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抗精神病薬クロルプロマジンは急性白血病の治療薬となりえる
―風が吹けば桶屋が儲かる?―


キーワード:白血病、抗精神病薬、細胞内物流機構


[ リリース: 2020.12 ]
奈良女子大学理学部 化学生命環境学科 生物科学領域 渡邊利雄

 皆さんはX2 + Y2 = Z2が成り立つピタゴラスの定理はご存知ですよね。ところが、フェルマー予想(すでに証明されて定理ですが)をご存知でしょうか。なんとXn + Yn = Znはn=3, 4, 5のnは存在しないというものです。この証明には400年以上かかりました。あまり証明ができないので、数学的な意味はない単純なパズルと思われていたものが、フェルマー予想を証明することで無関係と思われていた数学の2つの全く異なる分野(楕円方程式とモジュラー形式)が、実は深く関係していることが明らかになったのです。科学のだいご味である、異なる世界を繋ぐ「新しい橋」の発見でもあったのです。
 生物学でもこのように、それまで考えられてもいなかったものが結びつくことが度々あります。たとえば、今では私たちの遺伝情報を担う物質は「核酸」DNAであることは皆さんご存知ですが、ほんの100年前は、タンパク質こそが遺伝情報を担っていると期待されていました。ねばねばして扱いにくく個性がないように見える核酸が遺伝物質であるということは、教科書に書かれているアベリーの肺炎双球菌の実験や、ハーシー・チェイスのファージ感染実験の成果が出るまでは、なかなか認められませんでした。

 長年研究をしていると、小さいですが、思いがけずこのような経験をします。奈良女子大に赴任して早や15年になろうとしています。赴任後2年目に卒研配属された鈴木さんと細々と始めたクラスリン集合因子遺伝子(CALM)に注目した研究から明らかにできた、細胞内物流機構と白血病との関係がきっかけとなり、近畿大学医学部の血液内科の先生たちとの共同研究へと発展しました(引用文献1)。2010年の構想から10年近くかかりましたが、2020年の7月に、抗精神病薬クロルプロマジン(CPZ)は急性白血病の治療薬となりえることを報告することができました。このことは、これまで疫学的に「CPZで治療している患者のがんによる死亡率は低い」とは言われていたものの、はっきりとはされていなかったことです。マウスの実験と、既存薬の患者さんへの応用を伴った大変興味深い結果だと高く評価され公表となりました(引用文献2)。今回はこの研究について簡単にご紹介させてください。

 抗精神病薬のクロルプロマジン(CPZ)は1950年に開発された最初の抗精神病薬で、既に50年以上も統合失調症を含む精神疾患治療に使われている薬です。世界保健機関の必須医薬品のリストに載っていて、健康システムで必要とされる「最も安全で最も効果的な薬」として、精神医学史の大きな進歩の一つとされています。CPZは精神疾患治療に加えて、ポルフィリン症、破傷風、重度の不安、精神病性攻撃性、難治性のしゃっくり、重度の吐き気/嘔吐、不眠症、重度の掻痒などの治療にも用いられます。
 このような多彩な治療効果のメカニズムを探るために、CPZがどのような働きをするのかの解析もなされています。これまでの研究から、神経系の重要な受容体を含む、ドーパミン受容体、セロトニン受容体、ヒスタミン受容体、アドレナリン受容体、ムスカリン性アセチルコリン受容体の機能を阻害します。さらに、CPZ はクラスリン依存性の輸送小胞形成を阻害するという報告もありましたが、その後の展開は報告されていませんでした。
 さらに、疫学調査からCPZで治療している患者のがんによる死亡率の低さが明らかとなり、CPZに抗がん効果があるのではないかと推定されていましたが、科学的な証明はなされてはいませんでした。

 鈴木さんはCALM遺伝子がAF10遺伝子と融合したCALM-AF10が白血病を引き起こすことに着想を得て、「細胞内物流機構と白血病とに何か関係」があるのではないかと仮説を立て、CALM遺伝子欠損マウスを作り出し解析しました。詳しくはこのHPの2015年の私の原稿を参照してください。http://www.nara-wu.ac.jp/rigaku/Research/201508.html。
 その際に共同研究を行った田中先生、頼先生(現・近畿大学医学部血液内)とこのアイデアをさらに発展させ、正常血液細胞内でのリン酸化酵素活性を持つ受容体の細胞内分布への関与の結果を公表しました(引用文献1)。その後、このアイデアを白血病治療に広げようと研究を続けました。治療を念頭に置くと、遺伝子欠損というよりは、薬剤による細胞内物流機構のかく乱・阻害を用いた解析を目指し、その中で「CPZ はクラスリン依存性の輸送小胞形成を阻害するという報告」に注目して実験を行いました。

 白血病細胞は原因遺伝子の機能に依存して増殖します。白血病の原因である恒常的なチロシンキナーゼ活性を持つKITやFLT3の変異型受容体を持つ白血病細胞は、CPZで処理すると増殖阻害が引き起こされ死亡することを見つけました。そこでCPZの働きのうち「何が」白血病細胞の増殖を抑えたのかを探りました。
 CPZ以外のドーパミン受容体とセロトニン受容体の阻害剤を用いると、CPZのような白血病細胞の増殖阻害効果は見られないことから、これらの受容体を介した作用ではないと考えられます。一方、CPZ はクラスリン依存性の輸送小胞形成を阻害するという報告に着目して、白血病細胞でクラスリン集合因子のCALMの発現を抑制させる処理(CALMノックダウン法)を行うと、CPZ処理と同様に増殖阻害が引き起こされ死亡しました。またCPZ処理した細胞内では、CALMのmRNA量は変わりませんでしたが、タンパク質量は大きく減少すること(翻訳後修飾)が分かりました。さらにCPZ処理とCALMノックダウンとでは、白血病を引き起こすKITやFLT3の変異型受容体の細胞内の局在がおかしくなっていました。
 これらのことから、CPZはCALMタンパク質の翻訳後修飾を介して、その量を減少させることでCALMの機能低下を引き起こし、恒常的なチロシンキナーゼ活性を持つKITやFLT3の変異型受容体が正しい場所で働けなくなるために機能が阻害されたことが推定されます。
 さて、これら細胞レベルの減少はマウス個体あるいはヒトで成り立つのでしょうか。詳しくは論文を参照していただきますが、マウスでは移植により白血病を引き起こした後にCPZを投与すると白血病が直ります。またヒトの臨床例では、CPZ投与により白血病細胞が激減することが判明しました。残念ながら、患者さんはこの後別の原因でお亡くなりになり、CPZで白血病が本当に直るのかについては今後の臨床研究にゆだねるしかありません。しかし、CPZは既に安全性が判明している既存薬ですので、有望な治療法の可能性は高いのではと期待しています。


図1



図2



 CPZは世界保健機関の必須医薬品のリストに載っていて、健康システムで必要とされる「最も安全で最も効果的な薬」として、精神医学史の大きな進歩の一つとされています。
 この治療効果リストに「KITやFLT3の変異型受容体による急性白血病」の項目が加わる日も来るのではないかと期待しています。細胞内物流輸送機構を遺伝子欠損マウスで解析するという超地味な研究が、抗精神病薬のクロルプロマジン(CPZ)と急性白血病の治療という、関係性が予想されてはいなかった分野を結びつけ、人類の健康に寄与するかもしれないなあと、夢想する毎日です。

 毎回論文の公表には苦労するのですが、この論文でも様々な体験をさせてもらいました。
 最初の投稿時に評価してくれたエディターが、1回目の改定作業中に「今度子供が生まれるので、新しいエディターに代わるから」との連絡があり、そんなこともあるものだと感心しました。さらに不幸なことに、最初の投稿時に評価してくれた査読者と連絡が取れなくなった(?)ということで、1回目の改定原稿は3人目の新しい査読者が加わりました。自信をもって臨んだ1回目の改定原稿への返答には、改定された原稿には新しい重大な欠陥があり、査読がある科学雑誌でこの論文を受理するところはどこにもない(原文まま:In addition, the revised version of the manuscript contains a number of new serious flaws which are unacceptable for any peer-reviewed journal.)とまで酷評されました。共著者の中には、ここまで言われてまで公表したくないとまでいう方もいましたが、よく読むと、「この結果は削れ」、「この論文を参照しろ」と再三なるほどと思える的確な指摘もあり、私と田中先生とで皆を説得しながら実験を行い2回目の改定原稿を送ると・・・新型コロナウイルスの影響で受け取ったとの返事から4か月間全く音沙汰なしで、さすがに不採択を覚悟しました。
 受理のメールは突然来たので、初めは迷惑メールかと疑ったしまったことも、今となっては楽しい思い出です。また少し人間として成長できたかなと勝手に思っています。


引用文献

(1) Shinya Rai, Hirokazu Tanaka, Mai Suzuki, Honami Ogoh, Yasuhiro Taniguchi, Yasuyoshi Morita, Takahiro Shimada, Akira Tanimura, Keiko Matsui, Takafumi Yokota, Kenji Oritani, Kenji Tanabe, Toshio Watanabe, Yuzuru Kanakura, and Itaru Matsumura (2014) Clathrin assembly protein CALM Plays a Critical Role in KIT Signaling by Regulating Its Cellular Transport from Early to Late Endosomes in Hematopoietic Cells.
PLoS ONE  DOI: 10.1371/journal.pone.0109441.
(2) Shinya Rai, Hirokazu Tanaka, Mai Suzuki, J. Luis Espinoza, Takahiro Kumode, Akira Tanimura, Yasuyoshi Morita, Yoichi Tatsumi, Takafumi Yokota, Kenji Oritani, Toshio Watanabe, Yuzuru Kanakura, and Itaru Matsumura. (2020) Chlorpromazine eliminates acute myeloid leukemia cells by perturbing subcellular localization of FLT3-ITD and KIT-D816V.
Nature Communications 11(1):4147. doi: 10.1038/s41467-020-17666-8.

(下線は本学所属者)