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文化財に残されたタンパク質の化学で探る古代文明の謎


[ リリース: 2017.03 ]
奈良女子大学 理学部 化学生命環境学科 教授 中沢隆

タンパク質といえば牛乳や卵、豆腐などを連想する人が多いでしょう。タンパク質を豊富に含んだこれらの食品が腐りやすく保存が難しいのは、人間ばかりでなくバクテリアやカビなどの栄養にもなるからです。ところが、2009年にタンパク質の一種のコラーゲンが八千万年前の恐竜の骨から検出されました。これは分子量が非常に大きいタンパク質でも超微量の試料で分析できるソフトイオン化という方法を用いた質量分析技術のお陰です。一つのタンパク質は遺伝子でアミノ酸の並び方(配列)が決められているので、質量分析では種々の方法でタンパク質を断片化し、多数の断片の質量をジグソーパズルのように組み合わせて元のアミノ酸配列を復元します。同じ種類のタンパク質でも生物の種によってアミノ酸配列が微妙に違うので生物種も特定できます。私たちが奈良の古代史に関連する研究プロジェクトで最初に研究対象に選んだものは、現在でも奈良が国内生産量の90%以上を占める墨の膠(ニカワ)でした。黒いススを固めて墨を作るのに使う膠はほぼ100%コラーゲンでできています。老舗の墨屋さんが保存していた300年前の江戸時代の墨に残っていたコラーゲンはほとんど分解していなかったので、膠がウシ皮を原料とすることまでわかりました。その後、平城京跡から発掘された奈良時代(AD 750年頃)の墨からもウシのコラーゲンが検出できました(文献1)。『日本書紀』によると、高麗の僧が日本に墨の作り方を伝えたのは飛鳥時代のAD 610年です。膠があっての墨なので、膠も墨と同時に伝わったはずです。

奈良時代より昔の膠を含んでいた考古資料に、エジプト第六王朝(4,400年前)の彩色壁画片があります。壁画の塗料には、顔料が乾燥して剥がれ落ちないようにするために固着材が加えられているのが普通です。壁画は地下墓にあり、風雨にはさらされていないものの長い年月のうちに有機物は消滅しているだろうとの見込みに反して、ひどく分解はしていましたがまたもウシ皮由来のコラーゲンが見つかりました(文献2)。当時エジプトではウシ、ヤギ、ヒツジなどの酪農が行われており、クレオパトラが牛乳かヤギの乳の風呂にはいっていたという伝説もあるそうなので、エジプトにウシがいたことは確かです。クレオパトラの伝説を実証するには、古代の風呂が発見され、そこで牛乳の成分であるカゼインが見つかってミルク風呂であることが証明されるという二重の奇跡が必要です。地下墓の朽ちかけたコラーゲンから、こうした伝説や史実を説明できるかもしれません。

エジプトの壁画の次に行った、西暦200年頃のエジプト・ローマ時代に描かれた宗教画の画材と、1,400年前のバーミヤン大仏(アフガニスタン)の彩色片についての筑波大学(代表:谷口陽子先生)との共同研究でも、既に別の方法で検出されていたコラーゲンの原料の動物種がいずれもウシであることを確認できました。この結果から、1,250年前(奈良時代)、1,400年前(アフガニスタン)、1,800年前(エジプト)、4,400年前(エジプト)の膠は、広い地域と長い年代にわたってすべて同じ原料と方法で作られていたと考えられます。もしこのウシ皮膠がエジプト周辺で発明されたとすれば、ペルシャから中央アジアを通って日本へ伝来するまでに3,000年以上を要したことになります。ただ、インドでは宗教上の理由でウシ以外の動物の皮が膠に使われていたかもしれません。私たちは以前、奈良県桜井市の纒向遺跡で出土した布製品の絹タンパク質の分析結果をもとに、中国原産の家蚕と日本固有種の天蚕による養蚕について考察したように(文献3)、古代の政治、経済、宗教の研究にはタンパク質の生物種も考慮すべき要素となると考えて、この研究を「タンパク質考古学」と名付けました。

膠の強い粘着性が、3本の長い紐状のコラーゲン分子が螺旋状に絡まり合った三重鎖構造で説明できることは、最近の化学の研究でようやく明らかにされたばかりです。ウシの皮からとれるこの粘着物質に着目し、おそらく何世代にもわたる試行錯誤の末にそれを接着(固着)材として完成させた古代文明の水準の高さは驚くばかりです。私たちは古代の膠を分析した結果、この三重鎖構造の中でも特別に分解し難い部分と、逆に経年劣化が起こりやすい場所をそれぞれ数カ所特定し、コラーゲンの分解の度合いから試料の製造方法や古さ、保存環境などを読み取る方法の可能性を見出しました。古代の動物の種類を特定し、進化の過程を考古資料中のタンパク質の質量分析によって解き明かすZooMS法を提案したマンチェスター大学(英国)のマイク・バックレイ博士が、昨年の8月末に京都で開催された国際考古学会に参加するために来日しました。その際に、私たちは「タンパク質考古学」とZooMSについて研究室で話し合い、今後の共同研究について打ち合わせをしました(右の写真)。奈良から出発した考古資料中のタンパク質探しは今や数千年前のペルシャやエジプトまで来て、さらに地域と年代を拡大しつつあります。普通なら到底手にすることのない数千から数万年前の遺物の中にかろうじて残ったタンパク質を様々な化学的な実験方法を駆使して分析していると、古代文明の一端が見えてくるという不思議に今、取り憑かれています。

謝辞:資料とご助言をいただいた関西大学化学生命工学部・荒川隆一教授と関西大学文学部・吹田 浩教授(エジプトの彩色壁画片)、筑波大学人文社会系准教授(バーミヤン大仏彩色壁画片とローマ・エジプト時代の宗教画の画材片)、および奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長・小池伸彦先生(平城京跡の墨)に深く感謝いたします。また実験の多くは河原一樹・大阪大学大学院薬学研究科助教と深草俊輔・元奈良女子大学古代学学術研究センター特任助教によるものです。

参考文献

1.深草俊輔,河原一樹,小池伸彦,舘野和己,中沢 隆,「質量分析法による平城京跡出土の墨に残存するウシ膠コラーゲンの同定」古代学(奈良女子大学古代学学術研究センター)6, 35-39, 2014.
http://nwudir.lib.nara-wu.ac.jp/dspace/handle/10935/3614

2.河原一樹,中沢 隆,川ア英也,アフメド・シュエイブ,アーデル・アカリシュ,吹田 浩,荒川隆一「エジプト壁画中に存在する膠のコラーゲンの質量分析法による同定」Semawy Menu (Restoring Monuments)(関西大学文化財保存修復研究拠点)4, 227-234, 2013.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I024354783-00

3.中沢 隆「纒向遺跡の絹が語る古代日本の養蚕」(特集・化学で迫る邪馬台国の謎)化学 (京都化学同人)68, 12-16, 2013.
http://www.kagakudojin.co.jp/kagaku/web-kagaku03/c6810/c6810-nakazawa/_SWF_Window.html

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