であるかに見える現在の日本はほんとうに大丈夫なのかと、すこし心配はするのです。その意味で、大学院イニシアティブに関わる先生方が、「大衆化した大学生」でなく、「真剣な」大学院生を育て上げ、日本の、そして世界の、さまざまな方面に送り出そうとしておられること、学生の皆さんが、厳しい教育に耐えて、ノブレス・オブリージュを果たすべくさまざまな分野へ進出していこうとされていることに、わたしは感嘆の念を禁じえません。大学院イニシアティブに関わる皆さんの活動こそ「大衆への反逆」だと信じるゆえに、わたしは、その成功を強く願っています。



 
vol.022

将来に希望の持てる研究・教育大学院への提言−大学院の重点化を目指して−

                  大学院人間文化研究科長 矢野重信

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 平成17年度から始まった文部科学省の支援による「魅力ある大学院教育」イニシアティブにおいて、平成17年度は社会生活環境学専攻を基盤とする「生活環境の課題発見・解決型女性研究者養成」プロジェクトが選定され、平成18年度には複合現象科学専攻を基盤とする「先端科学技術の芽を生み出す女性研究者の育成」が選定されました。本研究科の取り組みが高く評価されたものとして、大変喜んでいます。関係の皆様にはこの場をお借りしてあらためて心から御礼申し上げる次第です。
  現在、大学院では本年2月15日締め切りのグローバルCOEの申請に向けて全力をあげています。ご承知のように、グローバルCOEに採択されるか否かは、本大学が将来研究大学として在り続けられるか否かを左右する試金石といえます。
  したがって、本学を研究大学として維持するためには、大学自体の組織的な整備が重要といえます。そのためには、全教員が大学院専任教員となる重点化を達成し、本学の研究大学のとしての方向性を社会に明示することが必須と考えられます。本学と何かにつけて比較されるお茶の水女子大学はこの4月から、いち早く重点化をスタートさせます。このままでは、お茶の水女子大学は高度な研究・教育大学として発展し、重点化に対して後ろ向きの姿勢を維持したままの本学は教養大学・高級専門学校への道をたどって行かざるを得ないようになることは火を見るよりも明らかです。

  現在採択されている2件の「魅力ある大学院教育」イニシアティブを足がかりにして、将来に希望の持てる研究・教育大学院を目指すために、全教員の皆様には大学院の重点化に対し積極的なご賛同ならびにご支援をいただきたいと、心から願っております。



 
vol.021
サッカーと研究         


社会生活環境学専攻 生活環境計画学講座
上野 邦一 先生

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 私はテレビをほとんど見ず、ラジオを聴いていることが多い。ただサッカーが好きで、試合を見ることはあるが、サッカーの試合もラジオで実況中継を聞くことがある。ところで、サッカーの試合は、ある程度ルールや、選手の役割、試合運びの戦術など予備知識がないと、興味は半減するだろうし、放送そのものが理解できないかもしれない。
  さて試合は練習を積んだ、優れたプレヤーが動き回るのに、点はなかなか入らない。基本的なプレー・確実なプレーだけでは試合に勝てないのである。状況を読む、機敏な反応、連携した動作、ゴールへの的確なシュートなどが必要となる。
  研究も実は、キックオフからシュートまでのプロセスが似ているのである。資料を蓄積する、分析する手法、地道な考察、などは必要な基本作業である。しかし、それだけでは、充実した内容の論文には結実しない。人とは違う見方、観察、それらをつなげて説得力ある論理を確立しなければならない。最後の一歩がわからず、結実しないこともある。
  サッカーでは、素晴らしいシュートを打ってもキーパーが止めることがある。ちょっとしたズレでたやすく入る一点もある。
  日ごろの努力と、ひらめきが組み合って、論文に結実するのが、研究の醍醐味なのだろう、と常々思っている。

 




 
vol.020

葵祭について   

                                比較文化学専攻  文化史論講座
                                     小路田 泰直 先生

                                             

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 歴史家には偶然の出会いがある。京都府宮津市、天橋立の付け根の所に籠神社という神社がある。元伊勢神社とも呼ばれ、伊勢外宮の豊受大神の出身の神社とされる神社だ。日本最古の家系を誇る海部氏の氏神でもある。そこで私は京都加茂社の葵祭よりも古い葵祭と出会った。しかもそれが実は藤祭であること知った。ということは葵祭の葵とは蔓系植物の象徴であり、実は藤のことを指していたということになる。そういえば加茂社のたつのは山城国葛野の地であり、その元社である鴨都波神社あるいは高鴨神社がたつのは大和国葛城山の麓である。そして大阪府藤井寺市がかつて葛井寺市と書いたように、「藤」と「葛」とは置き換えが可能である。だとすればそれはありうる。
  ではそのことから連想されることは何か。「葵」は「藤」や「葛」が生い茂る荒れ野の象徴であり、その荒れ野は製鉄のための山林伐採の爪痕だったということである。双葉葵を神紋とする加茂社、松尾社、日吉社は、何れも実は製鉄の神であり、まさに天皇家の守り神にふさわしい神であったということである。果たして飛躍のし過ぎか。意見を乞う。

                                         





 
vol.019 :
まずは名称からはじまった「子ども学」
         

             社会生活環境学専攻 人間行動科学講座 
                        浜田寿美男 先生

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 私が「子ども」にかかわる研究をやりはじめて、数えてみると、もう40年近くになります。しかしそこで研究者として掲げてきた看板は発達心理学だったり、障害児心理学だったり、あるいは子どもの供述心理学だったりで、これを「子ども学」として意識することはありませんでした。いや実際、私たちが「子ども学」なる名称を耳にしはじめたのは、せいぜい10年くらい前からのこと。それも子どもにかかわる研究の成果が集積し体系化した結果ではなく、「子ども」の問題が世論を賑わす一大テーマになってきたという、この時代のムードによるところが大きいようです。全国の大学・短大が生き残りをかけて組織改革を進めていくなかで、この数年、「子ども学」という名を冠した学部、学科、コースが急激に増えているのも、おそらくそのためでしょう。残念ながら、率直に言って、名称に値する内実があるわけではありません。それでは話が逆さまではないかと言われるかもしれませんが、まずはその通りであるという現実をはっきり認識しておくことが大事だと私は考えています。

 本学で子ども学プロジェクトがスタートしたのも、この同じ流れの上であることは否定できません。ただ一方で、「子ども」という問題がこの時代の先行きを決める重大な問題であることもまた、やはり間違いのないところです。とすれば、この問題に向けて、それに応えるだけの内実を「子ども学」として準備していくことが、子ども関連の仕事をやってきたものの責務だということにもなります。名称が先にあって、内実が伴っていないという現実のうえで、しかし解くべき問題は確実にあって、そこに着実な研究が要請されている。これが、私たちの「子ども学」の現状なのです。

 今後、さまざまな領域からのご協力をお願いしなければならない場面が、あれこれ出てくるのではないかと思っておりますので、皆様、その折にはよろしくお願いします。


 
vol.018 :

「アフガニスタン女子教育支援」の取り組みから

                     

比較文化学専攻 文化史論講座

岩崎 雅美 先生

(アフガニスタン女子教育支援のための女性教員研修実施委員会委員長)


                                             
      
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 ホームページで詳しく報じておりますが、アフガニスタンの復興において女性の地位向上と教育の拡充は重要であるとの一致した観点から、平成14(2002)年5月17日に五女子大学の間で「アフガニスタン女子教育支援のための五女子大学コンソ−シアム」が締結されました。その後第一フェーズ(3年間)を経て、平成18年度は第二フェーズの2年目になります。当初はその後第三フェーズ(3年間)が予定されていましたが、JICAの人事的な交代や資金面の事情から、第三フェーズは困難な状況になっています。
 一方、奈良女子大学には現在3名のアフガニスタンからの留学生を迎えています。理学部2名、生活環境学部1名です。いつもスカーフを頭から被っているのでキャンパスでもすぐ見分けが付きます。イスラムの女性は『コーラン』に、ベールで頭から胸まで垂れることが記されていて、現在ではそれがスカーフに様変わりしています。同じイスラムでも中国に入るとかなり薄れて、地域性や政治の影響がみられます。しかしイスラムの社会は宗教がらみで男女の区別意識が強く、女性の教育に女子大学は大いに有益であります。国立大学法人の奈良女子大学に留学するならば、家族も安心というものです。教育援助は細く長くが特色ですから、奈良女子大学は息長くイスラム社会の女性達とつきあっていけば、それが大学の一つの特色になるでしょう。イスラム社会に早く平和が訪れ、交流が活発になるように願うばかりです。




 
vol.017 :

自主企画セミナーに思う 


                     社会生活環境学専攻 人間行動学講座
                           藤原素子 先生                          

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 今年度、自主活動支援部会の部会長を仰せつかった。私にはかなり荷が重いと感じながらも、大学院生の自主活動をいろんな面からサポートすべく、部会の先生方の多大なご協力を得て活動している。
当部会では、いくつかの支援活動を推進しているが、その中から「大学院生による自主企画セミナー」について思うところを述べさせていただく。この支援企画では、大学院生が自ら企画、広報し、実施後に総括、報告を行うというセミナーの主催にかかる一連のプロセスを支援している。平成17年度に4件、今年度は前期に3件、後期に2件の申請があった。また、イニシアティブ関連科目として、「研究プロジェクト演習」という授業を開講しており、その授業においてもすでに受講者によって企画されたセミナーが10月に開催された。
  これらのセミナーのいくつかに実際に参加し、また「研究プロジェクト演習」では担当教員としてセミナー開催までの院生達の活動をみてきた。いずれの企画においても、院生達はいきいきと企画を立案し、多少面倒な事務手続きをこなし、学外からも多くの参加者を得て立派なセミナーを開催しており、私は心の中で賞賛の拍手を送っている。
  私が大学院生として大阪大学医学部にいた頃、毎週いろんな講座でセミナーが開催されていた。その頃は院生がセミナーを企画するなど想像もしておらず、院生はひたすら参加して講演を聴くことが学ぶことだと思っていた。今回、支援活動を通して、「聴いて理解する力」だけでなく「企画する力」「交渉する力」「運営する力」の大切さを感じている。
  また大阪大学でのセミナーの半数くらいは講演者が外国人の研究者だった。本学のイニシアティブにおける大学院生による自主企画セミナーにおいても外国人講師による英語のセミナーが開催されることを密かに期待している。



 
vol.016 :

              社会生活環境学専攻 生活環境計画学講座 
       瀬渡 章子 先生 

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 今年度、慌てて申請した科研費が思いがけず採用された。海外調査を入れていたので、面識はなかったがカナダのW教授に訪問希望を伝えた。メールを送り、関連資料も追加で別送した。2ヶ月後、諦めていた頃にやっと返事が届いた。返事が遅れたのはサバティカルのためだとわかったが、それは8月末には終了したので、幸い私の訪問は実現した。W教授から、7年ごとに1年間のサバティカルがあり、今回で5度目の取得という話を聞かされ、とても驚いた。日本では縁のない制度と思い込んでいたが、そうでもないらしい。東大では2年前にサバティカル研修規程が設けられて、7年ごとに「6月以上1年以内」の期間を「権利として取得」するものとして定められている。京大は、平成18年度計画に制度の導入検討があがっている。研究に打ち込める時間が大幅に削られている現在、研究者の「自家中毒」傾向を補正し、それまでの活動を総括して、次期サバティカルまでの向こう数年間の教育・研究計画をじっくり練るための時間を、是非「権利」として与えられるべきだと、最近強く思う。




vol.015 :     

社会生活環境学専攻 人間行動科学講座
                       井上洋一 先生                              

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 ちょうど3年前の10月、在外研究員としてインディアナ大学にむけて渡米した。研究上の関心から、アメリカらしい大学で過ごすことができた。その10ヶ月の間に奈良女子大学は、その冠に国立大学法人という名を付け、不思議なことに私は国家公務員の身分ではなくなっていた。そして、日本奈良にもどると、何か気ぜわしい、時間の流れがずいぶん速い。東京に比べて遅いと感じていたはずなのに・・・。
向こうの大学教員は、金曜日の午後あたりになると、”Have a nice weekend!” と声をかけ、1週間の仕事はもう終えたとばかり、自分の趣味やスポーツ活動、家族との世界へ笑顔で向かう。まれなケースかもしれないが、1週間の生活の中にもしっかりと自由にできる自分たちの豊かな空間を持っているように見える。
 目を移せば、いま、日本の大学・大学院は、よりよい研究、教育そして学習環境を作り出すために多くの改革を進めている。そのことはもちろん重要なことであり、我々の使命でもある。しかしながら、あまりにも心と時間の余裕がなくなっていないか。
豊かな発想を生み出す空間を失っていないか。
 かつて、学部対抗や学部内ソフトボール大会、駅伝大会のような企画があった。試合終了後には懇親会があり、様々な分野、年齢を超えての話題が広がる。教職員そして学生の交流が生まれる。
 質の高い生活を支える場として、研究・教育環境とまさに生活環境のバランスのとれた大学となることを願いたい。
 




vol.014 :   泥縄であった 

   

社会生活環境学専攻 社会・地域学講座
松本 博之  先生

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 学部学生のころ、ある先生が「大学では学問をやっているんだが、どうなのかね、学問以前があって学問をやっているんだろうか、学問をやったら、学問以後があるはずだがね……」と、数人の学生に問いかけるのでもなく、まるで自問しているようなつぶやきを投げかけられた。その先生は哲学の先生ではなかったし、未だ40代に差し掛かった精鋭の人類学者だった。その時、私は「山があるから登るんだ」という言葉が流行っていたからか、「大学があるから大学に入るんだ、学問以前があってじゃない」と内心つぶやいていたが、同時に「学問以後」という言葉がとても新鮮に聞こえた。
 その問いかけがこの40年ずーと胸に突き刺さったままなのである。自分の研究テーマが自分の人生にとって抜き差しならない意味を持つものなのかという問い。とくに文系の学問にはこのことがつきまとう。文章を書いても、自分自身をまな板の上に載せているのでなければ、人に読んでもらえるような文章にはならない。
 昨秋、ある出版社から依頼があり、その先生の卒業論文・修士論文をふくむ初期の文章を集めて1冊の書物に編集した。先生に出逢って以来、ほとんどの著作物に目をとおしてきたのだが、60年前の卒論・修論の草稿を読んで驚愕した。その先生の学問以前がこの60年間寸分の狂いもなく只々一筋の道を描いていたのである。
 やんぬるかな、わが人生は、泥縄であった!!
法顕を見習い、六〇にして学を志そうかな……。
 




vol.013 :  お茶の水女子大学での「大学院教育イニシアティブ」   

   

社会生活環境学専攻 社会・地域学講座
                         内田忠賢 先生

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 3月まで12年間勤務した大学での、表題関連の話題です。お茶大では、昨年度2件採択され、1件は、私が専任教員をしていた国際日本学専攻(博士後期課程)を主軸にしていました。そこでの、院生のキャリアアップの取り組み例(文学部系)をご紹介しましょう。


 @従来、海外の大学との交流や、それに関わる公開シンポジウムへの費用は、学長裁量あるいは教員拠出という「学内捻出」型でしたが、イニシアティブのお蔭で、(無駄遣いはしないものの)かなり充実しました。院生に海外での研究発表を体験してもらうと同時に、国際的な大学間交流を進める、一挙両得なプロジェクトを、大胆に実施できました。私が引率したパリ・ソルボンヌ組(日本側総勢9名)は、江戸東京の文化史をテーマに、フランス語を交えながら2日間の公開シンポジウムを持ちました。日本学に関心があるフランス人は多いので、会場は大盛況でした。院生にとって、費用負担なく、海外で10日間程度、武者修行でき、しかも報告書により業績(海外での研究発表実績)が増えます。
 Aまた、専攻の性格上、「文化マネージメント」というサブ・コース(科目群、博士前期課程)を新設しました。大学院修了者が専門を生かし、文化行政やメセナ事業等に参入するためのトレーニングです(修了証も発行)。まだ、2年目なので、効果が目に見えるまでには多少時間がかかりますが、関連事業の費用はイニシアティブ頼みです。
 B以上、私が体験したことに限って、お話しました。文学部系・院は、東大と競合関係にあるので、大学の規模上(たとえば、教員数は東大の1/30)、「量より質」への転換を図っています。「院生一人一人に手間ひま掛けた女性研究者養成」という感じです。奈良女と違い、お茶大は東京都心に立地するという強みがあるものの、女子大、小規模という、両大学が抱える宿命(2重苦?)を如何にメリットに転換するか。名門復活への模索は続きます。




vol.012 :     

   

社会生活環境学専攻 生活環境計画学講座                                 増井 正哉  先生

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 とくにお願いしたわけでもないのに、「学術基礎英語」にゲストスピーカーとしてお招きした先生が、立派な学生向き評価シートをつくってこられた。海外でコンサルタントとして活躍しておられる先生だけあって手慣れたもので、プロパーの大学の教員には、なかなかできない芸当だと感心したのだが、同時に、私の学内・学外の仕事の中で、唯一、誰からも評価を受けることがないのが、大学院の授業であることに気づいた。考えてみると、私が学外でやっている実務的な仕事で、事後の評価がついてこないものは全くなく、実際に評価を前提にした仕事の進め方をしている。研究に対しても、研究助成に対しても、第3者の評価があたりまえである。善し悪しは別として、目標設定に対する評価は、世の中の仕組みの根幹なのだ。

 学部の授業では、形式的ではあるが、学生による評価のシステムが一応できあがっている。評価の結果をどのように活用しているかははっきりしないが。住環境学科では、Jabee認定申請にさいして、学生による授業評価を授業改善に役立てるシステムづくりを行った。他の教員が担当する授業への評価と、自分の授業に対する評価をくらべてみると、いろいろなことが分かって面白かった。

 そこで、大学院である。イニシアティブがきっかけで、ようやく授業に対する学生の評価が組織的にはじめられる。最後の聖域にメスがはいって、世の中の仕組みに、大学院教育が追いつくことになるわけだ。だだ、大切なのは、評価をどのように教育改善につなげていくかである。そのあたりが、イニシアティブの真価が問われるところだろう。




vol.011 :「競争」をこえて
                        

社会生活環境学専攻 社会・地域学講座                                     栗岡 幹英 先生


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 熟考して計画的に人生を渡ることに縁がなく、たまたま大学院に進学し、運良く研究者の末席に位置するものとして、最近の状況は心が痛む。というのは、研究者をめざして院に進学した学生の進路がとても不安定になっているからである。たまたま恵まれていたのだが、大学院の在籍中、私には就職について大きな不安を感じることがなかった。
 今、教員として私がしているのは、多くの論文を書き、学位をとるよう学生に促すことだけだ。「競争を勝ちぬけ!」学生の研究・教育への動機付けと能力を高めることは、充分できていない。もちろん、この仕事でどんな喜びが体験でき、人間的な成長を実感できるかを伝えたりはしていない。せめて先に社会で一定の位置を得た人間として大学院生個人の能力をこえた制度的な問題にとりくむ必要があると思うが、その方向を見いだせているわけでもない。
「競争」を促す仕組みだけが強化されていく。「格差はわるくない」と首相が平気な顔で言う。一度降りたらやり直しにくい社会の基本的枠組みには手をつけようともせずに、逆に最低限のセイフティ・ネットさえ切り縮められる。今の、特に文系の大学院はこんな社会の縮図に見える。そのなかで、時代に対処する力と知恵を、実は私が学生のみなさんから受け取っているのだと感ずる。
「競争」をこえてその先に進む課題を共有できたら、と思う。



vol.010 :雑 感 
                        
 社会生活環境学専攻 共生社会生活学講座
                                        佐野敏行 先生


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 今となっては何年前であったか定かではないが、おそらく10年以上も前の夕方、ある年長の先生が、ある言葉のスペリングを教えて欲しいと、まだ若手教員であった私の研究室に来たことを鮮明に覚えている。当時まだ大学改革の声が遠くに聞こえてはいても、身近なところでは、ほとんど進んでいないと感じていた私は、その言葉に関心をもった先輩教員にささやかな敬意をもち、たった一つの英単語のことで尋ねて来ていただいたことに多少とも嬉しく思った。その言葉は、当時、留学の経験から「当たり前」と思って、私自身が大学の授業を担当することになってすぐに使い始めていたものの名称であったので、すぐに、質問に答えると、その先生はスペリングの意外さに気づかれて、なぜ自分でそれを探し出せなかったのかに納得されて帰られた。些細にみえることでも、尋ねることは、年齢を重ねても必要なことだと思う。このことは、研究教育者の卵や高度専門的職業人の卵にとっても重要なことだと思う。ところで、この言葉シラバスにはl(エル)が二つ必要でしたっけ?  





vol.009 : 貪欲な好奇心と旺盛な行動力を!!
                        

    社会生活環境学専攻 社会・地域学講座                                       相馬 秀廣 先生

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 社会生活環境学専攻は,まさに文理融合型の専攻で,担当の先生方も多様なテーマで研究されています.そのような環境の下,院生の方々は,博士論文作成にむけて,日夜頑張っておられることでしょう.ところで,先の話になりますが,学位を取得された後,いずれの道に進むにしろ,博士論文で取り扱った内容だけでなく,様々な分野の問題と取り組み,また,異分野の方々と意見を交換することが必要になることでしょう.

 本専攻の設置主旨の中に,「幅の広い視野と総合的な判断力を備えた人材」,「専門分野の高い知識に加えて、分野横断的な複合的視野と豊かな学術的知見を追究する学生」,「前記のような視野と知見を生かした連携研究員(リエゾン・リサーチャー)」の育成などが盛られています.ご存知でしたか?意識されていますか?これらは,いずれも,自分の研究分野だけに閉じこもることなく,関連分野などへ積極的にチャレンジすることが期待され,その結果として,達成されるものだと思います(このことは,実は,我々教員側にも求められているように思われます).

 「博士論文の作成で手一杯で,とても関連分野やさらにその遠方にある分野などどころではない」という声が聞こえてきそうです.しかし,そこを敢えて挑戦することが必要なのではないでしょうか.新たな発想,研究法などが得られるかも知れません.貪欲な好奇心と旺盛な行動力を!!先生方にも積極的なサポートをお願いできれば,と願っております.


 


vol.008 :
                        

 社会生活環境学専攻  人間行動科学講座
                                       麻生 武 先生 

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 先日、関西の「子ども学」学科や「子ども学」学部をつくっている女子大の集まりに参加してきた。古い私学の女子大はリベラルアーツの伝統を誇ってきたのだが、昨今の資格ブームの中で、「学生募集のため資格を売りにするとリベラルアーツの伝統が泣くので」どの大学も非常に苦しんでいる。

 ヨーロッパでは、本来の大学というのものは専門の勉強をするところではなく、広い視野の知を学ぶところだったという。大学は専門学校ではない。高度職業人養成校でもない。すべての学問は一つだという考えも、リベラルアーツの考えと一致している。ニュートンの論文の掲載され「Mind」には、「毒蛇の取り方」といった論文も一緒にでていたという。ICUもリベラルアーツが売りの大学で、演劇作家で有名な平田オリザは、ICUで「世界とか人間を全体としてとらえる習慣を徹底的にたたきこまれた」ことが今日の自分をつくったと回顧している。「演劇」と「物理学」と「植物学」と「毒蛇の取り方」を探究し、それが「哲学博士(Ph.D)」につながるような女子大学が、日本にも一つぐらい欲しいように思う。世界と人間を包括的にとらえ、人間の知の可能性を楽しめるような場があれば、それが大学らしい大学だと思う。そういう大学に、奈良女子大学がなって欲しいと願っている。




vol.007 : 期待と希望
                        
   社会生活環境学専攻社会・地域学講座                                      戸祭 由美夫 先生

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1. [本プロジェクトに対する期待] 国立の女子大学としての特徴を強く打ち出した本プロジェクトは、その実施過程などでいろんな不満・問題が聞こえて来ますものの、本学に相応しい目的を備えていると存じます。文学部の自己点検に対する外部評価の際にも、「国立の女子大学、ないしその文学部としての特徴をもっとはっきりと打ち出すようにすべきである」というご意見が外部委員10名全員から期せずして出されたことを、当時の文学部自己点検評価ワーキンググループの責任者として今も強く記憶しています。そのこともあって、「女性研究者の育成」という本プロジェクトの基本目的に添って、是非とも良い方向へ改善を重ねつつ、前進していってほしいと心から期待している次第です。

2. [調査・フィールドワーク交通費助成に対する改善希望] 本プロジェクトの中で、「研究のための調査・フィールドワークに交通費を補助しよう」という募集があります。私の授業では、学部・大学院を問わず、野外授業を実施しているので、有難い募集ですが、引率学生の都合や受け入れ側の都合もあって、日時の決定が1ヶ月以上前というのは実際に困難です。この点を考慮していただいた募集要領に改善していただければ、院生諸君の交通費負担の軽減になって有難いのですが。

3.[過重負担への危惧] 奈良女子大学では、近年、小規模大学にもかかわらず、多種多様なプロジェクトに応募し、有能な、とりわけ女性のスタッフには、過重な負担を強いているように見えます。特定の教員に各種のプロジェクト担当や委員会委員を集中的に充てていると、給与の減額とも相俟っていずれ不満が爆発するのではないか、あるいは有能な人材が過労で倒れるのではないかと、恐れています。




vol.006 : 大変な時代                          

     社会生活環境学専攻 社会・地域学講座                                       中島道男  先生

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近頃の大学教員は大変だ。なぜか?−−そんなこと言わなくてもわかるだろう。近頃の大学院生も大変だ。なぜか?−−これまた、言わなくてもわかる。でも、原稿がここで終わってしまうと、まずい。で、院生について書いてみる。
今どきの院生は、書いて書いて書きまくって学位をとる(のが理想だ)。論文は、おそらくすべての人がパソコンで書いているのだろう。パソコンの普及によって、論文の書き方が変わったのではないか。設計図を何度も何度も書き直すよりは、まずパソコンに向かって書きだしてみる、というスタイルが多いような気がする。幸か不幸か、パソコンで作った文書は、どんなものであっても印刷はきれいに仕上がる。しかし、じゅうぶん鉄骨が入っているかどうか、繰り返し練ることはやはり必要だ。パソコンで書いたことによって、みずからの耐震偽装を見抜く眼が狂っては困る。−−こんなことを、私はガイダンスで必ず言うことにしている。


 

vol.005: 「見えにくい死  隠された死  専門化する死                       

    
                         社会生活環境学専攻 共生社会生活学講座
                                     清水新二  先生

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  乳幼児死亡率でみると1920年の165.7に比して2000年では3.2である。15歳時生存率は男女とも1920年時75%弱に対して2000年では99%を越えている。20世紀前半日本人はこの年齢までにきょうだいや友だちの4人の内1人を失うという、死の日常性の中で生きてきた。現在の日本では戦争や感染症による死亡数が激減し、高齢社会に至っている。最近では殺人事件報道にもかかわらず、直接的で身近な死を体験する確率は大変に低く、高齢者や病者の死にゆく過程も施設に閉じこめられている。死は確実に日常生活では「見えにくい死」と化している。のみならず、語ることさえ憚られ、忌避される傾向が強い。40年も前に英国の人類学者G.Gorerは現代の死一般について「死のポルノグラフィー化」と称した。セックスという、ごくありふれた現象にもかかわらず語ることをタブー視され裏舞台に押し込まれている様相と似ているという。

 一方、やたらに死が語られる場面もある。「専門化した死」である。脳死論や臓器移植論であり、あるいはターミナルケア論である。いずれも専門的言説であり、寅さんが口にする死とは異なる。

自殺の場合はさらに「隠された死」と言われるほど、私たちの日常から意識的に遠ざけられている。当事者遺族も周囲も隠そうとし触れることをタブー視する。家族の秘密であり、子どもにさえ真相は隠される。その中で実はアイロニカルに遺族は「語りたいが語れない」状況に苦しんでいくことになる。

  偏見ともいうべき社会の強大な隠蔽プレッシャーの下、突然の不条理な死を自分だけのこころの中に封印し続ける苦悩に、ようやく社会的な光が当てられ始めている。かつては田の中に先祖の墓、港を見下ろす高台に墓地

死に代わり、生き代わりして 打つ田かな


 

vol.004 : 不確定志向への誘い                                

    
                       社会生活環境学専攻 人間行動科学講座
                                      杉峰英憲  先生

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  未知なるものに遭遇したときの人々の認知と動機付けの統合理論として、ソレンティノは「不確定志向性理論」を立ち上げた。彼は、西洋的な不確定志向と東洋的な確定志向という形で両文化圏の傾向性を対峙させる。よく読んでみると、なるほどと思い当たる節が多々ある。
  不確定志向のタイプに属する人々とは、自己との関連性が高い場面での状況の不確定性の解決に強い興味・関心を示し、従って、彼らは状況内での自己志向的性質を持ち、自分自身で不確定性を解決しようと試みる人々のことをいう。確定志向のタイプに属する人々とは、集団がすでに持っている確定的なものを指向する傾向性を持ち、不確定性を解決しようとはしないのであり、むしろ不確定性を含まない状況を好む人々のことである。その結果、確定志向の人々は、自分自身で不確定性を理解しようとする代わりに、むしろ何が正しくて何が間違っているのかを指示してくれる重要な他者や集団をあてにする。
  私は、大学生の集団志向性・相互協調性と自己志向性・相互独立性に関して西欧と東洋を比較調査したことがある。日本においては、集団志向性や相互協調性が一貫して優位であり、このことが、しばしば集団志向性と自己否定性の正の関係と共応し、日本人としての自己の再構成の抑止力となってしまっていた。このことには、ソレンティノの不確定志向性理論がみごとにあてはまっているのである。だからといって、私は、西欧的な不確定志向を、そのままの形で推奨するつもりは全くない。
  魅力ある大学院教育に向けてのイニシアティブのテーマは、「生活環境の課題発見・解決型女性研究者養成」である。人間との関係で、とみに不確定性を有する生活環境に立ち向かい課題を発見し解決を試みる。それは、既存の生活方程式や価値観をあてにすることでは決してない。私たちは、こうした生活環境の課題への挑戦を通じて自分自身や自己の研究を再構成していくのである。ただし、生活環境というものが、人間的なものであり、生活環境こそが人間に安らぎを与えるものであるという観点からするならば、逆に、日本的な集団志向性や自己意識を惹起する人間の持つ本来の孤独性や人間関係における生産的自己否定性などの日本的生活環境になじむ日本文化的な安定した側面にも意義が認められる。こうした相互協調性を基盤とした個性豊かな挑戦をこそ、私は、このイニシアティブに期待したいことなのである。


vol.003 : 「贈る言葉」

                      

社会生活環境学専攻  人間行動科学講座
小田切毅一 先生

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奈良女での30余年に及ぶ教員生活もこの3月で終了。この間学生の学ぶ態度もずいぶん変わってきたように感じている。以前は、教師自身の「判らないこと」や「知りたいこと」に触れる授業に、学生は比較的興味を示したように思う。だが今はむしろ、「判っていること、知り得たこと」を手際よく伝達して欲しいと感じているようだ。
  たしかに迷走のプロセスよりも、生じた成果への関心が重要ではあろうが、この種の変化は、「オリジナルな思考」が要求される新進研究者にとって、もっと基本的な意味を含んでいるように思う。自分の迷走のプロセスを省略させて教師の指示を待つといった、昨今の学生気質が、どうも気になる。
  これは、あり余る情報への対応に追われ、一層効率のよい研究成果も期待される中で、自分の羅針盤づくりが間に合わないといった現代学生の生活習慣病のようなものだろうか。創造的な目線を自覚する以前に、組み替えやコピー・アンド・ペースト感覚によって、たくさんのレポートをやりくりしてきた学生生活のつけ....などと言ったら、叱られるかもしれない。
  「オリジナルな知見」を生み出す自らの羅針盤の精度を上げるための努力を惜しまずに、研究者として成長して欲しい。年寄りの遺言のようになってしまった。

ガールズ・ビー・アンビシャス!

 



vol.002 : 「開かれたネットワーク」を創る           

                   

社会生活環境学専攻 社会・地域学講座
                         中道 實先生

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 キャリアを積み、業績を達成し、成功するためには、才能、知性、教育、努力、時に幸運が必要である。これらの「個人に依存する」諸属性は、周囲の人との関係=ネットワークの中で創発し発達する社会的性質をもっている。     
  学問に従事する者は、とかく、同一専門分野>研究仲間の群れの中の「閉じたネットワーク」の中に在る傾向がある。ネットワークは、適切な投資によってしかるべき配当ができる資本、すなわちソーシャル・キャピタル(社会関係資本)である。
  そして、人から人へと、時には専門分野を横断して、ネットワークのつながりを次々と拡大していく「開かれたネットワーク」創りは、ソーシャル・キャピタルを増殖し、情報、アイディア、教導、心の支えを配当し、業績達成、機会の発見、研究展開への態勢を生む。
「開かれたネットワーク」は、だれもが「制約」と「機会」を考量した上で、「選択」によって創ることができる。ただ、直接的な見返りを目的としたネットワーク創りは、短期的な利益を得るだけである。直接の見返りを期待しない他者への貢献こそ、計算ずくの等価交換では得られない相互支援関係をつくり出す。他者を援助することで自己に返ってくる循環に投資すること、それは長期的な「配当」、必要な時の自己への支援をもたらす。

 

 


vol.001 :

"独創のおもい"   
                     
    
                       社会生活環境学専攻 生活環境計画学講座
                                     今 井 範 子 先生
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「独創的な研究」 この"至上命令"に、大学院修士課程、そしてまだ研究の道に就いたころわが胸中はさいなまれたものである。或る日、つぎのような一文に出あう。「そのことについて、世のどの人よりも考えると、おのずと独創的なものになる」と。当時、この言葉ほど励まされたものはなく、いまも心に響き続けている。
  若き後輩たちに、悶々と考えるというようなこと、この忙しい時代にあるのだろうか・・・。
不毛な悶々とした時間は、教育的配慮から避けなければならない。しかし、強靭な思考の中にこそ・・・・。 私のもとに学生が困り顔で尋ねてくると、考えていることを話す。次の時間、自分の考えかのような学生の発言に、話したことはよく理解をしていると思いながらも、"もっと、自分の考えも積み上げて、自分のものに消化して、ふくらまして・・・・!"
 わが師も同じ思いをされたことであろうと顧みながらも、そのものたりなさに歯がゆい思いをすることが多々ある。指導の加減は難しい。人の意見と自分の意見を区別できるということ、これもまた、独創の始まり。日々の指導の悩みは尽きない。学生との議論(なかなか議論にならないことも悩ましい)のなかで共感しえたときは楽しい、うれしい時間。
 ゆとり、スローライフを志向する時代にあって、大学には効率性が求められる昨今。考えることはいつでもどこでもできる。個性的で、独創的なものの見方を身につけた、
きらきら輝く女性研究者の出立ちを期待しつつ・・・。
             


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